アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、この4カ国の共通項は?
昨年9月、国連総会は世界3億7000万人の先住民の人権保護などをうたった「先住民の権利に関する国連宣言」を賛成143、反対4、棄権11で採択しましたが、そのときに反対した4カ国です。
採択された宣言は、先住民族の自決権と、それに伴う政治的地位を決定し、自由に経済的、社会的、文化的発展を追求する権利、強制的な同化や文化の破壊にさらされない権利、自分たちの土地から立ち退きを強いられない権利などを認めています。
また、伝統的に所有、占有などをしていた土地や資源に対する権利を認め、自由でかつ情報に基づく事前の同意なしに収用、占有などされた場合には、原状回復や公正な補償を得る権利をも規定しています。
しかし、多くの国が異なる民族を抱えていますので(日本もアイヌ民族の問題があります。)、先住民族の“自決権”が“独立運動”につながるのではという警戒感、諸権利関係に関する国内法との調整など、同宣言は非常に困難な問題を伴います。
80年代から20年以上の議論が続けられ、“宣言のどの条文も主権国家の領域的および政治的一体性を損なうような行為を認めたり、促すと解釈され得ない”との文言が加えられたほか、前文に、地域や国の特徴や歴史的、文化的背景が考慮されるべきであることが加えられるなどの修正を経て、当初難色を示していたアフリカ諸国も賛同することになり採択へと漕ぎ着けました。
日本も「民族自決権は国家からの独立を意味しない」ことなどを強調して賛成。
反対した4カ国を見ると、あらためて「なるほどね・・・」という感じがします。
いずれも、比較的近年、遠方から移住した民族・人々が支配的な地位を得ている社会です。
それだけに権利関係の調整が困難なのでしょう。
いずれも“民主主義”を標榜する国家ではありますが、その“民主主義”が及ぶ範囲には自ずと制約がある、あるいは、あったのでしょう。
こんな昨年の話を持ち出したのは、言うまでもなく、オーストラリアのラッド首相がアボリジニの人々に対して明確な謝罪を行ったというニュースを見たからです。
ラッド首相は議会で「歴代の議会・政府の法や政策によって、われわれの仲間であるアボリジニに多大な悲しみ、苦しみ、損害を負わせたことを謝罪する」と述べました。
オーストラリアでは19世紀末から1970年代にかけ、白人社会との同化を目的にアボリジニの子どもを親から強制的に引き離し、白人家庭や施設で育てさせる政策を取ってきました。
約10万人の子どもが強制的に隔離されたとされ、「盗まれた世代」と呼ばれています。
「盗まれた世代」については、“アボリジニと白人との混血”を対象としたのか、“アボリジニの子供一般”なのか、また、その時期についても、上記のような“19世紀から”、“1910年頃から”、“70年代までの40年間”など、いろんな説明が散見されます。
入植当初の頃はアボリジニはカンガルーと同様、白人の“狩猟の対象”だったという話はよく耳にします。
アボリジニに関する考え方の背景には優生学的発想がありました。
アボリジニは“劣った種族”であり、その純潔種は放置しとけば勝手に自然淘汰で絶滅する。(実際は白人の暴力や白人が持ち込んだ病気で激減していく訳ですが・・・)
白人との混血は人種間の差異を曖昧にするもので問題である。
しかし、混血は白人との交配を何世代か繰り返すうちに白人に近い存在に高められていく
そのために、親元から引き離し、白人の環境のなかで育て白人へ同化し、アボリジニ的要素を消していく・・・そんな発想があったように思えます。
もちろん、時代とともに考え方も変化し、その政策も変わっていきます。
剥き出しの優生思想は、次第に“保護”の考え方でソフィスティケイテッドされていきます。
1911年にはノーザン・テリトリーが南オーストラリア州から連邦直轄地になり、アボリジニ問題が連邦によって取り扱われるようになりました。
1937年に行われた連邦・州アボリジニ担当部局会議で「“アボリジニは死に行く民族”という規定を廃止、純粋、混血を問わず白人社会に同化させることを基本方針とし、そのために、アボリジニを積極的に援助し、機会の均等を目指す」ことを明らかにしました。
これが政策の大きな転換点になったようです。
1965年には、アボリジニに対する強制同化策を廃止し、文化の維持を認めつつ、オーストラリア社会への統合を促進する統合政策が採用されました。
(http://www.globalcom-japan.com/aust10.htm)
こうした変化が、「盗まれた世代」に関する対象、年代の記述のばらつきになっていると思われます。
また、次第に“保護”の趣旨が入り込むことで、必ずしも否定的な評価をしない意見も生まれてくるのでしょう。
************
アボリジニ政策の転換後、アボリジニの人口は増え始め1991年の調査では26万5千人いるとされたが、白人入植時を依然下回っている。
