38:藤川(棒鼻図)
藤川は赤坂から9里である。広重は天保三年に八朔の御馬献上の行列に加わって東海道を下り、東海道五十三次の画ざいはこの時に、彼の画嚢に納まったのである。しすて江戸に帰った後、この続絵を描き、翌四年から出版、五年に五十五枚を完成したのである。御馬献上というのは、毎年八月一日を期して幕府から朝廷へ馬匹を献上する慣例であって、その行列が、いま藤川宿の入口にさしかかったところが、この絵である。町役人や旅人は土下座してこの行列を迎えている。献上の馬には御幣をつけ、多くの侍がつき従っている。極めて厳粛な雰囲気の絵であり、霞の描き方も様式的である。こうした情景は、広重がこの一行に加わっていたから描けたものと思われるし、この東海道上りによって広重の東海道絵が生まれたことを思えば、絵の出来栄えよりも一つの記念すべき作品とも見られる。画題の「棒鼻の図」は、藤川宿の入口を意味する。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤川は赤坂から9里である。広重は天保三年に八朔の御馬献上の行列に加わって東海道を下り、東海道五十三次の画ざいはこの時に、彼の画嚢に納まったのである。しすて江戸に帰った後、この続絵を描き、翌四年から出版、五年に五十五枚を完成したのである。御馬献上というのは、毎年八月一日を期して幕府から朝廷へ馬匹を献上する慣例であって、その行列が、いま藤川宿の入口にさしかかったところが、この絵である。町役人や旅人は土下座してこの行列を迎えている。献上の馬には御幣をつけ、多くの侍がつき従っている。極めて厳粛な雰囲気の絵であり、霞の描き方も様式的である。こうした情景は、広重がこの一行に加わっていたから描けたものと思われるし、この東海道上りによって広重の東海道絵が生まれたことを思えば、絵の出来栄えよりも一つの記念すべき作品とも見られる。画題の「棒鼻の図」は、藤川宿の入口を意味する。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』