岩木川河原の駐車場から弘前公園に向かうと、最初に遭遇する景観が西堀の桜並木。
今年はもう葉桜となる。しかし発見!紺屋町旧消防屯所がリニュアルし保存された。
記録:この派出所に寺山修司の父が巡査として勤務。秩父宮が第八師団に勤務時に
優秀であった寺山修司の父が警護役としてこの派出を拠点に活躍したそうだ。
記述:(寺山修司著「 誰か故郷を想はざる―自叙伝らしくなく」)より
『私は1935年12月10日に青森県にある北海岸の小さな駅で生まれた。
・・・・・実際、私の父は移動の多い地方警察の刑事であり、私が生まれたのは
「転勤」のさなかであった。・・・』実際寺山は紺屋町35番地の長屋が生誕の地。
参照#寺山修司(前衛芸術・歌人)探訪紀行
映像:津軽の名物焼き物:鳩笛土淵川の側に今でも窯元が。
VIPルームの玄関(ドア内)には鳩笛が置かれていた。
ここ南津軽が弘前の文化圏であることを感じさせられた。
筆者の実家近くに下川原焼きの名物『鳩笛』焼元がある。
北国のお祭り「弘前ねぷたまつり」は8月1日開幕した。その様は3.11東日本大震災の
鎮魂の灯篭行列だ。もともと弘前ねぶたはお盆の前祭りで鎮魂の要素もある。今年は
加えて、東日本大震災復興の祈念と弘前城築城400年祝の節目。祭りは新たな出発だ。
その弘前ねぷたまつりの合い間に、弘前観光館に保存されている『旧図書館』を訪問
歴史とは人々の絆文化の継承である事がこの建造物で理解できる。閲覧室には懐かし
い木造の机と椅子が往時のまま置かれている。いつか二人でならんで座りたいと思う。
この建物も筆者には懐かしい物件。中学時代富田町をうろついた時にこの洋館を観たものだ。
今は弘前大学の敷地内に移築保存されている。当初、見学だけだったが、最近は地元の珈琲
店がカフェを営業して訪れる人に美味しい珈琲を提供する。弘前には洋館があちこちあった。
記録:設計川元重次郎(堀江佐吉門下)、施工堀江組 指定:登録有形文化財
映像:創建時代から続く茅葺屋根の社社務所客間殿と手前の小さな庭園(手入れが不十分)
岩木山神社の社務所から客殿に抜けていくと右手に小さな庭園がある。岩木山の伏流水が
が流れる池があり、雑草やら草花やら春から秋にかけて筆者の遊び場だった。殿様蛙、蜻
蛉、蝶々、偶にはモグラや蛇などがチラリ。そんな長閑で懐かしい空間がここにはあった。
参照#我が心の故郷岩木山神社全景(正面枡形広場から眺望)
映像:弘前りんご公園内にりんごの形をアレンジした可愛いりんご追分碑がある。
碑の中央部に筆者が帽子を被り、カメラを構えているのがわかりますか
戦後の混乱が一段落した昭和27年人々の心に希望を灯したのが美空ひばり(15才)が
歌う「リンゴ追分」。力強く確かな歌唱は来るべき経済発展の道標の一つとなった。
~りんご追分:美空ひばり歌 作詞 小沢不二夫 作曲 米山正夫~
♪リンゴの花びらが風に散ったよな
月夜に月夜にそっと え・・・
つがる娘は泣いたとさ
つらい別れを泣いたとさ
リンゴの花びらが
風に散ったよな ああ…♪
『お岩木山のてっぺんを
綿みでえな白い雲が
ポッカリポッカリ流れていき
桃の花が咲き さくらが咲き
そいから
早咲きのリンゴの花ッコが咲く頃は
おらだちのいちばんたのしい季節だなや
・・・ ・・・』
♪つがる娘はないたとさ
つらい別れを泣いたとさ
リンゴの花びらが
風に散ったよな ああ・・・♪
決意:
この「リンゴ追分」は津軽に根差す民謡のエッセンスが時代の先端音楽と融合して出来た白神の歌といってもよい。津軽白神の大地から日本中の人々に希望を与えた調べは国民の宝だ。ここまで書き継いで来て漸く決心が着いた。自然は日本どこでもある。北海道でも九州でもない、津軽は津軽で勝負だ。失われた自然を取り戻し、身の丈にあった努力をし、ズッパド津軽を味わって貰う、それが観光客を迎える最大のお持て成しだ。
映像:弘前りんご公園内に設置されている石坂洋次郎の記念碑
りんご公園はちょうど岩木山を望む位置にある。その岩木山の麓には石坂洋次郎
「草を刈る娘」の文学碑があり、ここの記念碑と向かい合う形になっている。正
に石坂洋次郎文学は岩木山と津軽平野、そして『青い山脈』と表現される白神の
山々から生まれた証左である。
