お湯の国 日本

美しい日本の温泉地中心の旅記録(おんせん鑑定士:監修) 【記事・映像は著作権、人権保護法等により無断使用を禁じます】

武田氏館跡(甲斐国守護武田氏)

2016年12月30日 |  🏰城郭史跡探訪

戦国時代の雄武田信玄。その拠点(居城)がここ躑躅ヶ崎館である。現在
は遺構の大半は武田神社境内となっている。わずかに往時の井戸などが
残っている。しかし城郭の遺構がそのまま残り、映像が大手門跡である。

城郭:連郭式平城 城主:武田氏~河尻秀隆~徳川氏~豊臣秀勝~加藤光泰~浅野長政 
遺構:石垣、土塁、水堀、空堀、土橋、虎口、井戸、天守台、復元馬出
指定:国史跡、日本百名城(指定24番) 家紋:武田菱 石高:推定100万石 

参照:①武田神社(山梨県甲府市)   ②米沢城址(上杉家居城)

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武田信玄公像(JR甲府駅前)

2016年12月29日 |  🏰城郭史跡探訪

甲府市には長野温泉探査時の始まりとして立ち寄った。静岡の泉友との合流地点として
選んだ。合流後には武田神社に参拝して、信州の諏訪湖周辺の温泉地の探査に向かった。
そう、諏訪は武田信玄の側室諏訪御料人の郷である。温泉探査は歴史探査の旅でもある。

考察:戦国時代を華やかにした武田信玄は京都上洛の途上で病死したというのが通説だ。
   もしも、生きていたなら、歴史は変わっていただろう。それ程の影響力のあった
   人物だが死んでしまえば何もない。それは今の世も同じだ。生きて人生を楽しめ

参照武田信玄の居城(館)が甲府盆地を望む高台に今は武田神社となって存続している

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真田幸村像(信濃国上田藩)

2016年11月25日 |  🏰城郭史跡探訪

≪ 速報:関東中部紀行・真田幸村像(真田丸) 2016.11.18 ≫
映像:北陸(長野)新幹線JR上田駅前広場に立つ真田幸村像

真田幸村。NHK大河ドラマの前半では、真田昌幸が存在感があったが
ドラマ後半に入って、俄然真田幸村存在力を増して来た。それは
の意思を継いだ行動力と若さ。結果的に戦場に消える儚さ・・・故なのか?

旅録:この日は上田の友人の誘いで美ヶ原温泉などを探訪して、別所
 温泉旅館花屋で入浴し上田駅前小料理店でA博士、友人夫妻と懇親。

参照上田地方の温泉と言えば別所温泉

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川越城本丸御殿(武蔵野国川越藩)

2016年06月30日 |  🏰城郭史跡探訪

小江戸川越は川越城から発展した中世からの城下町。
城郭は今ではこの本丸御殿しか目に触れることがで
きない。川越藩は江戸の甲信越への前線基地なのだ。

城郭:平山城 築城主:太田道灌(江戸城を築城)
石高:松平家17万石  家紋蔦 遺構:堀・土塁・御殿他
指定:埼玉県有形文化財(本丸御殿)、日本百名城(指定19番)

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富山城址(越中国富山藩)

2015年11月30日 |  🏰城郭史跡探訪

富山市電ループラインで富山城にやって来た。こじんまりと端正な城構え、
彦根城や犬山城など現存する天守を参考にして復元された模擬天守である。
ここも歴史の波を感じられる。 主は神保氏、佐々氏、前田氏と変遷した。

城郭:梯郭式平城 平城 城主:佐々氏 遺構:石垣、堀
石高:加賀藩支藩10万石 家紋:丁子梅鉢(ちょうじうめばち)

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源義経像(中尊寺:平泉町)

2015年11月30日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:安住の地極楽浄土平泉の地をめざした史実を伝える弁慶堂に義経像が安置される。

源義経は実兄により滅ぼされた悲劇の英雄。異母兄弟ではあるが血が繋がっていたが
源平の戦いで活躍が著しく、その武勇を、名声・朝廷の優遇を嫌った兄頼朝の冷たい
仕打ちとも思える。現代のsns時代だったもう少し分かり合えたかもしれないのだが。

感想:結局は兄頼朝の鎌倉時代も短命に終わり源氏の治世は続かなかった。一方では
   源義経の武勇、悲劇、北方回帰は伝説となり、いまでも人々の心に残っている。
   驕る平家久しからず、戦う源氏やすまらず、悲劇の義経主従伝えは永遠なりや

参照源義経(悲劇の英雄)探訪紀行

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岩出山城址 (陸奥国:岩出山伊達氏)

2015年11月29日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:城跡岩出山城の本丸、中央にあるセメント像が伊達政宗の晩年の雄姿

隻眼の英雄と言えば、伊達政宗。彼は生まれながらにして目が不自由だった。
その伊達政宗が充実した生活ををしたのがこの岩出山城だ。小さな山城だが
急峻な坂に当時の武者備えを感じる。近くに御殿湯として東鳴子温泉がある。

城郭:山城 城主:氏家直益~伊達政宗 石高:岩出山伊達家1万4千640石
遺構:土塁、空堀、堀切、石垣、虎口、曲輪     家紋:「竹に雀」(定紋)

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天草四郎墓石(長崎県原城址)

2015年08月22日 |  🏰城郭史跡探訪

島原半島の中央部。断崖の史蹟原城の片隅に天草四郎の墓石がある。
江戸幕府の大罪人の墓など残っているのも不思議だが、信者の農地
に埋没のものが土石流で発見されたのを移設。天草四郎を忍び合掌

天草四郎:島原の乱の首謀者として捉えられ斬首の上、原城や長崎
  の出島でさらし首にされたと伝えられる。悲劇の美少年である
   
参照世界遺産 島原半島 原城

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原城址(肥前国有馬氏)

