575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

猿投窯 ( さなげよう )の発見 ⑴  竹中敬一

2019年09月07日 | Weblog


本多静雄氏は郷里の愛知県豊田市の平戸橋に新居を構えてから、日本電話施設を

設立するなど実業家として活躍する一方、古い陶器の収集や研究を続けました。

昭和25年、鎌倉時代後期と思われる灰釉のかかった花瓶を入手するまでは前回

お伝えしましたが、この花瓶がどこで作られたものか不明であったことから、近くに

住む知人らにこれに似た灰釉のかかった陶器の破片が見つかったら知らせるよう

依頼していました。

昭和29年、ある知人から灰釉陶器の破片が届く。灰釉は確かにかかっているが

唐九郎から入手した花瓶とは系統が違っているように思えたため、早速、現地へ

行ってみることにしたという。

その場所は愛知県みよし市の黒笹地区。加藤金吉さん所有の畑からでした。

「 … そこは、狭い芋畑で、その畑の中に、小さな陶器の破片が散らばっていた。

しかも、驚くべきことに、畑の土は真っ黒で、明らかに古い窯址であることを示して

いるのだ。これが後に猿投古窯黒笹第一号と命名された窯址である。」( 本多静雄

著 「 青隹自伝 」より )



写真は愛知県みよし市黒笹の猿投古窯跡 。

今は宅地造成中で立ち入り禁止になっています 。


私も最近 、この黒笹の現場へ行っみましたが、そこは、私の住む日進市に隣接する

東名高速道路のすぐ近く。かっては愛知大学の敷地内でしたが、今は宅地造成の真っ

最中で立ち入り禁止になっていました。


本多静雄氏はこの黒笹一号に続いて、近くの丘陵地から同じような窯跡を次々に見つけ

出して発掘し、それらを加藤唐九郎に見てもらった。

すると、唐九郎は突然 、大きな声をあげて叫ぶようにこう言ったという。

「 これこそ自分が永年探していたものだ。この破片のなかに、かすかに釉薬をかけたと

思われるものがある。鎌倉時代 の釉薬が充分にかかっているものには、はるかに及ば

ないが 、自分は瀬戸の釉薬の初源がどこかになければならないと考えて、ずっと以前

から心にかけて求めていたものだ。その初源が こんなわれわれの足元に転がっていよう

とは思わなかった。」( 「 本多静雄 著 「 青隹自伝 」より )



愛知県豊田市平戸橋の豊田市民芸館に展示されている猿投窯 。

いずれも、本多静雄氏が黒笹地区で収集したもの 。


この猿投古窯の発見が古墳時代から奈良、平安時代を経て鎌倉時代に及ぶ日本陶磁史の

解明に繋がっていくわけですが、この辺は 次回お伝えします。



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