昨日はスーパーテューズデイということで、メディアにはアメリカ大統領選挙の話があふれていました。
各候補の政策的中身の話などには全く不案内ですが、TVに流れる選挙風景にはひきつけられることがしばしばあります。
ひとつはヒラリーのこと。
ヒラリーの政策とか性格とかは別にして、正直言って最近のヒラリーにはミーハー的に同情を禁じえません。
彼女が“いずれは大統領に”にと言われだしたのはいつ頃からだったでしょうか。
ファースト・レディ時代には、旦那のビルと一緒に“ビラリー”なんて揶揄もされましたが、あの頃すでに「旦那よりヒラリーのほうが・・・」という声もあったように思います。
2000年のニューヨーク州上院議員出馬の頃には、周囲にも“やがては・・・”という予想などもはっきりと出てきていました。
ただ、当時“本当に世界をリードするアメリカ大統領に女性がなるのかね・・・、それに彼女を嫌っている人も多いようだし・・・”という感がありました。
恐らく彼女自身は随分以前から“自分なら・・・”という思いはあったのでしょう。
そんな十余年、女性初のアメリカ大統領というゴールを目指して走り続け、時には色ボケ・バカ亭主を心ならずもかばいながら、ようやく“本命”として周囲が認めるようになり、ゴールも間近に思えるようになりました。
マラソンで言えば42kmを走りぬき、競技場に戻ってきてゴールまでわずか、みんながヒラリーの勝利を信じ始めたそのとき、ふと後ろを見ると見知らぬ男が激しく追ってきます。
つい3年前は一介の州議会議員でしかなかったオバマ。
慌ててもがいても足は進まず、後ろからどんどん迫ってきて、ついには・・・。
“やっと、ここまで来たのに・・・”という彼女の心情を思うと、目が潤んでくるのも致し方ないことかと思います。
2回目の涙については相当に厳しい、あるいは“女の武器”などと揶揄する批判が多く見られましたが、ヒラリーに酷なような感じがします。
最近では資金集めでもオバマに差をつけられ、500万ドル、5億円以上の自己資金を1月末につぎ込んでいるとか。【2月7日 時事】
確かにオバマのスピーチは人を引き付けるものがありますし、“根底から変えてくれるのでは”という期待をいだかせるものがあります。
恐らくオバマを支持する若い人にとっては、ヒラリーはすでに権力の中心に位置するオバサンにすぎないのでしょうが、これまでの彼女の長い道のりを思うと“あと一息なのに・・・”と思ってしまいます。
ヒラリーが大統領になったら日本は無視されるよ・・・といったこともあるでしょうが、どうせ誰がアメリカ大統領になっても、もはや東アジアでの関心は中国であり日本のことは二の次でしょう。
“日本を重視”と言ったところで、“どのように日本を利用するか”という話に他ならず、少し距離を置くぐらいが日本のためにもいいのかも。
アメリカ大統領選挙にひきつけられるもうひとつの理由は、人々の熱狂・心酔ぶりにあります。
先日、NHKの大河ドラマ“篤姫”のなかで、ジョン万次郎が篤姫らに「アメリカではプレジデントというのがおって、みんなの入れ札で決めよります。」みたいなことを言い、一同が「ほーっ」とカルチャーショックを受ける場面がありました。
篤姫の時代から150年ほどたった現在、議員内閣制と大統領制という形態の違いはありますが、日本もアメリカも“民主主義”の国というくくりに入れられるようにはなっています。
それにもかかわらず、アメリカの大統領によせる思い入れ、心酔ぶり、選挙活動への参加の様子などを見るにつけ、篤姫らが万次郎の話に感じた“ほーっ”という思いを今なお感じてしまいます。
もちろんアメリカの政治システムには日本同様、あるいはそれ以上に根深い多くの問題があるのでしょう。
アメリカの政治が素晴らしい・・・などと言うつもりは毛頭ありません。
また、彼らの熱狂ぶりを“無邪気”“単純”と揶揄するのも容易です。
そうであるにしても、日本の政治・政党・政治家に対する不信感・無関心と見比べるとき、海の向こうでの熱狂は“すごいね・・・”という感じがします。
あえて、どちらがより“民主主義”の原点に近いかと問えば、日本という答えは難しい気がします。
政治家のスピーチも全く違います。
総理は棒読み答弁、野党党首は国民の前に出たがらない、密室でうごめく権力者達。
選挙になれば、ひたすら名前を連呼して走り回るだけ。
無残な投票率。
“誰がやったって同じじゃん。関係ないよ・・・”という声。
“日本の民主主義って一体なんなの?”とも思えます。
しかし、そんな自他ともに認める“民主主義”教的な国、アメリカは世界中で戦争を繰り返しています。
大きなものだけでも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争・・・
小さな武力行使、介入は多数。
それでも足りないのか、イラン攻撃の噂が出たり消えたり。
更に、先月末にはゲーツ米国防長官がアルカイダ掃討のため、パキスタンに米軍を派遣する用意を表明しました。
これに対し、ムシャラフ大統領は「米軍が(掃討を成功させる)魔法のつえを持っていると考えないでほしい」と発言したそうで、なかなか気のきいた答えです。
“民主主義”教のアメリカが、ひたすら戦争につきすすむ・・・。
もちろんパワーゲーム的な説明、資源戦略等々もありますが、一部権力エリートだけでなく基本的には国民がそのような行動を支持し、税金で負担する訳で、どうも“民主主義”というものは平和を当然に導くものではないようにも思えます。
