575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

敬老や行くも帰るも真っ平だ   朱露

2006年09月16日 | Weblog

帰ろうをケーローと言う土地で育った。
帰るってどこへ? 故郷などもうない。
したり顔の、甘え顔のお兄さんたちよ、
この大人しい男をどこへ連れて行くの?




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歳祝いに、歳時記をいただきました  (鳥野)

2006年09月15日 | Weblog
歳時記も持たず、俳句に立ち向かおうとい不心得者に、待望の書が贈られたのです。
それも、垂涎の「角川俳句大歳時記」が、です。

早速開いてみて驚きました。季語がこんなにも多く、そのうえ例句の膨大なことに。
”月”を引いてみると約150句、傍題も入れると20ページ余。おいしそうだからと、”柿”の項を見れば、基本季語の部だけで50句あまり。

句作の心得の第1条に「手垢のついた言葉は避ける」とあるのだけれど、いったいどうすりゃいいの。一丁前に悩んでいます。

今更ながらに難しい季語。しかし俳句とは?という問いには明確に「575に当てはめて、季語を入れる短詩」という答え。
”自由律、無季にもそれなりのよさはあるけれど、初心者はまず、有季・定型から”という基本から出直さなければ。

そういえば、この会も「575の会」でした。フンドシ締め直します。?。

 大歳時記・秋の巻頭句

   秋風の吹きわたりけり人の顔  鬼貫

   とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな  汀女
                           

                     
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朱雀門

2006年09月14日 | Weblog
奈良の薬師寺に行って来ました。
萩の花が咲き乱れ、広々とした境内は見事な金堂や
白鳳時代の東塔、昭和56年に復興された西塔などがあり
壮麗な建築物に見とれてしまいました。

帰りに朱雀門に立ち寄りました。かつて平城宮のあった正門です。
朱雀門から眺めるとそこはなんにもない、だだっ広い都の跡地。
近鉄電車が都の跡地を横断しているのが妙に心に残りました。
1300年前の奈良の都はどんな様子だったのでしょう。
しばしタイムスリップした不思議な感覚に襲われました。麗
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解らぬ句の草田男にくし蚊のにくし  松崎鉄之介

2006年09月14日 | Weblog

俳句会館などの建設に尽力した俳人。
その人にして解らない句があるという。
それを句にしてしまう可笑しさ。
蚊のように小うるさい奴め、
と、苦笑いしている顔が浮かんできます。

 寒夜わが馬鹿うべなひてはげむかな

 馬鹿も一心草餅を売る店に

自分をちょっと突き放して見る。懐の深い、余裕のある句。

 信篤き国に来たりぬ花楷樹

戦争中に兵士として戦った中国の地を訪れた時、
暖かく歓迎されたことを詠った句です。

                    (遅)




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一人ヅツ一人ヅツ敵前ノ橋タワム  西東三鬼

2006年09月13日 | Weblog

靖国神社に参拝をすませた人達は、遊就館に向かいます。
入場料800円。
明治15年に軍事博物館としてスタート、
ゼロ戦や戦車の実物の展示、ヤスクニ・グッズ
販売コーナーなどがありますが、
メインは戦争の展示。
戊辰戦争から太平洋戦争までの歴史が、
写真やパネル、映画などが紹介されています。

最後の部屋には、軍神の写真がずらりと展示されていました。
ひめゆり記念館でも女学生の写真が並んでいました。
写真というメデイアは、死者を甦らせる力を
持っていると実感しました。

駆け足で一回りした印象は、
日本は明治維新の1868年から敗戦の1945年まで、
ずっと戦争をしていたんだ!というものでした。
ひとつの戦争が次の戦争を呼び、その戦争がまた、次の戦争の原因となる。
そして1945年の破局に至る。

戦後のおよそ60年を、コインの表とすれば、
そこには平和の姿が描かれていますが、
裏は悲惨な戦争だったのです。
昭和天皇の服装は、戦後は背広、戦前は軍服でした。

昭和12年の上海事変当時のニュースを再編集、映写していました。
日本は、西欧から石油などの軍事物資が輸入できなくなるために
宣戦布告をしませんでした。事変と呼ばれる由縁ですが、
映像が伝えているものは、まさに中国との戦争です。

戦火を逃れて、中国の人々が難民となって
避難してゆく様子が映し出されます。
それに続いて次の様なコメントが続きます。

 日本軍の所為か?
 戦火のためか?
 なぜ?
 蒋介石の失政である

このロジック、どこかで聞いたことがありませんか?

