加藤唐九郎が本多静雄氏から見せられた古い陶器の破片を専門家の小山富士夫氏に
見てもらった一方、本多氏もこの猿投の古い窯跡の研究は、専門家に任せるべきだ
と考え、東大教授の三上次男氏のところへ行って、 無理やり、飛行機に乗ってもらい、
小牧空港から猿投の発掘現場へ案内したという。
三上教授は破片を見て、
「 今まであまりみたことの無い破片であるけれども、強いていえば、これは須恵器手
というほうが正確かも知れない。」
と言ったそうです。
「 須恵器手 」( すえきて ) は " 須恵器に準ずる " " 須恵器に近い " ということですが、
ここでまた、日本の陶器のことにつて、専門家から聞いた話などを参考に私なりに
触れてみます。
釉薬 ( うわぐすり )を使わない素焼きの土器には縄文土器、弥生土器、土師器 ( はじき )
、須恵器 があります。
弥生土器までは、野焼きだったのが、須恵器になると、アナ窯を使うようになります。
丘陵地に穴を掘るか、斜面に長い溝を掘って、天井をつけ、一番上に煙出しを設けて、
下から火を焚くやり方です。
5世紀頃、古墳時代後期に朝鮮から伝わったとされています。
土師器は弥生土器の系列にあります。
いずれも、壺、椀 ( わん )、杯、甕 ( かめ ) などですが、使われたのは、社寺か貴族に
限られていました。
奈良時代すでに、唐三彩など釉 ( うわぐすり )を人工的にかけた陶器も一時的に使用
されたり、平安時代に猿投窯で焼いた陶器が出回っても、それと平行して須恵器や
土師器は平安、鎌倉時代までも使われていたようです。
その間 、庶民はどんな器を使っていたのか。万葉集にある皇子が旅先で "我が家に居れば
ちゃんとし食器 ( 金属製か陶磁器 ) に飯を盛るが、旅先なので椎の葉にした"と言って
いるように、庶民は大きな木の葉っぱか、せいぜい木製の椀などを使用していたと
思われます。
話を 「 須恵器手 」 に戻します。
" 須恵器に準ず "ということは、須恵器のようにアナ窯で壺などを素焼きにしますが、
たまたま、燃焼中に灰が科学反応を起こして溶けて、陶器の表面につき、釉をかけたように
見える自然釉 ( しぜんゆう )から始まって、明らかに人工的に釉をかけた焼き物まで
含まれることが、古い窯跡を発掘するうちに、わかってきたわけです。
奈良時代後半になると、窯の構造が改良され、より高い温度で焼くことができるようになり、
特に窯の焚き口近くで焼かれたものは釉がよくかかった陶器が出来上がりました。
更に、平安時代に入ると、ワラなどの植物を燃やした灰を水に溶かし、焼く前の陶器にハケ
で塗って、窯で燃焼すると、白灰色に出来上がるようになったということです。
これを 「 瓷器 ( しき ) 」と言うそうです。( 「 猿投窯 」愛知県陶器美術館 2018発行 を
参考 )
灰釉多口瓶 ( はいゆうたこうへい ) 重文
平安時代初期 ( 8世紀末 )
愛知県陶磁美術館 蔵 ( 本多静雄氏 寄贈 )
以上のようなことがわかったのは、本多静雄氏が初めて陶器の破片を見つけたのがきっかけに
なって、名古屋大学考古学研究室の澄田正一氏と楢崎彰一氏による研究の成果でした。
つまり、古墳時代から奈良時代、平安時代を経て鎌倉時代までに至る陶器史が解明され
たのです。
また、猿投窯が古い常滑焼、さらに古い越前焼まで影響を与えていたこともわかって
きたのでした。 つづく
お知らせ
今日午後4時半からNHKのEテレで「テレビと伊勢湾台風」という番組が放送されます。
このなかに竹中さんの証言もあります。是非、ご覧ください。(遅足)