中学を卒業して60年、5年ごとの同窓会が四日市のホテルであった。66人が出席した。
東西線で京橋に出て
鶴橋でJRから近鉄線に乗り換える👆
近鉄特急は全車指定席だ。
電車内の放送は日本語の後に中国語、韓国語のアナウンスが必ず続いているのには感心した。5年前はこんなことはしてなかったような気がする。
英語はモニターに日本語と同時に掲示されアナウンスはない。こうして中国語と韓国語を女性の声で流すのは近鉄名古屋本線が
奈良方面と京都方面に接続している故であることがわかる。何回か聞いているうちに中国語と韓国語が耳に心地よく感じられるようになった。
電車が四日市に差し掛かるとやはり車窓は日本有数の工業都市を映し出した。
四日市までは神戸の最寄駅から近鉄四日市駅まで2時間半の行程だ。
四日市手前の白子で「白子 大黒屋光太夫の生地」の看板がまだ残っているのに気がついた。
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☆2005年08月27日(土)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載
「大黒屋光太夫 上下」
吉村昭著
新潮文庫
平成17年6月1日初版発行
定価各514円(税別)
☆難波発の名古屋行き近鉄特急が三重県内に入り、白子駅に近づくと、「大黒屋光太夫の生地、白子」と言う大きな看板が目に付きました。
この路線にはもう何年も何回も乗っているのに、いままで気がつきませんでした。
大黒屋光太夫は井上靖が書いた「おろしゃ国酔夢譚-昭和41年刊」(海外あちこち記その19)を読んでいたので、彼が伊勢の生まれである
ことは知っていましたが、白子に関係していたことは忘れていました。
今回新潮文庫から出た吉村昭が書いた「大黒屋光太夫」上下を、あらためて読む気になったのは、あの看板をこの夏に四日市に行ったとき見た
からかもしれません。そしてこの吉村本が平成15年に毎日新聞社からハードカバーで出たのが、鈴鹿市があの看板を出す事になったきっかけかな
と想像しました。
江戸時代に、白子から江戸へ向かう千石積みの廻船が難破して、ロシアへ流された17人の日本人(うち10年後に二人だけが江戸の土地を
踏むことが出来た)がいました。かれらの、この遭難記録小説を読んで思ったことが2点あります。
その一つは「この男を生まれた国へ返してやりたい」と、当時のロシア人貴族や高官に自然に思わせ、そのための協力を彼らに最大限させた
「大黒屋光太夫」と言う男の人間の魅力と、それを周囲に認めさせ得た彼の人間関係能力・コミュニケーション能力の高さです。
もう一つは「地方に今でも発掘される日本の歴史資料の奥の深さと、歴史記述はその時々に得られる資料を超えられない」と言う面白さです。
「光太夫の人間性とその驚異的な望郷の思いが周囲を変えていく」
彼の一行の前にも何人もの遭難者がロシアにたどり着いていますが、帰国できた人間はいませんでした。
なぜ彼ら一行が、カムチャッカ半島から、モスクワよりまだまだ西側の当時の都、ペテルスブルグまでエカテリーナ女王に帰国を直訴する
旅に出ることが出来たのか、そしてなぜ謁見を実現出来たのか?そしてなぜ帰国出来たのか?
