元の勤務先で部門と時期は別だったが 同じ人と仕事をし、その先輩を二人ともに敬慕した仲のHMさんのFacebookでこのYoutubeを教えてもらいました。
☆「宇宙は粒子に満ちています」の記事に対して、
私がよく訪問しているブログの主「さいら」さんから次のようなコメントを頂きました。
「般若心経やお経に意味があるとは全く知りませんでした。
仰っているように聖書は読んでいても
メッセージを感じますが
お経はその様に感じたことがありません。
何となく唱えるもののイメージでした。」
☆なんでですかね?
私もそうでした。でもお経は呪文ではないようです。日本に伝来した当時の中国語の文章だそうです。
そしてその中国語の文章は、その昔のインド人が普通に話していた言葉(パーリ語)を、玄奘法師が当時の中国語に訳したものが大半です。
お経には三蔵と言って3種類あるそうですが、その一つはまさにキリストの言行録である「聖書」と同じで、かなりの数の「仏教経典」は釈迦・(シャカムニ)の言行録だそうです。
でもお経は、最近になるまで日本語に翻訳されることはなく、普通の日本人にとってはこれまで呪文のようなままできました。
それにはいろんな理由があるのでしょうが、
①当時の仏教の世界観、宗教観の概念を、まだ漢語の抽象語を、取り入れつつあったが、こなしきれていなかった大和言葉(日本語)に移し変えることが出来なかったのではないか。
言葉はその元になる概念があってこそ存在します。
(間違いないはずのお上がなされる事を,下々の我々が監視する)という畏れ多い所業を考えた事もない歴史の国に住む我々には、「オンブズマン」と言う概念はありませんでした。
概念がないのに言葉があるはずはありませんから、カタカナでオンブズマンと書くしかありません。そういう類のことが経典の翻訳にもあったのではないかと思います。
②もう一つは、あるときから仏教僧侶集団が既得権益集団となり、お経の内容を広く一般に知らせない方が彼らにメリットがあったからだと思います。
*ドイツではマルチン・ルターが1522年にそれまでのラテン語の聖書をドイツ語へ訳し、聖職者集団から大弾圧を受けました。神を恐れぬ仕業だと。
しかしそのあと、キリスト教はドイツでは草の根まで拡大したそうです。
結局は、それまで、少数の者が特権的に「尊くアリガタイ物」として「聖書」を祭り上げ、規制に守られておいしいメシを頂いていたのでしょう。
*つまり日本では、最澄、空海が現れたあとに法然、親鸞、道元、日蓮などが日本仏教を確立しましたが、残念なことに、その後継者たちはそれを一般大衆に布教する努力をするよりも、時の権力者の一員となり既得権益集団化して行ったのではないかと。
そして徳川幕府がキリスト教の禁教を徹底するために「檀家制度」を設けてからは、お寺や僧侶は、宗教本来の「個人の悩みを共に悩む」と言う機能を、禅宗を除いては、殆ど完全に捨てました。なんの努力もせずに檀家の葬式と法事で生活が保障されたことが大きかったのだと思います。
そして、我々はただ「南無阿弥陀仏、ナンマイダ」と唱えさえすればいいんだ、お布施を差し上げて、有難いお経を坊様にお任せすればいいんだ、というように思わされてきました。そしてそのまま今にいたっています。
しかし、少数ながら、若い僧侶の中にこれまでの日本仏教に悩み、現状を変えようとして、あがいている人たちも出てきています。出来るだけお経を日本語でやろうというのもその一つの動きです。
☆話は変わりますが、日本の映画で僧侶がその本来の役割で日常の生活に登場するのは、映画の寅さんシリーズで笠智衆が演じた「御前様」以外殆ど見た事がありません。一方、米映画のミリオンダラーベイビーの神父の扱い方などを見ると、彼らの毎日にいかに深く宗教が噛みこんでいるかわかります。しかし向こうの映画でも、道化役的に出ることが多いのは、今の世界での聖職者を見る目が共通しているのかも。
*身の回りで、無宗教方式の葬儀がこのところ一挙に増えているのを見ると、このままでは日本の仏教は葬式宗教としても残らないでしょう。身内だけでする葬儀が多くなれば、ますますお寺を呼ばない葬式が増えると思います。
*おそらく、日本の坊さんが、一人一人生きている個人と真剣に向き合うことをしない限り、専業の聖職者としての僧侶は姿を消し、お釈迦さまの教えは、原始仏教の世界に回帰し、日本でも当時のインドと同じように、個人としてお釈迦様の教えに学ぼうとする形に戻るでしょう、柳澤桂子さんのように。
☆キリスト教式の葬儀に出て、仏教の葬式との違いに驚いた体験は別に書きます。
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2005年11月12日(土)
宇宙は粒子に満ちています
柳澤桂子さんの「般若心経」の“心訳”を多くの方に知って頂きたくて、以下に5月11日に書いた「阿智胡地亭便り#80」を引用します。
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お聞きなさい
私たちは 広大な宇宙のなかに
存在します
宇宙では
形という固定したものはありません
実体がないのです
宇宙は粒子に満ちています
粒子は自由に動き回って 形を変えて
おたがいの関係の
安定したところで静止します
お聞きなさい
形のあるもの
いいかえれば物質的存在を
私たちは現象としてとらえているのですが
現象というものは
時々刻々変化するものであって
変化しない実体というものがありません
実体がないからこそ 形をつくれるのです
実体がなくて 変化するからこそ
物質であることができるのです
お聞きなさい
あなたも 宇宙のなかで
粒子でできています
宇宙のなかの
ほかの粒子と一つづきです
ですから宇宙も「空」です
あなたという実体はないのです
あなたと宇宙は一つです
○これは、生命科学者の柳澤桂子さん(67歳)が訳された「般若心経」の現代詩訳です。
柳澤さんは31歳で発病し48歳からは完全な寝たきり状態になりました。
病床で中村元氏の「般若心経」の現代語訳を10年間繰り返し繰り返し読まれてきたそうです。
この詩訳は「生きて死ぬ知恵」文・柳澤桂子、画・堀文子、小学館刊に掲載されているそうです。
まだ購入していませんので、詩の全文ではないかも知れません。
私は「般若心経」を中村元氏の現代語訳を読んで始めて、「お経」は本来仏壇の前やお墓の前で称えるものではなく、ブッダが生きる者達へ話した言葉であって、「聖書」などと同じものなのだと知りました。
日本人は三蔵法師である玄奘が自国語に訳した、つまりは中国語の「般若心経」を仏教導入以来今に至るまでそのまま使ってきましたが、中村元氏とこんどは柳澤氏のお蔭でこのような美しい自国語で読むことが出来るようになりました。
何度も読み返しているうちに、この現代詩訳をついご紹介したくなりました。
専門家会議の「クラスター対策」の解説 ――新型コロナウイルスに対処する最後の希望|弁護士 吉峯 耕平 @kyoshimine #note https://t.co/DKA5Yb4xhO
— achikochitei (@achikochitei1) March 22, 2020
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