孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

東ティモール  大統領襲撃事件を越えて

2008-02-12 21:20:04 | 国際情勢
昨日来報道されているように、東ティモールのラモス・ホルタ大統領(58)が11日早朝、首都ディリの自宅で武装集団に襲撃され負傷しました。
ホルタ氏は腹部に銃弾を受け、首都ディリのオーストラリア軍基地で緊急手術を受けた後、治療のため豪州北部の都市ダーウィンへ移送されました。
ホルタ大統領の自宅が襲われた直後、グスマン首相の車列も襲撃を受けましたが、グスマン首相は無事でした。

武装集団を率いたのは、06年に軍兵士の大量解雇を機に発生した暴動で反乱を首謀したレイナド元少佐とみられており、元少佐は銃撃戦で死亡しました。
グスマン首相は48時間の期限を付けて非常事態を宣言し、夜間外出禁止令を発令。
ディリ市内は平穏を保っていますが、ラッド豪首相は治安回復のため、新たに東ティモールへ兵士など約200人を追加派遣すると表明しています。

ここ数十年の東ティモールの歴史は苦難と混乱の歴史でもあります。
東ティモールは、第二次大戦中の日本占領の期間もありますが、もともとはポルトガルの植民地。
ポルトガル国内の政変に伴い75年に独立宣言を行いましたが、左派色が強い独立運動に対し、隣国インドネシアが右派勢力を介して介入。

結果的にインドネシアに編入されますが、インドネシア占領下で、アムネスティによると65万人の人口のうち20万人が犠牲になったとも言われています。
3人から4人にひとりが死んだという計算で、カンボジアのクメールルージュの虐殺に匹敵、あるいは、それを上まわる惨劇です。
その後も東ティモールでは抵抗運動が続きますが、その活動の中心になったのが、後日ノーベル平和賞を受賞したホルタ大統領(今回負傷)であり、グスマン首相等でした。

一方、この東ティモール併合を強行し、抵抗運動を弾圧したのが、反共路線をとるインドネシアのスハルト大統領。
当時の東西関係のなかで、日本を含む西側諸国はこれを黙認しました。
スハルトは先日他界しましたが、ホルタ大統領は入院中のスハルト元大統領について、「過去を忘れることはできないが、我々は、スハルト氏が亡くなる前に彼を許すべきだ。国民は、彼のために祈ってほしい」と国民に呼びかけたそうです。【1月17日 毎日】
なお、東ティモール国民の99%はキリスト教徒です。

98年にスハルト政権が倒れ、新政権が東ティモールの独立容認の立場を取ったことから、急速に独立の気運が高まりました。
99年には、国連監視下でインドネシア内の高度自治州案の賛否を問う住民投票が行われ、反対多数で独立が決定しましたが、これに反対する民兵と一部インドネシア国軍が独立運動を弾圧。
双方が破壊・殺害しあう泥沼となり、東ティモールは再び大きな犠牲を出しました。
国際社会が介入したのは、そのような犠牲が出つくした後、混乱も一段落した頃でした。

その後、国連のもとで02年に独立。
日本も02年から2年間、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣して、国づくりを支援しました。
PKOに限らず全てことについて言えますが、始めるときは激しい議論が戦わされても、実施された後の検証はあまりなされないのが日本の常です。
東ティモールのPKO活動についても、最初から結論ありきの左右の主張は散見しますが、実際のところどうだったのでしょうか。

派遣されたのは施設部隊でしたが、自衛隊員の真面目さ、地元住民を分け隔てしない接し方を評価するものもあります。
部隊が任期を終え撤収する際、機材や車両などは日本へ持ち帰るより現地に残したほうが安上がりなこともあって、それらはODA扱いで現地に残してきたそうです。
ただ残すだけでなく、それら機材・車両の使い方について現地の人間に徹底した技術指導を行ったそうで、そのことによってエンジニアとしての人材が現地で育ち、資材も撤収後有効に活用され続けた・・・という話はなかなか印象的です。
http://www2.jiia.or.jp/pdf/asia_centre/h18_east_timor/h18_east_timor-08_Chapter4.pdf

上記レポートがどういう立場で書かれたものが判別しがたく、評価は難しいところはありますが、単に現地で何かをするだけでなく、後々まで現地に根付く技術指導ができれば、人材の乏しい現地の復興のためには何よりでしょう。

東ティモールは独立後も混乱が続きます。
2006年4月に西部出身の軍人約600人(国軍は全体でも2000人)が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議しストライキを起こしましたが、政府はスト参加者全員を解雇。
これを不服とした参加者側が蜂起、国軍との間で戦闘が勃発。
治安維持が不可能となった政府はオーストラリア・マレーシア・ニュージーランド・ポルトガルに治安維持軍の派遣を要請し、翌日にはオーストラリア軍が早速展開し、その後4カ国による治安維持が行われました。

このときの反乱の首謀者が、今回事件を起こしたレイナド元少佐(反乱後、投降して服役していましたが、後に仲間50名と脱走)でした。
反乱当時の首相は東ティモール独立革命戦線(フレティリン)のアルカティリ首相で、現首相(当時は大統領)のグスマン氏とは政治的に対立する関係にありました。
従って、アルカティリ政権に反乱を起こしたレイナド元少佐とグスマン氏とは比較的近い関係にあるとも言われていましたが、グスマン氏が投降を求めたあたりから両者の関係はこじれてきたとも・・・【2月12日 毎日】

なお、この06年の反乱時も、今回の事件でも、オーストラリアが機敏に動いています。
もちろん地理的に近いということもありますが、あるいは人道上の配慮もあるかもしれませんが、石油など資源の利権確保の狙いもあるようです。

現在、東ティモールには国連東ティモール統合支援団(UNMIT)の文民警察要員約1600人が派遣され、治安維持や警察官の訓練、国民和解支援などの任務を負っています。
日本からもUNMITに文民警察官2人が派遣されていましたが、今月5日に帰国したばかりでした。
また、今回事件が起きる数日前に、日本政府が新たに海上保安庁からの要員派遣を検討しているニュースが報じられたばかりでもありました。【2月9日 朝日】

今回の事件について、“前途多難”といった基調で報じられていますが、75年の独立宣言以降の混乱を眺めてくると、75年当時の惨劇、独立前の混乱、06年の反乱、そして今回事件と、その混乱規模は次第に小さくなってきていますので、長い眼で見ると、落ち着いた社会へ向けて収斂していく過程にある・・・というのはあまりにも楽観的に過ぎるでしょうか。
混乱の火種のひとつだったレイナド元少佐も亡くなったことだし・・・。
殺し合いばかりしていてもどうにもならない・・・と、そろそろ思い始める頃・・・であって欲しいものです。

コメント
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