日本酒はぬる燗が好きだが、夏になると冷酒もおいしい。これまで飲んだ冷酒の中では四国川之江の「梅錦」と信州諏訪の「真澄」が旨いと思う双璧だ。
阪急夙川駅の上りホームにある「成城石井」では「真澄」がいつも買えたので、亀戸駅の「成城石井」にもあるかなと思い覗いたら冷温ケースの中に「真澄」が鎮座していた。
ついでに亀戸駅地下専門店街の中の「梅の花」の総菜売り場でワンコインの酒肴セットも買って帰宅早々おいしく飲んだ。
内容(「BOOK」データベースより)
倒れてもなお、書き続けた12年!警世と洒脱、憂国と遊び心、無常と励ましに満ちたラスト・メッセージ。荷風が死の前日まで『断腸亭日乗』を綴り続けたように、
脳梗塞で倒れた後のノサカもまた日記という作品に魂を傾注していった。急逝のほんの数時間前まで―。揺れ動く時代が滲む最晩年のエッセイ選を附す。
◎月刊誌「新潮」に連載された日記と単発の小文をまとめている。この最後の野坂昭如の出版物を読むと彼は自分が14歳の時に体験した
それまでの普通の家族の日常生活の突然の消滅という体験を最後までひきづり、それを個人の体験ではなく国民の、民族の体験として伝えるという
無意識の使命感を持ち続けた人生だと感じる。
14歳の夏の体験とは神戸市灘区中郷町での米軍による民家の焼夷弾攻撃で、大好きだった養父が直撃弾で最後まで遺体の行方が
わからぬまで吹き飛び、養母が大けがをしてこの瞬間から、普通の市民の家族生活が二度と元に戻らなかったという体験だ。
野坂はこの体験を自分だけのものとはせず、阪神大震災の時も福島原発爆発事件の時も被害者に対して、
づっと日常生活の突然の消滅という体験者の想像力を持ち続けた。
それ故か戦争は絶対に国民たちには無残なもの、原子力発電所は国民にとってあってはいけないものというメッセージを最後まで
送り続けることになった。
野坂昭如とは「火垂るの墓」「アメリカひじき」の以前から文章を読んできたし一時は50冊ほど著作本を持っていた付き合いだ。
灘区の彼が家族で住んだ中郷町や卒業した成徳小学校(click)も何度も訪ねた。長い付き合いだった。
自分の現在のありようには野坂昭如のくれたものの影響は間違いなくある。
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6月5日 中郷町(ナダタマアーカイブス)
投稿日時: 2013年8月15日
昭和20年6月5日。神戸、そして灘区が猛火に包まれた日。
8月5日の空襲と合わせて灘区の被害は、死者808人、全焼・全壊家屋18068戸、罹災者74102人とされているが、届け出のあったものだけに限られているので、実数はさらにこれを上回る凄惨なものだった。
当時、中郷町3丁目に住んでいた野坂昭如はこの時の空襲体験をもとに戦争文学の名作『火垂の墓』を書いたのは、灘クミンならよくご存知のことと思う。
この時、同じ中郷町にもう一人の少年がいた。
野坂の家(養父張満谷家)から目と鼻の先の中郷町2丁目に住んでいた少年が、後の桂枝雀となる前田達少年だった。
神戸空襲のとき、野坂は15歳でが前田少年は5歳。その時の記憶を野坂は小説にしたが、枝雀師匠は落語の枕にした。「貧乏神」という気の弱い神様の話の枕が『上方
落語 桂枝雀爆笑コレクション〈4〉萬事気嫌よく』(ちくま文庫)に収録されている。
エー、昭和20年に大空襲がございます。
神戸は6月でございました。大阪は、エー6月ではなかったのかと思いますが、えらい空襲でございました。
ご承知の方はご承知でしょうが、親父がブリキ職でございまして、まあ、職人でございますから、仕事場にでございますね。神棚がしつらえてございまして…
前田家は灘区中郷町2丁目でブリキ店を営んでいた。
仕事場には神棚があり、朝に夕べに祈りをささげていたという。
近所の徳井神社の氏子だったのかもしれない。
6月5日、中郷町にも空襲警報が鳴り響く。
いつもは警戒警報だったのが、この日は違った。
「今日も大丈夫やろう」言うてましたら、その日に限って
「空襲警報ォ!」
ダルゥドゥズバババババババババァー…
「えらいこっちゃー!お母ちゃん、空襲やー」
言うたらね、そのね、朝晩拝み上げていた神棚の
神さんね、一番にドタッ。
落ちてこられたんでございますねえ。
嘘でもねえ、朝晩拝み上げている神さんでございますから、もーちょっと頑張ってもらいたかたんですが、ねえ…
神様が先に落ちてきて、その後に実の姉が落ちてきて、「姉はようがんばったのに、神様は…」というオチ。灘区を焦土と化した空襲だから、もっと緊迫感があったに違いないが、枝雀師匠は「頼んない神さんでございましてね。」とおどけてみせる。
悲惨な状況を笑いへと転化するという、彼の落語理論だった「緊張と緩和」の実践。
そして戦時下の「神への妄信」を、軽やかに揶揄する批評精神。
同じ神戸大空襲を描きながら、方や悲劇的な物語を、方や喜劇的な噺を。
灘区中郷町という小さな街の小さな奇跡だ。
桂枝雀の生家があった中郷町2丁目から野坂昭如が暮らしていた中郷町3丁目を望む
(ナダタマ 灘文化堂「6月5日 中郷町」2011.6.6より)
