阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

「出張や通勤やご近所や 日本のあちこち各地で 身近に見かけた名の知られた人たち 永六輔さんや司馬遼太郎さん小田実さんなど」     茶話32

2024年10月05日 | エッセイ

立松和平さん

大きなリュックを肩にかけていて、定年後 松岡先輩のご配慮で観に行った香川県琴平の金比羅歌舞伎の金丸座の入場口で会い、目が合いました。

ふんわりした気分の人のように見えました。小説家は思っていたより顔も大きく身体の厚みがあり、大柄で人より身長が頭一つ抜け出ていました。

中島誠之助さん) 会った近さの順番で行くとその前は中島さんでした、新幹線の東京駅ホームで。

その時は名前はわからなかったが、「・・お宝鑑定団・・」とかいう番組にヒゲの着物姿で出ている人と、その時は洋服でしたがすぐわかりました。

私より小柄な人でした。番組は見ないけどコーヒーかなんかのCMでよく見かけていたせいか

瞬間、よく知っている人と思い、目が合った時「今日は」と挨拶しそうになりました。

吉村教授)エジプト考古学の早稲田大の教授。新幹線京都駅のホームで。

長い黒革のコートを着て真っ赤なネクタイ。なかなかダンデイなおっさんがおると思ったら彼でした。

ホームの柱の陰で携帯を始めましたが カタチが決まっていました。

永 六輔さん)小沢昭一の次に好きな人です。JR浜松町で電車を降りる時、同じ車輌の扉から乗ってきた。

相当な年だと思うが背骨がピンと伸びた大きな人だった。やはりアゴに特徴があった。

自然体でなんとなく落ちついた江戸火消しの頭みたいな雰囲気があった。

    ところで小沢昭一は、数十年にわたりラジオの「小沢昭一的こころ」の番組でちょっとH好きな人物の

「〇〇〇〇お父さん」を出しており、このお父さんのイメージのお陰で私もあちこちで時々得をさせてもらっている。

広島のどこやらのゴルフ場で、キャデイさんに「何年もあの番組を欠かさず聞いとるけど、〇〇〇〇 という名前の人に始めておうた。

ホンマにおるんやねー。おたくがモデルかね」と独りだけ大事にしてもらって他のパートナーの顰蹙をかったことがあった。

大八木選手)神戸製鋼ラグビー部。家の近所の神戸市灘区のホームセンターで。

家族で買物していた。プロレスラーみたいな大きい人で坊主頭で異彩を放っていたが、

普通のかっこうのせいか誰も気がつかず、あいかたも私が言うまで気づかなかった。

このコーナン大石ホームセンターにはよく来るらしく数回出会っている。

岡村隆さん)ナイナイの小柄な方、新幹線の新大阪の上りホームで。

文庫本1冊だけ持ってホームのあちこちを移動しながら床に座りこんで読んでいた。

まだテレビに出始めた頃だったか、自分が見られているかどうかチラチラ周囲を確認しながら

時々場所を変えて列車が来るのを待っていた。

クロード・チアリさん)ギタリスト。新幹線の神戸駅改札口で。

広島から家に帰る時、新神戸駅の改札口で出会った。一人でたんたんとギターケースを手に持って歩いていた。

確か夙川か仁川あたりに住んでいるはず。

平尾選手)神戸製鋼ラグビー部の当時監督?、積水化学の大阪本社ロビーで。

私が大阪の積水化学さんの物流部の方を受付で待っていたら、ちょっと離れた場所で、彼が名刺を出して積水の人と挨拶していた。

後で自分の面談相手に伺うと、営業で神鋼製品の売り込みに来てるんやろと。

鼻の下にかっこいい髭を蓄え、例の精悍にして鋭い目付きでにこやかに話をしていた。

一流の人間はどこにいてもかっこええなあ、全身が決まっているなあと思った。

桂 文珍さん)① 阪急六甲から梅田まで阪急電車の席で約30分隣どうしに座った。

当時関西大学に招かれ講座を持っていた頃で、風呂敷からなにやら難しげな本を出して読んでいた。

途中で前の席のおじいさんが気づいて、「文珍さんやねー」と席を立って親しげに声をかけたが、

電車の中やからとか何とか硬い顔で言われて、じいさんはバツが悪そうに席に戻っていった。

 ② 文珍氏とは近所の小さな蕎麦屋でも一回会ったが、その九州佐賀出身の夫婦者がやっていた

すぐれもののソバヤは震災でつぶれた。その後一年間なんども店のあったところに歩いて行って

みたが再開されず、経営者は佐賀に帰ってしまったようだ。あの蕎麦は本当にうまかった。

震災の痛手の一つ。(佐賀で再興した蕎麦屋 狐狸庵さんClick)