吉村昭は直接的にこの点に焦点をおいているようには思えませんが、この本を書く大きな動機の一つに,このことがあったに違いありません。
当時の白子浦は全国の湊の中でも特別な地位を占めていました。その理由をこの本から要約すると;
「家康は本能寺の変のあと三河へわずか30数名の手勢と共に落ち延びたが、伊賀者の巧妙な手引きで、途中の郷民の落ち武者狩りに会わずに、
信楽から加太越えで白子浦にたどりついた。そしてこの地の廻船業者に渡船を依頼した。業者は快諾して船を出し一行は無事に三河の国大浜に
上陸して岡崎に帰城した。
その後、これを多として幕府は白子浦は特別な港として目をかけ、紀州藩の藩領にし、江戸に大店を持つ伊勢商人たちの商品積出港ともなって大いに発展した。
光太夫はそんな環境の中に育ち「神昌丸」の沖船頭としてこの航海の指揮を執りましたが、彼は一言で言えば、船乗りを生業(なりわい)にした
人間ではなく商人(あきんど)として育った人間でした。
この本を読んで当時の日本の第一級の商人は、この時代の世界水準で言っても、世界のどこに出ていっても全く一流の人間であったと思いました。
彼は、宮廷の高官、高級軍人、貴族、そして宿屋の主人や庶民やその他の誰の前でも臆することなく、誰の前でも態度を変えずに、
自分の思いや考えを述べています。江戸時代に生まれ、育った人間の、この一人を知ったそのことだけでも、この上下2冊1080円は貴重な投資でした。
☆大黒屋光大夫はなぜロシア語をマスターできたか
井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」と吉村昭の「大黒屋光大夫」は共に伊勢国白子の船頭「大黒屋光大夫」を題材に取り上げた小説だ。
彼は江戸へ向かった船が暴風に会い、カムチャッカ半島まで漂流した。
どうしても故郷の伊勢白子まで帰るという執念で生き延び、ロシア語を身につけ、周囲のロシア人のサポートを得て、
当時のロシアの首都サンクトペテルブルグへ上る。そして何回かの挑戦の末、エカテリーナ女帝に面談し、彼女の心を捉え、
また苦労の末幕末の日本に戻ってきた。この男の生涯は、知らぬ他国の多くのロシア人を人間として自分に惹きつけたこと、
自分で運命を切り開いたことを知ると、教科書で習った江戸時代の町人のイメージを根底から変える。
冬のシベリアを橇で渡る過酷な道中の描写だけでも物凄いものがある。
井上靖が本を書いた当時の史実の発掘の限りでは、日本に辿り着いたあと江戸で幽閉されたままで生涯を終えたように書かれているが、
吉村昭は白子に何度も足を運び、村の旧家に残された古文書の中に、光大夫が密かに江戸から白子を訪ねた記録を見つけ出した。
吉村昭の小説にはその感激モノの挿話も記されている。
大黒屋光大夫はいかにしてロシア語を身につけたかは2冊の小説にも副テーマとして描写されているが、英語教育の論評にサンプルとして
光大夫が引用されていた。やはり光大夫はいまもこうして生き延びている。
『英語のお勉強 (副題:なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか)』 引用元。
一部引用・・
日本の英語教育は、学力テストの一環としてイビツな発展をとげたまま放置されている。それは「コミュニケーション」という
言語の根本的存在理由の軽視の上に立脚し、日本の経済と将来の繁栄を内側から立ち枯れさせている。
人生一度きりの貴重な青春時代を、使い物にならない「語学」習得に費やし、周囲にその将来を嘱望され官庁入りした優秀/有為な若者たちが、
だれも聞きに来ない記者会見で、だれも座っていないイスを相手に、英作文を朗読している。
彼ら個人においては悲劇であり、日本にとっては大損失だ。
この小文が、若い読者の英語学習における何らかのヒントになってくれるのであれば、「徒労にあらざりしか」である。
なお、副題、「なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか」であるが、私はこう考えている。