引用元。
フェリシモ > 神戸学校 > 野坂 昭如さん(作家)レポート
僕自身はいつも緊張して生きてるわけなんですけど、その基本のところには55年前に受けた空襲っが根っこのところにあると思うんです。
一部引用・・
野坂さん:
『火垂るの墓』、あれはいかにも僕自身が主人公みたいだけれども、僕自身が主人公だったら、あの主人公は死んじゃうわけですから、そのままじゃないわけで……。当時1歳4ヵ月だった僕の妹は確かに飢え死にしましたけども、1歳4ヵ月じゃ話にならないっていうか、会話が成り立たないから4歳って設定にしちゃったけど、ほぼあんなふうな経験に近いことを僕はやりました。ひとつだけ違うのは僕は、主人公のお兄さんみたいにやさしくはなかったですね。配給のとき1歳4ヵ月のこどもの口にはとても合わないようなものしかないんです。だし大豆のとかなんとかね。だし大豆ってのは煎って食べるんですけれども、とても1歳ちょっとのこどもの食べられるもんじゃないわけで、大人が食べたって下痢しちゃうわけですから。例えばそれを口の中で柔らかくしてやろうと思って口の中に入れて妹にやろうと思うんだけど、僕はやっぱり腹が減っているときはひゅっと飲み込んじゃうんですよ。結局は妹の食い物を僕自身が食ったという結果になっちゃったってところは、僕自身ずいぶん一種の負い目みたいな格好でいまも残っていますけどね。
それを話の上で穴埋めするみたいな格好で妙にお兄さんをやさしい兄に書いたんです。でも、本当に飢えに追い込まれてしまうと親とこどもでも親はこどもの食い物を食べますよ。つまりこどものためなら親は命はいらないっていうのは瞬間的にはぱっと思う。だけど恒常的になると、親とこどもの間において言うならば親はこどもの食べ物を食べて自分は生きぬくっていうのは、これは生物の理にかなっているわけです。親がもしも飢え死にしちゃったらこどもも飢え死にしますからね。親が生き残れば親はまた新しく生殖行為をしてこどもを産めばいいんです。だから親が生き抜く方が大事なんですね。弱い者と強い者がいて、どっちをなんとかするっていったら強い者が生き残ることがいちばんなんです。
例えば飢えてる国へ援助しますね。あの援助ってのもなかなかむずかしいんだけれども、3人飢えてるこどもがいると。そこにふたり分の食料しかないときにふたり分の食料はあくまでふたり分の食料であって、3人で分けたら3分の2ずつになるわけでしょ。3分の2ずつだったら3人とも栄養失調で死んじゃうわけですよ。だから3人の中でもってふたりを選ばなきゃしょうがない。そういう時、現実に木登りさせて、ちゃんと木が登れたスピードの順に食物を与えて、最後のひとりには食物を与えないっていう……、それくらいにきびしいもんなんです。
だから飢えというものについて言うならば、質問してくださった方には想像もできないだろうし、まったくマリー アントワネットみたいなもんで、パリ革命が起こったときに「パンが食べられないならお菓子を召し上がればいいのに」と言ったというそんな世間知らずのひとつの例として言われますが、いまの皆さんも多分米がなくなればラーメン食えばいいだろうとか簡単にそう思っちゃうかもわかんない。だけどなくなるときには1発で全部なくなりますから。アメリカがいくらこっちに輸出しているといったってアメリカがもしも取れなかったら輸出のしようがないわけで、自分の国の国民が飢えているときに日本を助けるわけがない。日本がいくら金持ちだってね。
そういう状態といったものは、当然次の世紀には来るわけで、そのためにどういう覚悟を持っておかないといけないかっていうと、結局はやっぱり自分のことは自分で考えるってこと。ほんとに食い物がなくなったら自分だけ食えればいいっていうふうに、そりゃ世の中いろいろ人がいますから、そんなふうに極端に言っちゃいけないかもわかんないけど、基本的には自分だけ食えりゃいいと。それくらいに飢えってものはすさまじいもんで、だから人間てのはこうやって生き延びてきたんですね。そんなみんなが慈悲深く自分が食わなくても他人が食ってもいいみたいな格好でもってお互いが融通し合っていたら、人類なんてこんなふうにはたくさん生き延びられなかったわけで、弱肉強食の世の中になってしまうのが飢えの時代です。
僕は、その中に放り込まれたわけで、現実問題としてこうやって生き延びています。でも、豊かな世の中になってくると僕はいわゆるご馳走っていうものを食べられないです。対談とか座談とかっていうとよく料理屋に行くんですけれどね。料理屋に行ってこれ見よがしな料理が出てくると食べられないですね。それから僕のこどもが小さいときに、クッキーをもらって、半分だけ食べてポッと捨ててるのを見ると、ものすごい憎しみを覚えましたね。あの世っていうものがあるんだったら自分の妹にこのクッキーを持っていってやりたいって気持ちは痛切にあったんですね。
そういう気持ちが『火垂るの墓』であのお兄さんをやさしくしちゃって、あれが戦争によってもたらされた悲しいお話かもしれないけれど、一方において兄弟愛みたいな形で受け取られています。
引用元。