碑文:石碑には自筆で次のように刻印されている。
『物も乏しいが 空は青く雲は白く、
林檎は赤く、女達は美しい國、
それが津軽だ。
私の日はそこで過ごされ、
私の夢はそこで育くまれた。
昭和49年9月 石坂洋次郎』
所感:津軽白神を代表する文学者石坂洋次郎の青春小説は色で表現すると『青と
白と赤と緑』。そして、温泉が効果的なときめきのシーンをさりげなく演
出する。舞台の嶽温泉、板留温泉の共同浴場はもうないが彼の小説では今
も鮮明。石坂洋次郎は『白神の物書き』だ。
参照#石坂洋次郎(青春小説家)探訪紀行
映像:旧小山内家住宅とふれあい広場の間にある摺鉢山(画面左側)
長勝寺方面から悪戸、相馬村方面に向い「常盤坂会館」の看板が左手に見え、そこから約200m位進むと「りんご公園」の案内塔がある。公園内にはりんごの家、ニュートンのりんごの木、ふれあい広場&ピクニック広場、農機具展示場、レストランなど点在。りんご生産量日本一弘前市のリンゴテーマパークだ。
摺鉢山:園内にある高さ83mの小山。扁平の奇妙な形は藩政時代、大砲や鉄砲の射撃場だったという事で納得。遠くは白神の山々、岩木山、八甲田が遠望、園内が一望出来る
お山参詣の隊列は参道枡形で整列記念撮影。向山の今日(9日)は参拝団体は少ない。
ご覧の団体は向外瀬部落。奉納隊列の規模も小さい。昔であれば,褌姿の強力が力強
く掲げる御旗も横にして行進、寂しい。何もかも変わり変わらないのは笛、太鼓等だ。
弘前に現存する煉瓦造りの倉庫としては保存状態が一番いいだろう。この景観、スペース
を利用し、地元出身、現代アートの騎手『奈良美智展』などが開催され、保存と利用が活発
だ。一帯憩いの広場として整備、土淵川、弘南電鉄、料亭などが新しい空間を形成している。
映像:弘前城東門前(弘前文化センター前庭)に再建された津軽為信公像。
津軽為信公。藩祖は西海岸世界遺産白神山地を源流とする
赤石川下流域種里を中心に勢力を有していた。いわば白神
の民だ。…その武将が南部との抗争の上、津軽を平定した。
参照#築城夢半ばで京都で客死したが見事に完成した弘前城
弘前には陸軍の司令部があった。いまの国立弘前病院が陸軍駐屯地。その東隣に本部施設
の将校クラブがあった。それが偕行社。現在弘前厚生学園記念館になっているが前庭や建
物は往時を偲んで余りあるもの。大正昭和、弘前は政治・経済・文化とも県の先端だった。
指定:国重要文化財 設計・施工:堀江佐吉
映像:鏡ケ丘記念館、筆者の時代は、この施設で有志先生が予備校的に講座を開設した。
弘前の文化の中心はなんと言っても弘前大学、それは昔旧制弘前高等学校。その流れを
汲むのが弘前高等学校。鳳凰のバッジが憧れであった。そんな歴史と伝統の高校へ筆者
も入学。そしてこの記念館で卒業後半年学んだ。当時校長は小田桐孫一。腰に手ぬぐい
バンカラスタイルの応援歌「北斗の黙示」が今でも耳に響く。嗚呼!遥かなる青春の日々。
記録:明治26年に青森県尋常中学校の校舎として川元重次郎によって建てられた。木
造二階建ての洋館で、一般公開。平成5年に青森県指定文化財(県重宝)に指定
青森県弘前市にある本州最北端のお城。お城はともかく、この古城には銅像
が他に一体もない。普通、創建城主など有名人の銅像があるものだが、嘗て
津軽為信公の銅像があったが戦争で拠出され無い。二宮金次郎が唯一なのだ。
解説:この弘前城の二宮金次郎像が何故パワースポットかというと。昔全国
の小学校の前庭に二宮金次郎像があったものだ。しかし小学校の統廃合
が進み、老朽化した校舎の廃校と、小学校そのものが巨大化して金次郎
像も撤去され無くなりつつある。この市民の憩いの場にあるのが希少だ。
二宮金次郎:二宮尊徳(号)、金治郎は小田原藩の百姓の長男であったが、
父の死後、文字通り寸暇を惜しんで仕事、勉学に励み、一家を支えると
同時に勉学が成就、武士に召抱えられ、経世家、農政家、思想家となる。
参照:① 弘前城 ② 弘前城 探訪紀行 ③ 小田原城
晴天のもと、弘前を土手ぶら。富田一戸理容で散髪し高橋のラーメンを食べ、
紀伊国屋書店で書籍を買い・・・いつもの弘前での行動だ。今日は思い出の
小道を歩く。それは一戸時計塔へつながる弘前昇天教会の横道。懐かしの道。