落合宿と聞くと決まって思い出すのが、昭和38年12月に公開された工藤栄一監督の映画、「十三人の刺客」。
東映京都で制作されたチャンバラ映画末期の作品で、十三人のサムライが、江戸へ向かう将軍の弟にして暴君の松平斉韶(まつだいら なりつぐ)を襲い、暗殺するというお話し。
片岡千恵蔵や嵐寛寿郎など名優の扮するサムライたちが、殿のお命頂戴と待ち伏せする場所が、美濃落合宿、すなわちこの宿場なのです。
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旧中山道“美濃路”のはじまりである「十石(じっこく)峠」の石畳↑は、部分的に残っていたものを、近年になって復元したものです。
約20分ほど下ったところで、アスファルト舗装の平坦な道に合流し、峠道は終ります。
しばらく行くと、行基が彫ったとされる薬師如来像の安置されている「医王寺」が、いかにも田舎の山寺といった風情で、左手にあります。
が、それ以上に私の目を惹いたのは、そのお向かいにあるこ . . . 本文を読む
上り同様にきつい勾配を下ること約25分、再び尾根を上がり、見晴らしのよい広場を抜け、また下り坂に入ったところが、“木曾十一宿”の南端、馬籠宿の入口。
この宿場の旧本陣に生まれた島崎藤村の名作、「夜明け前」でその名を馳せた宿場ですが、そもそもは山道づたいの小宿だったとか。
しかし、現在ではあまりにもキレイに観光地化されすぎて、お隣りの妻籠宿のような、いにしえの雰囲気は皆無。
ましてや、「夜明 . . . 本文を読む
馬籠峠の道端には、要所要所に↑のような小さな鐘が設置されていますが、これは熊除けのため。
思いきり鳴らしてもまだ不安だった私は、謡曲のおめでたい部分を、声を張り上げて謡いながら進むうち、やがて木立を抜け、黒木の門の前に。
これは木曽から出る木材を監視するために設けられた、「一石栃(いちこくとち)白木改番所」の跡。
そのすぐ先には、かつて七軒あったという立場茶屋(休憩所)のうち、一軒だけが残っ . . . 本文を読む
妻籠宿をたち、蘭(あららぎ)川に沿ってしばらく進み、大妻橋を渡ると、道は林のなかの坂を上って行きます。
神明という集落を過ぎると今度は急な下り坂、再び上り坂をあがると、そのまま大妻籠という集落に(上段写真)。
旧旧中山道の道筋にあたると云うここは、昔ながらの旅籠が民宿として、営業を続けています。
大妻籠を抜けた先が、いよいよ馬籠峠の入口。
途中まで、かつての石畳が復元されています。
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上久保の一里塚を過ぎると、すぐに左へ折れて下り坂に。
道は舗装されていますが、左端にはかつての石畳がのぞいています(上段写真)。
再び木立のなかの上り坂を、10分ほどで上がりきると、左手の沢に「蛇石(へんびいし)」なる巨石が。
元禄16年(1703年)まで、道はここから沢に沿ってのびていたそうで、その痕跡とおぼしきものが、いまも微かに見られます。
ただし私有地のため、立ち入りは不可。 . . . 本文を読む
緩やかなカーブに沿って古民家が点在するなかを通り、梨子沢(なしざわ)に架かる橋を渡って宿場を過ぎると、旧道は左手の「菱屋」と表札の掛かった民家と、蔵の間を、すり抜けるようにして通って行きます(上段写真)。
畑や民家に沿った、静かな風情のなかをしばらく進むうち、江戸時代に国学で名を馳せた神官“園原先生”の石碑が建つ、和合(わごう)地区に。
ここはかつて、木曽山中初の地酒「和合酒」がつくられていた . . . 本文を読む
国立能楽堂で、金春流の「俊寛」を観る。
この僧のほんとうの悲劇は、たったひとり鬼界ヶ島に残されたことよりも、“都”に象徴される俗世への執着を、断ち切れなかったところにある、と私は思う。
