阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

旧中川河畔の風景と雀の群れ 動画 雀の音声あり

2020年02月11日 | 身辺あれこれ
河津桜は咲き始めたかなと旧中川へ行ってみました。桜はほんの少し咲きだしていました。(明日画像アップ予定)。
ベンチに座ってゆっくりしていたら雀の大群がすぐ横の木に来てお喋りを始めました。
雀にはなんの警戒心もありません。やはり自分は人畜無害の存在なんだと心中思わず一人ごちたことです(微苦笑)。


ここ二週間ほどしつこい咳が続き家の中で逼塞していましたが、ようやく咳も下火になって外に出ることが出来るようになりました。
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生きた会話を大切に――作家・多和田葉子の目に映る日本とグローバリズム

2020年02月11日 | SNS・既存メディアからの引用記事
一部引用・・・"私"を省略する世界と、そうではない世界がある
人を人たらしめるもの。そのひとつに「言語」があることを、私たちは普段、あまり意識していない。言語があるから、人間は他の動物より高度なコミュニケーションが取れるし、高度に思考できる。言語がなかったら、目に映る光景をどのように把握し、物事をどのように理解するのだろうか。こうした問いも、言語に乗ってやって来る。言語のない世界とは、もはや想像もつかない。
一口に言語と言っても、その種類はさまざまだ。一説には、7,000以上もの"living languages(実際に使用されている言語)"があるとも言われている。それぞれの言語は、使われる人や土地の影響を多分に受け、独自の発展を遂げてきた。人と母語は密接に関わり合っていて、そこには翻訳でくみ取りきれないニュアンスが必ず存在する。
もしかしたら、使う言語が違うと、世界が全然違って見えるのではないか----中学校で英語を習い始めてから、多和田さんはそんな思いをよく巡らすようになった。
「たとえば、日本語だと『僕』とか『私』とか、一人称の種類はいっぱいありますよね。それに、会話では一人称を省略することが多い。一方、英語の一人称はほぼ『I』だけで、基本的に省略されない。そういう文法の違いの一つひとつが、とても不思議で新鮮でした。
誰もが常に『私は~』から話し始める世界は、一体どんな感じなんだろう。いま日本語で考えていることを、すべて別の言語で処理するようになったら、人格まで変わってしまうんじゃないか......とか、あの頃はよく想像をしていましたね」
画像クリックで本文に飛びます。
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