各候補の政策的中身の話などには全く不案内ですが、TVに流れる選挙風景にはひきつけられることがしばしばあります。
ひとつはヒラリーのこと。
ヒラリーの政策とか性格とかは別にして、正直言って最近のヒラリーにはミーハー的に同情を禁じえません。
彼女が“いずれは大統領に”にと言われだしたのはいつ頃からだったでしょうか。
ファースト・レディ時代には、旦那のビルと一緒に“ビラリー”なんて揶揄もされましたが、あの頃すでに「旦那よりヒラリーのほうが・・・」という声もあったように思います。
2000年のニューヨーク州上院議員出馬の頃には、周囲にも“やがては・・・”という予想などもはっきりと出てきていました。
ただ、当時“本当に世界をリードするアメリカ大統領に女性がなるのかね・・・、それに彼女を嫌っている人も多いようだし・・・”という感がありました。
恐らく彼女自身は随分以前から“自分なら・・・”という思いはあったのでしょう。
そんな十余年、女性初のアメリカ大統領というゴールを目指して走り続け、時には色ボケ・バカ亭主を心ならずもかばいながら、ようやく“本命”として周囲が認めるようになり、ゴールも間近に思えるようになりました。
マラソンで言えば42kmを走りぬき、競技場に戻ってきてゴールまでわずか、みんながヒラリーの勝利を信じ始めたそのとき、ふと後ろを見ると見知らぬ男が激しく追ってきます。
つい3年前は一介の州議会議員でしかなかったオバマ。
慌ててもがいても足は進まず、後ろからどんどん迫ってきて、ついには・・・。
“やっと、ここまで来たのに・・・”という彼女の心情を思うと、目が潤んでくるのも致し方ないことかと思います。
2回目の涙については相当に厳しい、あるいは“女の武器”などと揶揄する批判が多く見られましたが、ヒラリーに酷なような感じがします。
最近では資金集めでもオバマに差をつけられ、500万ドル、5億円以上の自己資金を1月末につぎ込んでいるとか。【2月7日 時事】
確かにオバマのスピーチは人を引き付けるものがありますし、“根底から変えてくれるのでは”という期待をいだかせるものがあります。
恐らくオバマを支持する若い人にとっては、ヒラリーはすでに権力の中心に位置するオバサンにすぎないのでしょうが、これまでの彼女の長い道のりを思うと“あと一息なのに・・・”と思ってしまいます。
ヒラリーが大統領になったら日本は無視されるよ・・・といったこともあるでしょうが、どうせ誰がアメリカ大統領になっても、もはや東アジアでの関心は中国であり日本のことは二の次でしょう。
“日本を重視”と言ったところで、“どのように日本を利用するか”という話に他ならず、少し距離を置くぐらいが日本のためにもいいのかも。
アメリカ大統領選挙にひきつけられるもうひとつの理由は、人々の熱狂・心酔ぶりにあります。
先日、NHKの大河ドラマ“篤姫”のなかで、ジョン万次郎が篤姫らに「アメリカではプレジデントというのがおって、みんなの入れ札で決めよります。」みたいなことを言い、一同が「ほーっ」とカルチャーショックを受ける場面がありました。
篤姫の時代から150年ほどたった現在、議員内閣制と大統領制という形態の違いはありますが、日本もアメリカも“民主主義”の国というくくりに入れられるようにはなっています。
それにもかかわらず、アメリカの大統領によせる思い入れ、心酔ぶり、選挙活動への参加の様子などを見るにつけ、篤姫らが万次郎の話に感じた“ほーっ”という思いを今なお感じてしまいます。
もちろんアメリカの政治システムには日本同様、あるいはそれ以上に根深い多くの問題があるのでしょう。
アメリカの政治が素晴らしい・・・などと言うつもりは毛頭ありません。
また、彼らの熱狂ぶりを“無邪気”“単純”と揶揄するのも容易です。
そうであるにしても、日本の政治・政党・政治家に対する不信感・無関心と見比べるとき、海の向こうでの熱狂は“すごいね・・・”という感じがします。
あえて、どちらがより“民主主義”の原点に近いかと問えば、日本という答えは難しい気がします。
政治家のスピーチも全く違います。
総理は棒読み答弁、野党党首は国民の前に出たがらない、密室でうごめく権力者達。
選挙になれば、ひたすら名前を連呼して走り回るだけ。
無残な投票率。
“誰がやったって同じじゃん。関係ないよ・・・”という声。
“日本の民主主義って一体なんなの?”とも思えます。
しかし、そんな自他ともに認める“民主主義”教的な国、アメリカは世界中で戦争を繰り返しています。
大きなものだけでも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争・・・
小さな武力行使、介入は多数。
それでも足りないのか、イラン攻撃の噂が出たり消えたり。
更に、先月末にはゲーツ米国防長官がアルカイダ掃討のため、パキスタンに米軍を派遣する用意を表明しました。
これに対し、ムシャラフ大統領は「米軍が(掃討を成功させる)魔法のつえを持っていると考えないでほしい」と発言したそうで、なかなか気のきいた答えです。
“民主主義”教のアメリカが、ひたすら戦争につきすすむ・・・。
もちろんパワーゲーム的な説明、資源戦略等々もありますが、一部権力エリートだけでなく基本的には国民がそのような行動を支持し、税金で負担する訳で、どうも“民主主義”というものは平和を当然に導くものではないようにも思えます。