     かん
  

この映画が日本国内の映画館で上映されていた頃、
俳句の世界では、積極的に戦争を詠もうという声があがりました。
「新興無季俳句は、その有利な地歩を利用して、
千載一遇の試練に堪えてみるのがよかろう。
銃後においてよりも、むしろ前線に於いて
本来の面目を発揮するのがよかろう」
と山口誓子は「俳句研究」に書いています。

そしてニュース映画や報道写真を素材に
次々と戦火想望俳句が詠まれます。

  一人ヅツ一人ヅツ敵前ノ橋タワム 西東三鬼

  一兵士はしり戦場生れたり    杉村聖林子

  そらをうち野砲砲身あとずさる  三橋敏雄

                    遅足



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三味線の上りてゆくや九段坂  遅足

2006年09月12日 | Weblog

先日、十数年ぶりに九段坂を上って靖国神社に行ってきました。
土曜日の昼下り、途切れることなく坂を上って行く人々。
家族連れ、若いカップル、熟年の男性、中学生らしい二人連れ、
どちらかといえば、女性より男性が目立ちました。
観光バスから男性ばかりの一団が降り立つと、ちょっと異様な感じが
するほど、昔とは違って、観光地の雰囲気がありました。
坂を上り切った所に石灯籠があり、三味線を弾いていた男性に
「ずいぶん人が多くなりましたね」と、言えば
「ありがたいことです」との返事。

若い白人が感想をメモする姿もあります。
マスコミの取材も多いらしく、必ず社務所に事前に届けて欲しい、
という立て札も、ちゃんと立っています。
手水鉢の近くに、机を出して、署名を集めている人がいました。
近づいて見ると、中国の南京虐殺記念館に展示されている
二人の軍人の写真を撤去して欲しいという内容でした。
二人は南京事件とは関係がないということのようでした。
茶店には「純ちゃん饅頭」も売られていました。純ちゃんの参拝した
8月15日は大変な人出だったそうです。

神殿のご挨拶をして、話題の遊就館に。 続く。
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草露白                      愚足

2006年09月11日 | Weblog
今日9月11日は、「白露」十五日間の4日目で白露の初候に入ります。

白露   初候 草露白 草に降りた露が白く光る
十五日間  次候 鶺鴒鳴 鶺鴒(せきれい)が鳴き始める
    末候 玄鳥去 燕が南へ帰って行く

秋分     初候 雷乃収声 雷が鳴り響かなくなる
     次候 蟄虫坏戸 虫が土中に掘った穴をふさぐ
     末候 水始涸 田畑の水を干し始める

 ものの本によると、「処暑」「白露」「秋分」のような二十四節季を
また五日ずつに分けて「白露」の初候・次候・末候として「草露白」
「鶺鴒鳴」「玄鳥去」等と命名してあるそうです。
 自然を観察したネーミングがいいですね。

 所で次回の句会9月20日は「白露」の「末候」で玄鳥去ですね。

  白露消え句想も消えし残暑かな    愚
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俳句の読み    遅足

2006年09月10日 | Weblog
 
   終戦忌職員室の謄写版  江本絵門

最初、この句は、なにも引っかかりがなくて
見過ごしていました。
職員室の謄写版というフレーズから、
昼下りの職員室、窓際に置かれた謄写版という
一枚の絵を呼び起こしてくれましたが、
それ以上には広がりませんでした。

数日後、もう一度、読み直しました。
すると、謄写版を刷る先生の姿が立ち上がってきました。
そのとたん、句が動き出したのです。
戦争が終って、先生は、昨日とは180度違うことを
教えなければならない・・・
どんな気持ちで謄写版を刷ったのだろうか?
プリントを貰った子供たちは、それをどう読んだのだろうか?
そう想像すると、一句が急に大きくなったのです。

俳句の読みは難しい!   
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九月九日は重陽

2006年09月09日 | Weblog
三月三日は雛祭り。五月五日、端午の節句。七月七日は七夕。
これに九月九日の重陽と正月七日を加えた五つ。
これを五節供(節句)というそうです。
もともと中国に始まったものとか。
節供とは、この日、天皇が召し上がる食べものや飲みもののこと。
正月七日は正月の膳。三月三日は草餅。五月五日は粽(ちまき)。
七月七日は索餅(ちくべい)。小麦と米の粉を練って縄のかたちにねじったお菓子。
九月九日は菊。宮中では菊の宴が催され、群臣は菊の酒を頂いたといいます。

菊の日。今日の菊、とは、九月九日の菊のこと。
菊の酒。この日に長寿を願って飲む酒。

重陽の朝封切りし菊の酒  西山小鼓子

                 (遅足)


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ふたたび、特攻花

2006年09月08日 | Weblog
道端に一輪咲いていた黄色の花、コスモスに似た花形の、オオキンケイギク。またの名が「特攻花」です。
若き兵らが片道だけの燃料で翔びたっていった鹿屋飛行場に群生していたのを、誰言うとなく名付けたのだそうです。

いま一つの「特攻花」は、喜界島の海軍航空隊基地に咲くテンニンギク。こちらは証人もあって、隊員の一人が「この花が好きだから」と敷地の片隅に植えたのが元と知られています。

ところが、異議あり、の声。
「大君のために咲き、潔く散るのはサクラ」のほかにはない。まして外来種の花などは、もってのほか、と。

恐ろしい足音が近づいています。

先日掲出され、心打たれた”母さんの・・・”の句とは比べるべくもありませんが、

 之でよし百万年の仮寝かな
 すがすがし暴風のあとの月清し

大西瀧治郎の句です。
大西は源田実や旧伏見宮博恭らとともに、体当たりという非道な戦術を考え出した元凶。許せない。

           鳥野
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東京タワー

2006年09月07日 | Weblog
去年、東京に行ったとき、初めて東京タワーに上りました。
東京はビルも多いけど緑も多いな~という印象でした。

さてリリー・フランキーさん著の「東京タワー」は読まれましたか?
今年、私が号泣した一冊です。イラストレーターのボクとオカンの関係を繊細につづった自伝。
オカンをガンで亡くしたボクは、生前一緒に行くという約束を果たせず、
位牌を持って東京タワーに上ります。そこでボクは気づきます。