大黒屋光太夫は、1782年から10年あまりの漂流生活で、アリューシャン列島アムチトカ島からハバロフスク、イルクーツクを経てのシベリア横断、
そして女帝エカテリーナとの謁見を果たしたペテルスブルグまで、当時の日本人としては想像を絶する世界体験をした。この10年間、彼の行動の全ては、
伊勢白子の回船「神昌丸」の船頭として、部下の水夫たちと共に、無事ふるさとの日本へ戻ること一点に絞られ、けっしてぶれることが無かった。
光太夫が漂流者のなかで一番ロシア語に習熟した理由は、彼のこの「船頭」としての責任感と使命感にあったのだと思う。彼には皆を代表して、
「コミュニケーション」をとる必要性があり、その責務を存分に果たしたのだ。行く先々でその地の名士の歓待を受け、ついには時のロシア宮廷をも
感服させたのは、光太夫のそうした「お人柄」とリーダーシップにあったのだろう。
私がおせっかいを承知で、私なりの英語の習得術を皆さんに披露するのは、皆さんが英語というツールを使いこなせるようになり、光太夫のように
「日本人の代表」として世界の人々と「繋がって」いって欲しいからだ。
「英語力」で「就活を有利に進めよう」などと、日本人同士で「人をしのぐ」ことなどを目的にしていない。
2005年8月27日掲載エントリー
☆海外あちこち記その十九 ソ連邦/モスクワ篇① 一部引用。
1)ソ連がイルクーツク港などの港湾クレーンを日本の円借款で買い付ける商談が昭和50年代中頃にいくつかありました。
商社経由の引合いに見積もりを出しておくと、ソ連の港湾局から仕様説明に来いと呼び出しが、かかることがあります。設計課の技術屋さんと
商社の人で4、5人のチームを組んでモスクワへ何度か行きました。
モスクワへの飛行機はソ連の国営アエロフロートだとメンテが悪く、機内の冷たい風がいつも首もとに流れ、機内食も塩味が濃いので
JALが取れるとほっとしたものです。成田からの飛行機の眼下に何時間見ても変化がないシベリアの広大な赤茶けた泥地に、
アムール川(黒竜江)がのたうつ情景は何度見てもあきることはありませんでした。井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」という
大黒屋光太夫を主人公にした小説で、彼ら一行がペテルスブルグの宮廷までこの原野を沿海州から横切っていったことを読んでいたので
その上空をあっと言う間に移動するのは不謹慎な感じがしました。
モスクワに仕事で行くようになる4、5年前に私的なことで3日程当地に滞在しましたが、ビジネスで行くとなると、パスポートチエックの高い窓口から、
こちらを見下ろすウブ毛が光る若い係官の無機質、無表情の顔に出会った時から、早くも共産国に来たと何となく緊張します。
2)通関では日本から持ち込むお客さんへの手土産が、いくつか必ず検査官に抜かれるので、目減りする分だけ余分に持っていかないといけません。
特にクリスマス前の日本のカレンダーはその品質から装飾用や贈答品として人気が高いとのことで、トランクを開けるとカレンダーだけ探され、
いつもより多く抜かれるので女の検査官と渡せ、渡さぬと両端を引っ張りあいになったこともあります。
ところで袖の下、賄賂はマルクス・レーニン主義とは関係ない封建社会ルーツ社会の宿痾であり、付き物、潤滑油でもあるみたいです。
明治以降の現代日本人は相対的にこの習慣に慣れてなく、つい現地標準以上にやりすぎて、今でもその土地の秩序を乱し、大盤振る舞いで
かえって馬鹿にされるみたいです。
しかし交通違反の現場で警官が現金を受けとって、違反者を見逃すということがない世界でも数少ない国である日本は、警察のキャリア組の上層部が
やりたい放題でも、現場の警察官はこの事をずっと続けて欲しいと念じるのみです。ただ上の背中を見ているわけだから、
日本も一線のオマワリさんも時間の問題かもしれませんがそうならんようにタノムぜと思います。
ところでジャカルタ篇でも触れましたが、召し上げても個人でポケットに入れるのではなく組織でプールしておき、年末やお祭りの時に