また、諸政策にもかかわらず、アボリジニの失業率は高く平均収入は全オーストラリア平均の半分ほどで、彼らの収入の大半は政府からの福祉手当、失業手当によって構成されている。
随分改善されてきてはいるが、一般オーストラリア人と比べ、平均寿命は短く、幼児死亡率が高く、さらに、ノーザンテリトリーやクイーンズランドでは、アボリジニのアルコール中毒とそれに伴う犯罪検挙率が高く、問題は多い。
長い間迫害され無視され続け、土地との精神的結びつきを失い、経済的自立を失った人々が、いまだ、新しい生活になじめず苦悩している姿が浮かび上がってくる。(http://www.globalcom-japan.com/aust10.htm)
************
アボリジニの権利意識の高まり、オーストラリア政府の「白人同化政策」に対する謝罪の要求に対し、ハワード政権は支持基盤である保守層への配慮と賠償訴訟の問題を考慮して、過去の白人社会がしてきたことは「遺憾」であるが、「過去の政策に責任はない」として「謝罪」はしないという立場を取っていました。
ただし、シドニーオリンピックは、立候補の段階から「アボリジニら先住民に貢献する五輪の開催」を約束し、また、聖火リレーの演出などを通じて、“和解”への第一歩にしようとていたようではあります。
結局、過去のしがらみを断ち切り、明確な謝罪を行うことは政権交代でしか実現しませんでした。
なんだかんだ言っても、政権が変わるということは歴史の歯車を回していくうえで、重要なことのようです。
日本でも肝炎訴訟の問題などで進展が見られたのは、政権交代への危機感あってのことでしょう。
野党となった自由党のネルソン党首はラッド首相による謝罪動議を支持するとしながらも、「政府の過去の政策には善意に基づいたものもある」と述べ、アボリジニ・コミュニティーの一部にみられた児童に対する性的虐待発生率の高さなどを根拠に挙げたそうです。【2月13日 AFP】
先述のような歴史的経緯のなかで、一部に“善意”に基づく保護政策もあったことが推察はされますが、謝罪の際にそれをエクスキューズするのは“本心では謝罪などする気はない”と言っているのと同じであり、アボリジニの感情を逆撫でするだけでしょう。
“謝罪”で全てが解決されるわけでなく、 “長い間迫害され無視され続け、土地との精神的結びつきを失い、経済的自立を失った人々”の立ち直りをどのように手助けしていくのか、これからの問題です。
“謝罪”によって、ようやくこれらの問題解決へ向けた取り組みのスタートラインに立てたというところでしょうか。
昨年9月、国連総会は世界3億7000万人の先住民の人権保護などをうたった「先住民の権利に関する国連宣言」を賛成143、反対4、棄権11で採択しましたが、そのときに反対した4カ国です。
採択された宣言は、先住民族の自決権と、それに伴う政治的地位を決定し、自由に経済的、社会的、文化的発展を追求する権利、強制的な同化や文化の破壊にさらされない権利、自分たちの土地から立ち退きを強いられない権利などを認めています。
また、伝統的に所有、占有などをしていた土地や資源に対する権利を認め、自由でかつ情報に基づく事前の同意なしに収用、占有などされた場合には、原状回復や公正な補償を得る権利をも規定しています。
しかし、多くの国が異なる民族を抱えていますので(日本もアイヌ民族の問題があります。)、先住民族の“自決権”が“独立運動”につながるのではという警戒感、諸権利関係に関する国内法との調整など、同宣言は非常に困難な問題を伴います。
80年代から20年以上の議論が続けられ、“宣言のどの条文も主権国家の領域的および政治的一体性を損なうような行為を認めたり、促すと解釈され得ない”との文言が加えられたほか、前文に、地域や国の特徴や歴史的、文化的背景が考慮されるべきであることが加えられるなどの修正を経て、当初難色を示していたアフリカ諸国も賛同することになり採択へと漕ぎ着けました。
日本も「民族自決権は国家からの独立を意味しない」ことなどを強調して賛成。
反対した4カ国を見ると、あらためて「なるほどね・・・」という感じがします。
いずれも、比較的近年、遠方から移住した民族・人々が支配的な地位を得ている社会です。
それだけに権利関係の調整が困難なのでしょう。
いずれも“民主主義”を標榜する国家ではありますが、その“民主主義”が及ぶ範囲には自ずと制約がある、あるいは、あったのでしょう。
こんな昨年の話を持ち出したのは、言うまでもなく、オーストラリアのラッド首相がアボリジニの人々に対して明確な謝罪を行ったというニュースを見たからです。
ラッド首相は議会で「歴代の議会・政府の法や政策によって、われわれの仲間であるアボリジニに多大な悲しみ、苦しみ、損害を負わせたことを謝罪する」と述べました。
オーストラリアでは19世紀末から1970年代にかけ、白人社会との同化を目的にアボリジニの子どもを親から強制的に引き離し、白人家庭や施設で育てさせる政策を取ってきました。
