39:岡崎(矢矧橋)
藤川から6里で、城下町岡崎へ入る。この地は東海道中でも知られた繁華な町であった。若い徳川家康の居城でもあり、「五万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく」の里謡もあるように、本多氏五万石の城を、広重も遠く描いている。画題となっている「矢矧橋」を画面の中央に描き、しかもかなり精写している。この橋は街道一の長橋で、370mあり、有名であった。橋上を大名行列が行く。遠く見えるのは本宮山、城の下に町の屋根が重なっているが、川の岸は芦萩が繁り、水は静かに流れている。
この矢矧橋の上で、豊臣秀吉は日吉丸時代、蜂須賀小六に拾われた話があり、矢矧の里には、牛若丸と浄瑠璃姫との一夜の悲恋を描いた浄瑠璃物語も残っている。また江戸から離れて、320余里、およそ十日の旅路である。この花街の女が岡崎女郎衆と謳われて有名であったのも、さこそと偲ばれる。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤川から6里で、城下町岡崎へ入る。この地は東海道中でも知られた繁華な町であった。若い徳川家康の居城でもあり、「五万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく」の里謡もあるように、本多氏五万石の城を、広重も遠く描いている。画題となっている「矢矧橋」を画面の中央に描き、しかもかなり精写している。この橋は街道一の長橋で、370mあり、有名であった。橋上を大名行列が行く。遠く見えるのは本宮山、城の下に町の屋根が重なっているが、川の岸は芦萩が繁り、水は静かに流れている。
この矢矧橋の上で、豊臣秀吉は日吉丸時代、蜂須賀小六に拾われた話があり、矢矧の里には、牛若丸と浄瑠璃姫との一夜の悲恋を描いた浄瑠璃物語も残っている。また江戸から離れて、320余里、およそ十日の旅路である。この花街の女が岡崎女郎衆と謳われて有名であったのも、さこそと偲ばれる。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』