役所の安月給を補う為に役職に応じて組織内で皆で配分すると聞きましたので念のため。
3)ホテルにつくと各フロアーのエレベーターの前にフロントがあり、24時間人が詰めていて出入りをチエックしています。
フロントの人はこんなに肥ってもいいのかというオバサンが多かったです。
(このフロアーシステムは中国でも昭和57、8年頃までの北京飯店や友誼賓館でも同じでした。)
パスポートをフロントに渡してからチエックインの手続きをし、半日くらいして返されます。パスポートを持っていかれるというのは
何度経験しても手元に戻るまで落ち着かないものです。 誰かの部屋に集まり、どこの国でも最初は商社の担当駐在員からその国の仕事の
心得のオリエンテーションがあるのは同じですが、ソ連の場合は内容がかなり違いました。
1)商談が始まると、どの部屋で内部打ち合せしても盗聴装置があるから、
肝腎な話は筆談ですること。どうしても話しをして相談したいときは屋外に出てすること。
2)最終の原価表は常に身につけて置くこと。部屋のトランクの中に鍵をかけて置いておいてもハウスキーピングの時に全部開けて見られるからと。
3)ホテルから歩いては出ないで欲しいが、もし歩いて道路を渡る場合は青信号でも十分注意すること。車は党の幹部など特権階級の乗り物だから
一般人民をひき殺しても殆ど罪にならないので、専属運転手は猛スピードで飛ばしているから などなど。
日本の大部数新聞や「リダーズダイジェスト」という昭和20、30年代のアメリカの反共月刊誌で共産国のイメージをたっぷりインプット
されている若手貿易マンにとっては、さもありなんと素直に納得です。しかし海外案件を、日本の殆どの大手商社と一緒にやるようになってから、
メーカーの若手貿易マン(私のことです(笑))も次のように少しずつ学習しました。
(1)彼らはどんなにメーカーの世話をしても受注にならなければ、手数料を頂くという 商社のビジネスにならないから、
その国の特殊性を強調して自分達のサポートがなければ素人のメーカーは赤子の腕をひねられるようにやられると思い込ませる。
(2)ソ連の場合は特に、特殊な国だから自分達のようなプロに判断をまかせなさいと言う。
(3)勝手に行動されてトラブルを起こされると厄介だから、脅えさせて出歩かないようにする。
2017.10.08 〜 2017.10.14、
20310 PV、2654 IP、1944 位/2774191ブログ
東西線で京橋に出て
鶴橋でJRから近鉄線に乗り換える👆
近鉄特急は全車指定席だ。
電車内の放送は日本語の後に中国語、韓国語のアナウンスが必ず続いているのには感心した。5年前はこんなことはしてなかったような気がする。
英語はモニターに日本語と同時に掲示されアナウンスはない。こうして中国語と韓国語を女性の声で流すのは近鉄名古屋本線が
奈良方面と京都方面に接続している故であることがわかる。何回か聞いているうちに中国語と韓国語が耳に心地よく感じられるようになった。
電車が四日市に差し掛かるとやはり車窓は日本有数の工業都市を映し出した。
四日市までは神戸の最寄駅から近鉄四日市駅まで2時間半の行程だ。
四日市手前の白子で「白子 大黒屋光太夫の生地」の看板がまだ残っているのに気がついた。
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☆2005年08月27日(土)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載
「大黒屋光太夫 上下」
吉村昭著
新潮文庫
平成17年6月1日初版発行
定価各514円(税別)
☆難波発の名古屋行き近鉄特急が三重県内に入り、白子駅に近づくと、「大黒屋光太夫の生地、白子」と言う大きな看板が目に付きました。
この路線にはもう何年も何回も乗っているのに、いままで気がつきませんでした。
大黒屋光太夫は井上靖が書いた「おろしゃ国酔夢譚-昭和41年刊」(海外あちこち記その19)を読んでいたので、彼が伊勢の生まれである
