
【原文】
名を聞くより、やがて、面影は推し測らるゝ心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ、昔物語聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覚ゆるにや。
また、如何なる折ぞ、たゞ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かゝる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出いでねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
また、如何なる折ぞ、たゞ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かゝる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出いでねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
【現代語訳】
名前を聞けば、すぐにでもその人の面影で想像が一杯になるのに、実際に会ってみると記憶の中の顔と同じだったことはない。昔の小説を読んでいると「今だったら、あの家のあの辺の事かしら」などと空想し、「あの人みたいな雰囲気だろう」と妄想してしまうのは、誰もがする事だろうか。
また、何かにつけて、道ばたで会った人が言ったことや、目に見える現象が、昔から自分の心の中にあるような気がして「いつか、こんな事があったような気がする」と思うのだけど、いつの事だったかは思い出せず、でも、本当にあったかのようにノスタルジーに耽ってしまうのは、私だけの事だろうか。
また、何かにつけて、道ばたで会った人が言ったことや、目に見える現象が、昔から自分の心の中にあるような気がして「いつか、こんな事があったような気がする」と思うのだけど、いつの事だったかは思い出せず、でも、本当にあったかのようにノスタルジーに耽ってしまうのは、私だけの事だろうか。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。