2015年08月20日 |  🏰城郭史跡探訪

  島原半島の中央部。海辺にせり出した様な海岸部に位置する。
  そもそもは島原城の前身の要塞であった。その島原城の築城
  や圧政のために島原の農民が立ち上がり、籠城、玉砕した城。

  天草四郎他約3万7千名の農民や武士がこの城で命を落した。
  日本最大の反乱事件とされ、江戸幕府は以後鎖国と宗教弾圧
  を強める。その背景には豊臣方の残党への強い警戒心もある。

  感慨:この地に立つのは数十年振り。城跡は益々寂れた気が
     する。この悲劇を風化させない為にも手厚い保存が望
     まれる。この悲劇を題材にした宗教的彫像が偲ばれる。

  城郭:梯郭式平城     城主:有馬氏  遺構:石垣、空堀 
  石高:4万石(推定)   家紋: 五瓜に唐花 
  指定:国史跡、続日本百名城(188番)、世界文化遺産

  参照#①原城温泉 ②彫刻家船越保武氏の作品『原の城』像

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島原藩武家屋敷(長崎県)

2015年08月07日 |  🏰城郭史跡探訪

何処の城下町でも武家屋敷がお城を取り囲むように存在する。
島原もお城の堀割近くにその遺構が残されている。今直住ん
でいる生活感あふれる場所だ。あの、吉田松陰も訪れている。

解説:本州の武家屋敷は板塀が主であるが、さすがに南岸沿
   い台風襲来から石垣塀で頑丈になっているのが特徴だ

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島原城址 (肥前国 島原藩)

2015年08月06日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:復元(1964)された島原城
   (明治政府は廃城とし天守閣他建屋を破壊、本丸は畑地となる)

島原は悲しい歴史を背負ってる。その歴史の発端となったのが島原城だ。
石高四万石にしては堅牢勇壮な城である。この城を作るため領民に過大
な年貢
を課した。その意味で、封建時代の縮図とも云える島原城の姿だ。

城郭:連郭式平城 城主:松倉氏~松平氏 遺構:石垣、堀
石高:島原藩6万5千石(最終高) 家紋:重扇(かさねおうぎ)
指定:市指定史跡、日本百名城(指定91番)

解説:島原地方はキリシタン大名有馬氏が治め、豊臣方から徳川方に寝返
   って領地保全していたが不祥事が発覚し移封・死罪となる。徳川方
   の松倉氏に変わって
、悪政・圧迫の政治が後の島原の乱を引き起こ
   すこととなった
。島原には有馬、有家の地名が残る。

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千歳御門(前田家富山城)

2015年06月28日 |  🏰城郭史跡探訪

加賀百万石の前田家富山城の本丸(千歳御殿)の前にある門。現在の千歳御門は富山城の
唯一の創建当初の建造物。その作建築様式は三間薬医門といわれる格式の高い城門建築で
東大の赤門と同様とのこと。そいえば、赤門も加賀藩前田家の江戸屋敷跡の門構えである。

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三戸城址(陸奥国南部藩)

2015年06月08日 |  🏰城郭史跡探訪

旅は人を感傷的にさせる。陽光が眩しい五月に南部紀行を開始
先ずは、南部の元祖的城三戸城にやってきた。三戸という風土…
青森県を二分する文化はここから始まりだと思うと。感慨深い

城郭:連郭式山城 城主:南部氏  家紋:南部鶴  遺構:城山公園 
石高:南部藩約10万石(1591年九戸城に移転当時三郡)
解説:青森県の文化は八甲田山を境に東が南部、西が津軽の文化
   同じ青森県でありながら南部と津軽は犬猿の仲である事は
   県内外に知られている。言葉(南部弁と津軽弁)風土(南
   部の東風、津軽の降雪)気質(南部の質素、津軽のおごり)
   何よりも、戦国時代に領土をめぐって幕末迄一触即発状態。
   とどめは明治維新時に津軽の新政府方南部の旧幕府方だ。

参照南部と対立した津軽藩のお城「弘前城」探訪紀行

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浪岡城址(陸奥国北畠氏)

2015年05月25日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:桜が満開の青森県青森市浪岡地区浪岡城址景観(2015.5.25 )

青森市浪岡地区の古城。弘前城よりも創建は古いと思われる。
この一帯を北畠氏が治めていた時代の平城である。天守閣は
無い(豊臣の時代からの城構え)、中世のお城の典型である。

城郭:平城 築城主:北畠顕義 城主:北畠氏累代 遺構:土塁、掘、郭跡 
構造:内館、北館、東館、西館、新館、猿楽館、検校館、無名館 
指定:続日本百名城(2017年4月、103番目に指定された) 家紋:笹竜胆

歴史:北畠家は津軽(大浦)氏と南部方勢力(田舎館、大光寺など)と津軽平野
   を三分していた村上源氏もしくは奥州藤原氏の流れをくむ名家であっ
   たが、北前船勢力の津軽為信によって滅ぼされ、北畠一族は離散した。

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立花屋敷(筑後国柳川藩)

2015年05月16日 |  🏰城郭史跡探訪

 柳川藩の大奥機能は江戸後期以降、城外の御花畠にあった。映像の荘重な土塀は
 その柳川藩別邸(大奥)の一部で水郷の町柳川の景観の一部となっている。明治
 に入り幕藩体制は崩壊。柳川藩は自らの邸宅を割烹に変じて生きながらえたのだ。

 城郭:平城 藩主:立花氏 遺構:天守台、石垣、堀  指定:国史跡 石高:10万9千石
 家紋:立花守・柳川守(たちばなまもり・やながわまもり)

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