戦前戦後をはさむ5年ほどは家で写真を撮る余裕はなかったようだ。だから住んだ家や周辺の写真はない。
おぼろげな自分の記憶ではこんな風ではなく確かにこのあたりに社宅が並んでいた。
戸籍上の生まれた場所の住所表示から言うとこのあたりに間違いない。ここで5歳まで両親と兄弟で暮らしたはずだ。
姉二人は戦前ここ千歳町で生まれ4歳と2歳で疫痢で千歳町で亡くなった。
今後はもう2度と来ることはないであろう場所に立ち、亡くなった両親と姉たちに手を合わせてこの場所を去った。
亡父はこの工場☟に勤務していた。この岸壁の向こうは四日市港の一部で、工場の燃料である石炭を輸送船から降ろす
水平引き込みクレーン(後年知ったが新居浜で製作されたクレーンだった)が少し向こうの工場の港に設置されていた。
写真の岸壁に戦前は入れたらしく岸壁の上で姉を膝に載せた学生服姿の叔父の胡坐姿の写真が残っている。
父の10歳年下の叔父は当時名古屋の旧制八高理甲の学生で時々四日市に遊びに来ていたようだ。
門の向かい側の風景。自分の記憶とは全く違う。
工場敷地の角。一号線方面からは千歳橋を渡るとこの三叉路がある。
千歳橋の袂に何でも屋が一軒だけあったが民家がないせいか寂れ切っていた。
ここ三重県四日市市千歳町2番地で生まれた身は、戦時中母親の郷里である長野県茅野市に疎開し、
その後は ⇒兵庫県⇒福岡県⇒兵庫県⇒三重県⇒兵庫県⇒愛媛県⇒兵庫県⇒千葉県⇒茨城県⇒兵庫県⇒広島県⇒兵庫県
と住む所を「あちこち」移動する人生になった。ほんにどんな土地のどんな家に生まれてくるか、本人は選ぶことができないものだ。