 ③ 新大阪のホームで列車の入線を待っていた。車内で読む「週間文春」と「お~いお茶」を確保した後は、

いつもの癖で目の前を行き来する人達をバードウォチングならぬピープルウォチングを楽しむ。

背をしゃんと伸ばして夏物を涼しげに決めた奥さんの後を、ゴルフウェアーらしいポロシャツを着た旦那が荷物を持って

トボトボついていく。アタッシュケースを持った紺のスーツの若い女性が男の同僚社員らしいのと急ぎ足で通り過ぎる。

若い男女の外人が6、7人でトランクの山を横においている。ツアーらしいがガイドはいないなあ。

女性が小柄だし、着ているものの色とコーデネイトが洒落てるからからアメリカ人じゃなくてラテン系みたい。

あら、向こうからくるおっさんあれは桂文珍みたいやなあ。荷物をカートで引っ張っている。

お伴なしで一人で動いてるんだ。彼は私のすぐ隣に来て立ち止まった。やはり文珍だった。

5、6年前に阪急六甲から梅田まで隣どうしに座った桂文珍とはこれで3度目の遭遇だが、

いままでになく自然体で周囲の人は誰も気付かない。気のせいか彼は少し仏頂面に見えた。

テレビと違うのは薄いサングラスをかけているだけだ。彼は早く来すぎたのか私の乗った列車には乗ってこなかった。

松島トモ子さん)神田美土代町勤務時代に接待帰りの23時過ぎの銀座で。

もう亡くなった紀伊国屋書店の田辺茂一社長ともう一人と3人で肩を組んで酔っぱらってよろよろ歩いていた。

小さい時のあこがれの童謡歌手や、元気でがんばってやと暫し見送った。

司馬遼太郎さん)千葉県南柏の社宅から家族でたった一回だけ食事に行った有楽町の東京會舘で。

何か文学賞の授与式があったのか廊下ですれ違った。昭和54年頃?。白髪ですぐ司馬さんとわかった。

尾崎紀世彦さん)羽田空港で。「又会う日まで」でレコード大賞かを取った後だったか。

テレビでは大きく見えていたが、実際は身長160cmくらいで小柄なので驚いた。


笑福亭鶴瓶さん)21のB席は窓際3列の真ん中の席だった。この伊丹空港発のフライトは乗客に子供が多く満席だった。

シートベルトを締めてぼんやり乗って来る人をみていたら、笑福亭鶴瓶みたいな男が通路をこちらに来る。

その後ろに名前は知らないがテレビで顔は見たことがあるのが続いている。

みたいではなく間違いなく鶴瓶だった。彼は20のD席、若いのが20のC席に座った。

飛行中二人は半分の30分ほどスケジュールの話をしていた。あのダミ声の大阪弁で。

着陸して皆が席をたったとき、彼の前の席の女性が後ろを振り向いて握手を求め、それに対して笑って握手を返していたくらいで

殆どの人は気付かないままで機内から下りていった。

運動会などの集団の中から自分の子供をすぐ見分けられる視覚の識別能力は、動物の始源的な能力の一つらしいが、

例え一度も会ったことがない他人でもいったんインプリンテイングされたイメージと同一人物が目の前に現れたら

無意識かつ即座にその人だと認識するという経験は何度あっても面白い。

 (小田実さん)「何でも見てやろう」の著者。

最終の東京行き新幹線に乗るべくJR芦屋駅で京都行き新快速に乗りかえようとした2004年頃、

ホームで黒いコートの背中の広い大柄な男のすぐ後ろについた。

電車が入ってくるとき横顔に電車の前方ライトが当たり、そのがっしりした顎の男の横顔が浮かび上がった。

小田実さんだった。確か当時彼は家族で芦屋に住んでいた。

高校生の時から40数年ずっと本も買ってきた憧れの人が目の前にいることに驚き嬉しかった。

二人だけの列は誰も降りてこないドアから乗ったあと、右と左に分かれて座った

彼も新大阪で降りて、新幹線の改札口に向かった。

  恥ずかしながらミーハー辛好の大切な思い出です。

生きていく上で世間や人を見る目は小田さんのこの本が大方を開いてくれた。

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