約10万人の子どもが強制的に隔離されたとされ、「盗まれた世代」と呼ばれています。
「盗まれた世代」については、“アボリジニと白人との混血”を対象としたのか、“アボリジニの子供一般”なのか、また、その時期についても、上記のような“19世紀から”、“1910年頃から”、“70年代までの40年間”など、いろんな説明が散見されます。
入植当初の頃はアボリジニはカンガルーと同様、白人の“狩猟の対象”だったという話はよく耳にします。
アボリジニに関する考え方の背景には優生学的発想がありました。
アボリジニは“劣った種族”であり、その純潔種は放置しとけば勝手に自然淘汰で絶滅する。(実際は白人の暴力や白人が持ち込んだ病気で激減していく訳ですが・・・)
白人との混血は人種間の差異を曖昧にするもので問題である。
しかし、混血は白人との交配を何世代か繰り返すうちに白人に近い存在に高められていく
そのために、親元から引き離し、白人の環境のなかで育て白人へ同化し、アボリジニ的要素を消していく・・・そんな発想があったように思えます。
もちろん、時代とともに考え方も変化し、その政策も変わっていきます。
剥き出しの優生思想は、次第に“保護”の考え方でソフィスティケイテッドされていきます。
1911年にはノーザン・テリトリーが南オーストラリア州から連邦直轄地になり、アボリジニ問題が連邦によって取り扱われるようになりました。
1937年に行われた連邦・州アボリジニ担当部局会議で「“アボリジニは死に行く民族”という規定を廃止、純粋、混血を問わず白人社会に同化させることを基本方針とし、そのために、アボリジニを積極的に援助し、機会の均等を目指す」ことを明らかにしました。
これが政策の大きな転換点になったようです。
1965年には、アボリジニに対する強制同化策を廃止し、文化の維持を認めつつ、オーストラリア社会への統合を促進する統合政策が採用されました。
(http://www.globalcom-japan.com/aust10.htm)
こうした変化が、「盗まれた世代」に関する対象、年代の記述のばらつきになっていると思われます。
また、次第に“保護”の趣旨が入り込むことで、必ずしも否定的な評価をしない意見も生まれてくるのでしょう。
************
アボリジニ政策の転換後、アボリジニの人口は増え始め1991年の調査では26万5千人いるとされたが、白人入植時を依然下回っている。
また、諸政策にもかかわらず、アボリジニの失業率は高く平均収入は全オーストラリア平均の半分ほどで、彼らの収入の大半は政府からの福祉手当、失業手当によって構成されている。
随分改善されてきてはいるが、一般オーストラリア人と比べ、平均寿命は短く、幼児死亡率が高く、さらに、ノーザンテリトリーやクイーンズランドでは、アボリジニのアルコール中毒とそれに伴う犯罪検挙率が高く、問題は多い。
長い間迫害され無視され続け、土地との精神的結びつきを失い、経済的自立を失った人々が、いまだ、新しい生活になじめず苦悩している姿が浮かび上がってくる。(http://www.globalcom-japan.com/aust10.htm)
************
アボリジニの権利意識の高まり、オーストラリア政府の「白人同化政策」に対する謝罪の要求に対し、ハワード政権は支持基盤である保守層への配慮と賠償訴訟の問題を考慮して、過去の白人社会がしてきたことは「遺憾」であるが、「過去の政策に責任はない」として「謝罪」はしないという立場を取っていました。
ただし、シドニーオリンピックは、立候補の段階から「アボリジニら先住民に貢献する五輪の開催」を約束し、また、聖火リレーの演出などを通じて、“和解”への第一歩にしようとていたようではあります。
結局、過去のしがらみを断ち切り、明確な謝罪を行うことは政権交代でしか実現しませんでした。
なんだかんだ言っても、政権が変わるということは歴史の歯車を回していくうえで、重要なことのようです。
日本でも肝炎訴訟の問題などで進展が見られたのは、政権交代への危機感あってのことでしょう。
野党となった自由党のネルソン党首はラッド首相による謝罪動議を支持するとしながらも、「政府の過去の政策には善意に基づいたものもある」と述べ、アボリジニ・コミュニティーの一部にみられた児童に対する性的虐待発生率の高さなどを根拠に挙げたそうです。【2月13日 AFP】
先述のような歴史的経緯のなかで、一部に“善意”に基づく保護政策もあったことが推察はされますが、謝罪の際にそれをエクスキューズするのは“本心では謝罪などする気はない”と言っているのと同じであり、アボリジニの感情を逆撫でするだけでしょう。
“謝罪”で全てが解決されるわけでなく、 “長い間迫害され無視され続け、土地との精神的結びつきを失い、経済的自立を失った人々”の立ち直りをどのように手助けしていくのか、これからの問題です。
“謝罪”によって、ようやくこれらの問題解決へ向けた取り組みのスタートラインに立てたというところでしょうか。