37:赤坂(旅宿招待)
御油から赤坂の間は1.7里で、五十三次中では最も感覚が短い。しかも、この間の街道の松並木はよく残っている。そして御油から赤坂へかけての街道筋、宿駅ともに、国鉄が街道沿いを走るようになったため、置き去られて、かえって昔の面影を最も残しているといわれ、吉田・御油・赤坂は旅の憂いさをはらす女の町としても知られ、「御油や赤坂、吉田なくば、何のよしみで江戸通い」の里謡もあるくらいで、そうした繁華を物語る家並みも今にそのまま見ることも出来る。
広重は画題を「旅宿招婦の図」として、全くの風俗がを描いている。庭のそてつの大樹を中央に、旅篭屋の情景が写実的に描かれている。前の御油は旅篭屋の前、中に入って、この赤坂の図といった感じである。旅宿の部屋の左手は旅人の部屋で、女中が二人前の膳を運んでいる。部屋の中には横になった客が一人見え、縁側に風呂上がりのもう一人の客がいる。呼ばれた按摩も来た。梯子段を下る客の足音など、慌ただしい夕飯時分の旅宿風景を見せている。また右の部屋は飯盛女の部屋で、いま身仕舞いの最中である。宿場女郎の雰囲気は、その白塗りの顔にも知られ、気分満点で、旅情のつきないものがある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
御油から赤坂の間は1.7里で、五十三次中では最も感覚が短い。しかも、この間の街道の松並木はよく残っている。そして御油から赤坂へかけての街道筋、宿駅ともに、国鉄が街道沿いを走るようになったため、置き去られて、かえって昔の面影を最も残しているといわれ、吉田・御油・赤坂は旅の憂いさをはらす女の町としても知られ、「御油や赤坂、吉田なくば、何のよしみで江戸通い」の里謡もあるくらいで、そうした繁華を物語る家並みも今にそのまま見ることも出来る。
広重は画題を「旅宿招婦の図」として、全くの風俗がを描いている。庭のそてつの大樹を中央に、旅篭屋の情景が写実的に描かれている。前の御油は旅篭屋の前、中に入って、この赤坂の図といった感じである。旅宿の部屋の左手は旅人の部屋で、女中が二人前の膳を運んでいる。部屋の中には横になった客が一人見え、縁側に風呂上がりのもう一人の客がいる。呼ばれた按摩も来た。梯子段を下る客の足音など、慌ただしい夕飯時分の旅宿風景を見せている。また右の部屋は飯盛女の部屋で、いま身仕舞いの最中である。宿場女郎の雰囲気は、その白塗りの顔にも知られ、気分満点で、旅情のつきないものがある。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』