575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

河骨や天女に器官ある如し  永田耕衣

2006年05月28日 | Weblog
河骨はスイレン科の水生植物。
茎を長くのばし、水上に黄色い花を咲かせる。
これは長野県安曇野の満願寺に咲いていたものです。

永田耕衣は難解句が多いです。
本人も早い時期には、難解と言われ悩んだそうです。
しかし石田波郷から、
「只ひとり理解者があればよいではないか」と言われて
悩みは吹っ飛んだそうです。
(この時、波郷さんが違う返事をしていたら
今日、私が悩むことはなかったかも。)

さて、この句は、
河骨や、と切れていますから、
河骨をじっと見ているか、想っている。
すると、それは、本来、肉体を持たない天女が
器官を持っているように感じられる。
という意味でしょうか。
私、河骨を見ても、そんなイメージは全然。

先生にお尋ねしたら、河骨という表記にそういう
イメージを喚起するものがあるかもとのこと。
たしかに河の骨って、河に骨なんかないのに、
奇妙なイメージですね。
河に骨があったとしたら、天女に器官があっても・・・
おかしくないか?
実際の花、そして漢字の表記からの連想かも。

この句をじっと見ていたら、ダビンチ・コードを思い出しました。
神聖なるイエスが肉体の交わりをして子供がいた。
この聖と俗。天上的なものと肉体的なもの。
そういう世界観が背景にあって、この句は生れたんじゃないでしょうか?

先生曰く、河骨と見ると、この句を思い出しますよ。
確かにインパクトのある句です。
どうして、こんな句に引っかかりを感ずるんだろう?

               (遅足)






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1 コメント

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オフィリアの河骨となるしじまかな (愚足)
2006-05-28 23:17:08
 この句の話を聞いてから、頭の片隅にあった一つのイメージ。



 気がつきました。 ミレイのオフィリアの絵でした。



 彼女を囲む花はとりどりでしたが、河骨もあったような気がします。

 でも あの絵に続きがあったら、花々は流れ去り、オフィリアは、沈み、再び彼女が川面に浮かび上がった時、周りは河骨だけが咲き誇り、溶けゆく身体を取り巻いていたかもしれません。

                  
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