ことは知っていましたが、白子に関係していたことは忘れていました。
今回新潮文庫から出た吉村昭が書いた「大黒屋光太夫」上下を、あらためて読む気になったのは、あの看板をこの夏に四日市に行ったとき見た
からかもしれません。そしてこの吉村本が平成15年に毎日新聞社からハードカバーで出たのが、鈴鹿市があの看板を出す事になったきっかけかな
と想像しました。
江戸時代に、白子から江戸へ向かう千石積みの廻船が難破して、ロシアへ流された17人の日本人(うち10年後に二人だけが江戸の土地を
踏むことが出来た)がいました。かれらの、この遭難記録小説を読んで思ったことが2点あります。
その一つは「この男を生まれた国へ返してやりたい」と、当時のロシア人貴族や高官に自然に思わせ、そのための協力を彼らに最大限させた
「大黒屋光太夫」と言う男の人間の魅力と、それを周囲に認めさせ得た彼の人間関係能力・コミュニケーション能力の高さです。
もう一つは「地方に今でも発掘される日本の歴史資料の奥の深さと、歴史記述はその時々に得られる資料を超えられない」と言う面白さです。
「光太夫の人間性とその驚異的な望郷の思いが周囲を変えていく」
彼の一行の前にも何人もの遭難者がロシアにたどり着いていますが、帰国できた人間はいませんでした。
なぜ彼ら一行が、カムチャッカ半島から、モスクワよりまだまだ西側の当時の都、ペテルスブルグまでエカテリーナ女王に帰国を直訴する
旅に出ることが出来たのか、そしてなぜ謁見を実現出来たのか?そしてなぜ帰国出来たのか?
吉村昭は直接的にこの点に焦点をおいているようには思えませんが、この本を書く大きな動機の一つに,このことがあったに違いありません。
当時の白子浦は全国の湊の中でも特別な地位を占めていました。その理由をこの本から要約すると;
「家康は本能寺の変のあと三河へわずか30数名の手勢と共に落ち延びたが、伊賀者の巧妙な手引きで、途中の郷民の落ち武者狩りに会わずに、
信楽から加太越えで白子浦にたどりついた。そしてこの地の廻船業者に渡船を依頼した。業者は快諾して船を出し一行は無事に三河の国大浜に
上陸して岡崎に帰城した。
その後、これを多として幕府は白子浦は特別な港として目をかけ、紀州藩の藩領にし、江戸に大店を持つ伊勢商人たちの商品積出港ともなって大いに発展した。
光太夫はそんな環境の中に育ち「神昌丸」の沖船頭としてこの航海の指揮を執りましたが、彼は一言で言えば、船乗りを生業(なりわい)にした
人間ではなく商人(あきんど)として育った人間でした。
この本を読んで当時の日本の第一級の商人は、この時代の世界水準で言っても、世界のどこに出ていっても全く一流の人間であったと思いました。
彼は、宮廷の高官、高級軍人、貴族、そして宿屋の主人や庶民やその他の誰の前でも臆することなく、誰の前でも態度を変えずに、
自分の思いや考えを述べています。江戸時代に生まれ、育った人間の、この一人を知ったそのことだけでも、この上下2冊1080円は貴重な投資でした。
☆大黒屋光大夫はなぜロシア語をマスターできたか
井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」と吉村昭の「大黒屋光大夫」は共に伊勢国白子の船頭「大黒屋光大夫」を題材に取り上げた小説だ。
彼は江戸へ向かった船が暴風に会い、カムチャッカ半島まで漂流した。
どうしても故郷の伊勢白子まで帰るという執念で生き延び、ロシア語を身につけ、周囲のロシア人のサポートを得て、
当時のロシアの首都サンクトペテルブルグへ上る。そして何回かの挑戦の末、エカテリーナ女帝に面談し、彼女の心を捉え、
また苦労の末幕末の日本に戻ってきた。この男の生涯は、知らぬ他国の多くのロシア人を人間として自分に惹きつけたこと、
自分で運命を切り開いたことを知ると、教科書で習った江戸時代の町人のイメージを根底から変える。
冬のシベリアを橇で渡る過酷な道中の描写だけでも物凄いものがある。
