阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

伊予の国から春の便り 土筆の季節    令和2年最初の新居浜便り  その1

2020年02月26日 | 新居浜便り

新居浜住人のIさんとは1966年の初夏に初めて愛媛県新居浜市にある工場で顔を合わせてから、もう54年の歳月を閲する時間が流れました。

⇒阿智胡地亭さん
しばらくご無沙汰してました。
ツクシが採れましたので田舎の春の便りをお届けします。

タケノコもこれからボチボチ店頭に並ぶと思いますが、ワラビとタケノコ
の煮つけは大好きなので今から楽しみです。

毎年ツクシも少なくなっています。 以前のように群生しておりません。
時代とともに雑草が増えたり農薬も関係がありそうです。


明日はツクシの卵とじを季節を味わいながら頂きます


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作家 吉村昭の死   2006年10月03日(火)の阿智胡地亭の非日乗に掲載

2020年02月26日 | 音楽・絵画・映画・文芸

かってこのブログに彼の書いた「大黒屋光太夫」の読後感を掲載しましたが、その著作者吉村昭さんが7月31日に亡くなられました。

追悼の言葉が各誌に掲載されましたが、そのなかでも一番吉村昭の人となりを伝え、深い哀悼の意を表していると思った記事の一部を以下に抜粋します。

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追悼 吉村昭

昭和2年、東京の日暮里に生まれた吉村昭さんは根っからの町ッ子であった。ちょっとした言葉の言い回しや気の遣いかたに東京人特有の気質がうかがえた。

・・・中略・・・

敗戦まもなく20歳の吉村さんは肺結核の末期患者であった。半年間で60㌔の体重が35㌔まで減少した。
そんな大病の経験をしたせいか、吉村さんには生きるうえでの自分なりの流儀があった。

みずからの真情をあからさまに吐露することを嫌い、はにかみや、謙虚さや、少々のことなら我慢する、といった、古い東京人の培っていた節度をわきまえていた。

対人関係においても、なるべく相手のよい点を強調して、全体を容認しようとした。しかし、物事や人間関係の基本に関しては、理非曲直がはっきりしていた。

その二,三の現場に立ち会った私は、吉村さんのけじめのつけかたのきびしさに、むしろたじろいだ。吉村さんなりの好き嫌いの基準はいろいろあったのだろうが、
相手の立場を考えない、手前勝手な人間には、一番我慢がならなかったに違いない。

われわれはまた一人、昭和の戦前、戦後を生きた、さわやかな東京人を失った。

文壇というものが今あるとして、吉村さんはそれまでの文壇が作り上げた良質な美学やモラルをだいじにした。

そして文壇人と生きることに誇りを持ち続けた人、と思う。だが、作家は作品がすべて、と割り切って、孤独な創作作業に徹し、文壇付き合いというのを余りしなかった。
畏敬するあまたの作家を持ったが、自らちかづくということはなかった。

・・・・以下略。

筑摩書房月刊PR誌「ちくま」10月号
[哀悼 吉村昭] 大村彦次郎より抜粋引用。

なお畏敬する吉村昭さんは自らの生命をこのようにしておえました。

コメント (1)
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