「地上にいるときはわからなかったけど、東京にはお墓がいっぱいあると」
東京の風景全てが巨大な霊園に見えたと言うくだり。
東京に憧れ、ふるさとを捨ててやってきた人々の夢、希望、悔しさ、悲しみを眠らせる大きな墓場に見えると。

大好きなオカンを亡くして途方に暮れるボク。
人が母親から生まれ、全ての人が母親との別れを経験する。
交差点で行き交う人々を眺めながら、
「みんなその恐怖と戦い頑張っている。みんな、すごい、、、。」と思うボク。

母親の存在は偉大。紀子様のご出産にわく日本ですが天皇も一人の母から生まれるのですものね。どんな人生が待ち受けるかわからないのになぜか嬉しい生命の誕生。さて、40年後の日本はどんなことになっているのでしょう。  麗
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蝉しぐれ空襲警報発令中   江本絵門

2006年09月06日 | Weblog

家の庭に畳一枚くらいの即席の防空壕を両親が掘った。
雨が降るとすぐ水浸しになってしまう。
それでも空襲警報が出るとその中に逃げ込んだ。
じめじめとしたカビくさい匂いの中で
母の胸に抱かれて・・・


61回目の「敗戦記念日」を迎えた。
俳句をはじめた私としてはそれなりの記憶を
十七文字に託して残しておかねばと、詠んでみた。

葱坊主国民学校三年生

炎帝や玉音放送地を這へり

終戦忌職員室の謄写版

            (天邪鬼より)

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山鳩よみればまはりに雪がふる  高屋窓秋

2006年09月05日 | Weblog

   特攻はなぜ行われたのか?

1944年の後半には、軍の上層部にも勝利の見込みのないことは
はっきりと認識されていた。
これ以降も戦闘が行われたのは何故か?
どこかの戦線で局地的な勝利をおさめ、降伏の条件をよくする。
この一点で戦闘は継続されたという。
しかし米軍に太刀打ちできる戦闘能力は残っていなかった。
そこで特攻戦法が採用された。
1944年10月に、はじめて特攻隊が出撃した。
表向きは現地の発案、パイロットたちの志願によったものとされたが、
実際は、海軍の中央で決めたものであったという。

   士気の低下

特攻戦法は仕官たちにどう受け止められていたのだろうか?
あるパイロットは戦後に次のように回想している。
「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
神ならぬ身である。生きる道があってこそ兵の士気は上がる。
表向きは元気を装っているが、かげでは泣いている」

   特攻隊に志願したのは?

航空隊の幹部や兵学校の仕官、古参パイロットは
特攻に出ることは少なかった。
学徒動員の予備士官や、予科練出の少年航空兵が多く選ばれた。
ある航空隊では、こうした状況に疑問を持った海軍少佐が
司令の大佐にこう主張した。
「もし行くんであったら、まず私が、隊長、分隊長、
兵学校出の仕官をつれて必ず、敵空母にぶち当たってみせます。
最後に司令も来てくれますね。
予備仕官や若いのを絶対に出しちゃいけません」と。
この後、この隊では特攻出撃は行われなくなったという。

           「民主と愛国」より。

この本を読んで考えこんでしまいました。
特攻で散っていった一人一人の気持ちは純粋であったでしょう。
しかしその純粋さに涙している私で良いのだろうか?

                       遅足

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これがなあ、母さんと乗る戦闘機     のっぽ飛行兵

2006年09月04日 | Weblog
俳句誌「俳壇」八月号に載せられた脇本星浪氏の一文に心打たれました。

 毎日の奉仕作業の中で、兄貴みたいな特攻飛行兵と知り合う。「のっぽ飛行兵」と呼ばれた四国出身の兵士はある日、僕たちを案内して自分の愛機のもとへ連れて行った。そして戦闘機を指しながら、
 
 「これがなあ、母さんと乗る戦闘機。」 とぽつりと話した。

 俳句などまったく知らなかったが、なんとなくリズムがいいなと、頭に残る言葉になった。一人以外に搭乗席などない戦闘機。 お母さんの写真でも貼っていたのか、ポケットに忍ばせていたのだろうか。と星浪氏は考える。          そして五・七・五のリズムを持つ、無名兵士の独り言を一句として記念に残したいとも書いていました。 
                      愚足
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禍いが軒を漏れ出て百日紅  朱露

2006年09月03日 | Weblog

幸せな家は似ているけど不幸な家は皆違う、と
トルストイが言った。幸せな家はつまらない。
幸せだなあ!というセリフしか言えないから。
不幸は個人的で普遍的だから汲めど尽きせぬ。 



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