芥川龍之介が大正時代に発表した同名の短編小説には、島の生活を謳歌する人間臭い俊寛が描かれている。
都へ帰還する気持ちを棄てているところに、私はひとつの“悟り”のかたちを、見出だす。
そして、考える。
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与川を渡って金知屋(かなちや)地区へ入ると、川沿いに民家が数軒並ぶ前を、旧道とおぼしき未舗装の道が伸びています(上段写真)。
金知屋を過ぎたところで未舗装の道は途切れますが、その少し先で旧道は国道から左手に分かれて中央本線沿いに伸び、やがてガードをくぐると、すぐ上り坂に。
しばらくすると、古民家の建ち並ぶ地区へと入ります。
そこがかつての、三留野(みどの)宿の入口。
↓写真の右手が本陣 . . . 本文を読む
坂を下って十二兼を過ぎると、かつてはそのまま木曽川に沿って道は続いていましたが、現在は目の前を国道と中央本線が横切っており、直進することができません。
そこで上段写真に見るような、道路下を行く水路トンネルに仮設された通路を経て、向こう側へと抜けます。
いかにもアドベンチャーといった感じで、なかなか楽しいものがあります。
中央本線「十二兼駅」の横を過ぎ、1㌔ほど直進すると、やがて右手には“南 . . . 本文を読む
国道を15分ほど行って「道の駅」を過ぎると、旧道が右手に分かれているのでそちらへ入り、中央本線の踏切を二度渡って倉坂(くらんざか)を上り、鈎の手に二度曲がった先が、野尻宿↑。
この宿場は“七曲(ななまがり)”と云い、敵の襲来を防ぐため道が幾重にも蛇行しているのが特徴。
宿場の西の外れにある、その名もズバリ「はずれ」という屋号を持つ旧旅籠を過ぎ、下在郷一里塚跡の石碑前を通って橋を渡ると、道は右へ . . . 本文を読む
「かしわや」を過ぎて枡形を右へ折れると、道の中央に水路が通る、宿場本来の貴重な姿がのこっています↑。
須原宿を抜けて約30分、大島地区で旧道は左へ折れますが、そのまま直進する旧々中山道の道筋も残されているため、そちらに進路をとることにします。
その先で国道19号線に吸収され、中央本線「大桑駅」あたりには、「長野一里塚」が残されているはずなのですが、それらしきものは見当たりません。
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中央本線の「須原駅」前を過ぎて細い坂を上った先が、上松宿から三里(約12㎞)の須原宿↑。
もともとは木曽川寄りにあったそうですが、度重なる氾濫のため、山寄りの現在地に移転したのだそうです。
所々にかつての旅籠を思わせる建物が残っているなか、京寄りの枡形そばにある「かしわや」の看板は、本山宿で見たのと同じく、江戸方面は漢字で、
京方面は仮名で書かれたものが残されています。
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立町地区を過ぎ、現在の中央本線「倉本駅」の手前まで来ると、左手に細い上り坂が、わずかにのこっています。
これがかつての道筋ですが、途中で線路に寸断されています。
そのむこうの田んぼの中に、道のつづきがわずかに痕跡をとどめているので(上段写真)、倉本駅先のガードをくぐり抜けて迂回します。
そして、古民家がまだまだ現役の倉本地区へと入ります。
倉本地区を抜けると草道の坂を下り、その先で大 . . . 本文を読む
中央本線の煉瓦橋脚がちょうど額縁のようにも見える名所「小野の滝」を過ぎ、入口に一里塚跡の石碑が建つ荻原地区を経て中央本線のガードをくぐり抜けると、線路沿いの長い坂を上って宮戸地区へ(上段写真)。
ちょうど線路の崖上にあたるこの地区には、
古道が野生味あふれる姿のまま、残されている場所でもあります。
くるみ坂を下って線路のガードをくぐり抜けると、あちこちから涌き出ている清水の音を楽しみな . . . 本文を読む