井上靖が本を書いた当時の史実の発掘の限りでは、日本に辿り着いたあと江戸で幽閉されたままで生涯を終えたように書かれているが、
吉村昭は白子に何度も足を運び、村の旧家に残された古文書の中に、光大夫が密かに江戸から白子を訪ねた記録を見つけ出した。
吉村昭の小説にはその感激モノの挿話も記されている。
大黒屋光大夫はいかにしてロシア語を身につけたかは2冊の小説にも副テーマとして描写されているが、英語教育の論評にサンプルとして
光大夫が引用されていた。やはり光大夫はいまもこうして生き延びている。
『英語のお勉強 (副題:なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか)』 引用元。
一部引用・・
日本の英語教育は、学力テストの一環としてイビツな発展をとげたまま放置されている。それは「コミュニケーション」という
言語の根本的存在理由の軽視の上に立脚し、日本の経済と将来の繁栄を内側から立ち枯れさせている。
人生一度きりの貴重な青春時代を、使い物にならない「語学」習得に費やし、周囲にその将来を嘱望され官庁入りした優秀/有為な若者たちが、
だれも聞きに来ない記者会見で、だれも座っていないイスを相手に、英作文を朗読している。
彼ら個人においては悲劇であり、日本にとっては大損失だ。
この小文が、若い読者の英語学習における何らかのヒントになってくれるのであれば、「徒労にあらざりしか」である。
なお、副題、「なぜコーダユーはロシア語をマスターできたのか」であるが、私はこう考えている。
大黒屋光太夫は、1782年から10年あまりの漂流生活で、アリューシャン列島アムチトカ島からハバロフスク、イルクーツクを経てのシベリア横断、
そして女帝エカテリーナとの謁見を果たしたペテルスブルグまで、当時の日本人としては想像を絶する世界体験をした。この10年間、彼の行動の全ては、
伊勢白子の回船「神昌丸」の船頭として、部下の水夫たちと共に、無事ふるさとの日本へ戻ること一点に絞られ、けっしてぶれることが無かった。
光太夫が漂流者のなかで一番ロシア語に習熟した理由は、彼のこの「船頭」としての責任感と使命感にあったのだと思う。彼には皆を代表して、
「コミュニケーション」をとる必要性があり、その責務を存分に果たしたのだ。行く先々でその地の名士の歓待を受け、ついには時のロシア宮廷をも
感服させたのは、光太夫のそうした「お人柄」とリーダーシップにあったのだろう。
私がおせっかいを承知で、私なりの英語の習得術を皆さんに披露するのは、皆さんが英語というツールを使いこなせるようになり、光太夫のように
「日本人の代表」として世界の人々と「繋がって」いって欲しいからだ。
「英語力」で「就活を有利に進めよう」などと、日本人同士で「人をしのぐ」ことなどを目的にしていない。
2005年8月27日掲載エントリー
☆海外あちこち記その十九 ソ連邦/モスクワ篇① 一部引用。
1)ソ連がイルクーツク港などの港湾クレーンを日本の円借款で買い付ける商談が昭和50年代中頃にいくつかありました。
商社経由の引合いに見積もりを出しておくと、ソ連の港湾局から仕様説明に来いと呼び出しが、かかることがあります。設計課の技術屋さんと
商社の人で4、5人のチームを組んでモスクワへ何度か行きました。
モスクワへの飛行機はソ連の国営アエロフロートだとメンテが悪く、機内の冷たい風がいつも首もとに流れ、機内食も塩味が濃いので
JALが取れるとほっとしたものです。成田からの飛行機の眼下に何時間見ても変化がないシベリアの広大な赤茶けた泥地に、
アムール川(黒竜江)がのたうつ情景は何度見てもあきることはありませんでした。井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」という
大黒屋光太夫を主人公にした小説で、彼ら一行がペテルスブルグの宮廷までこの原野を沿海州から横切っていったことを読んでいたので
その上空をあっと言う間に移動するのは不謹慎な感じがしました。
