わが父が我に残せし 明治版牧野図鑑を至宝とぞする
にしきまんさく牧野図鑑に示したり 捻(ひね)れて小さく華麗なる花
父はいつも書斎の机の脇に大言海と牧野図鑑をおいて、日がな一日、覗いていました。
「日本植物図鑑」(牧野富太郎著・北隆館)。私も父から貰い受けて今も持っていますが、
初版は大正14年とあり、明治版というのは父の思い違いかもしれません。
どの歌集にもよく出てくる植物は仏桑華(ハイビスカス) 、曼珠沙華など。
父は版画歌集「朱(あけ)」を出版するなど原色の赤に魅かれていました。
朱の花弁燃ゆるが如き仏桑華 うつうつとせる曇りなれども
光浴み朝朝ひらく仏桑華 眺めつつ過ぎし一夏(いちげ)なりにき
曼珠沙華曇天下この土手に咲き 妖気帯びたる深きくれなゐ
曼珠沙華ひときは深きくれなゐが草むらに見ゆ曇天の下
晩秋の光を浴びてくれなゐの黒きまでなる鶏頭の花
昭和9年 (1934)9月21日の室戸台風で、建って間もない「いるかや」は
暴風雨と高潮に見舞われ、大きな被害を受けました。
両親はまだ一歳の私を抱きかかえて、命からがら高台の家に避難したそうです。
台風の襲来に懲りた父は入江に面した家のまわりに風除けの松を何本も植える
など、風に関心を持つようになりました。
お祭りなどの神事で漁村に出かけた折は風に関する方言を聞き出して、メモに
残していました。例えば…
アイノカゼ…北北東の冷風である。また、強風に近い場合もある。終日吹く。
風のたちは北風とはちがう。北風はむしろ北北西から吹き荒れる。風の方位考は
大切であるが、風の「たち」を考える事が必要であろう。略して「アイ」。
タバカゼ…漁夫が海上で最も警戒する風の一つ。突風で台風並みに強い。
父は特にアイノカゼの歌を多く詠んでいます。
絶え間なきひびきとなりてこころよし 立冬すぎて吹くアイノカゼ
ひょうひょうと彼方(あちら)の稲木も此方(こちら)も鳴る アイノカゼ吹きある時は弱く
路傍の草 黄の花花の輝ける晴天にして吹くアイノカゼ
アイノカゼ岬を越えて吹き来り いよいよ紺の色深き入江
昭和40年代まで「いるかや」前は舗装されておらず、風が吹いたり車が通る度に
土埃が舞い上がりました。
わが家の前の街道に埃あがりアイノカゼ吹く一日なりき
「自分は自然の一部である。また、自分は自然の裡(うち)にある」という牧水の考えに共鳴。
晩年、父は歌友の車に乗せてもらって、若狭から琵琶湖周辺へよく出かけていましたが、
その歌友に「同じ道でも四季によって感動が違う。去年と今年、昨日と今日、又
朝と夕暮とでも異なる。毎日毎日が新鮮である。」と語っていたそうです。