モスクワに仕事で行くようになる4、5年前に私的なことで3日程当地に滞在しましたが、ビジネスで行くとなると、パスポートチエックの高い窓口から、
こちらを見下ろすウブ毛が光る若い係官の無機質、無表情の顔に出会った時から、早くも共産国に来たと何となく緊張します。
2)通関では日本から持ち込むお客さんへの手土産が、いくつか必ず検査官に抜かれるので、目減りする分だけ余分に持っていかないといけません。
特にクリスマス前の日本のカレンダーはその品質から装飾用や贈答品として人気が高いとのことで、トランクを開けるとカレンダーだけ探され、
いつもより多く抜かれるので女の検査官と渡せ、渡さぬと両端を引っ張りあいになったこともあります。
ところで袖の下、賄賂はマルクス・レーニン主義とは関係ない封建社会ルーツ社会の宿痾であり、付き物、潤滑油でもあるみたいです。
明治以降の現代日本人は相対的にこの習慣に慣れてなく、つい現地標準以上にやりすぎて、今でもその土地の秩序を乱し、大盤振る舞いで
かえって馬鹿にされるみたいです。
しかし交通違反の現場で警官が現金を受けとって、違反者を見逃すということがない世界でも数少ない国である日本は、警察のキャリア組の上層部が
やりたい放題でも、現場の警察官はこの事をずっと続けて欲しいと念じるのみです。ただ上の背中を見ているわけだから、
日本も一線のオマワリさんも時間の問題かもしれませんがそうならんようにタノムぜと思います。
ところでジャカルタ篇でも触れましたが、召し上げても個人でポケットに入れるのではなく組織でプールしておき、年末やお祭りの時に
役所の安月給を補う為に役職に応じて組織内で皆で配分すると聞きましたので念のため。
3)ホテルにつくと各フロアーのエレベーターの前にフロントがあり、24時間人が詰めていて出入りをチエックしています。
フロントの人はこんなに肥ってもいいのかというオバサンが多かったです。
(このフロアーシステムは中国でも昭和57、8年頃までの北京飯店や友誼賓館でも同じでした。)
パスポートをフロントに渡してからチエックインの手続きをし、半日くらいして返されます。パスポートを持っていかれるというのは
何度経験しても手元に戻るまで落ち着かないものです。 誰かの部屋に集まり、どこの国でも最初は商社の担当駐在員からその国の仕事の
心得のオリエンテーションがあるのは同じですが、ソ連の場合は内容がかなり違いました。
1)商談が始まると、どの部屋で内部打ち合せしても盗聴装置があるから、
肝腎な話は筆談ですること。どうしても話しをして相談したいときは屋外に出てすること。
2)最終の原価表は常に身につけて置くこと。部屋のトランクの中に鍵をかけて置いておいてもハウスキーピングの時に全部開けて見られるからと。
3)ホテルから歩いては出ないで欲しいが、もし歩いて道路を渡る場合は青信号でも十分注意すること。車は党の幹部など特権階級の乗り物だから
一般人民をひき殺しても殆ど罪にならないので、専属運転手は猛スピードで飛ばしているから などなど。
日本の大部数新聞や「リダーズダイジェスト」という昭和20、30年代のアメリカの反共月刊誌で共産国のイメージをたっぷりインプット
されている若手貿易マンにとっては、さもありなんと素直に納得です。しかし海外案件を、日本の殆どの大手商社と一緒にやるようになってから、
メーカーの若手貿易マン(私のことです(笑))も次のように少しずつ学習しました。
(1)彼らはどんなにメーカーの世話をしても受注にならなければ、手数料を頂くという 商社のビジネスにならないから、
その国の特殊性を強調して自分達のサポートがなければ素人のメーカーは赤子の腕をひねられるようにやられると思い込ませる。
(2)ソ連の場合は特に、特殊な国だから自分達のようなプロに判断をまかせなさいと言う。
(3)勝手に行動されてトラブルを起こされると厄介だから、脅えさせて出歩かないようにする。
2017.10.08 〜 2017.10.14、
20310 PV、2654 IP、1944 位/2774191ブログ