(1989年天安門広場 “動乱”を引き起こした反革命分子とされた学生ら “flickr”より By Leon Tsang http://www.flickr.com/photos/zuolo/3594335935/ )
【「死んで(政府と)闘う」】
毎年この時期になるとメディアに取り上げられる中国の「天安門事件」に関する話題。
6月4日で23年目を迎えます。
“1989年4月に死去した改革派指導者、胡耀邦総書記の追悼集会を機に、学生らが天安門広場を埋めるなど大規模な民主化要求運動を起こした。トウ小平(トウは登におおざと)氏ら指導部は「動乱」と位置づけ、6月3日夜から翌朝にかけて軍部隊を投入。当局は弾圧による死者を319人としたが、実際の死傷者数ははるかに多かったとされる。”【6月1日 朝日】
犠牲者の名誉回復を求め続けた父親の、無念の自殺も報じられています。
もちろん、自殺に至った事情は“無念さ”意外にも、他人には窺い知れないいろんなこともあるでしょうが。
****天安門事件の犠牲者の父自殺 名誉回復叶わず「絶望」****
中国の民主化を求めた1989年6月の天安門事件で、次男を失った軋偉林さん(73)が自殺していたことが28日、分かった。遺書には、鎮圧部隊の発砲で死亡した息子の名誉回復を23年訴えながら、政府に無視され続けた父親の絶望感が記されていた。
事件で子を失った遺族らでつくるグループ「天安門の母」が明らかにした。遺族は年老い、メンバーのうち29人が他界したが、自殺は初めてという。
軋氏は24日、北京市内の自宅を出てから行方不明になり、25日、近くの地下駐車場で首をつっているのが見つかった。遺書には「(事件から)20年余りが過ぎたが、息子の無念をはらせぬままだ。死んで(政府と)闘う」とあったが、公安当局に押収されたという。【5月28日 朝日】
***********************
【「うまく処理すれば、こんな事態は避けられた」】
陳希同氏による回顧録も話題になっています。
陳希同氏は事件当時北京市長の地位にあり、88年には李鵬内閣において国務委員(副首相級)にも就任しています。
陳氏は回顧録の中で、民主化運動が武力弾圧された天安門事件を「後悔すべき悲劇」と総括しているそうですが、事件当時は「動乱」鎮圧を支持する立場から、6月30日の第七期全国人民代表大会常務委員会第八回会議で「動乱制止と反革命暴乱平定の状況に関する報告」を行っています。
なお、陳氏は事件後は中央政治局委員、北京市党委書記にも就き、北京を牛耳るトップの座にありましたが、江沢民総書記と対立して失脚しています。
****「天安門事件は避けられた」 元北京市長が回顧録*****
1989年の天安門事件当時の北京市長だった陳希同氏(81)の回顧録が、6月1日に香港で出版される。「うまく処理すれば、こんな事態は避けられた」と遺憾の意を示し、当時の最高指導者のトウ小平(トウは登におおざと)氏が市民への武力弾圧を主導したとも示唆している。
事件では、民主化を求めて北京の天安門広場に集まった学生や労働者らに軍が発砲し、政府発表で319人の死者が出た。数千人との見方もあるが全体像は明らかになっていない。
軍の出動については、陳氏ら北京市幹部が学生や労働者の動向についてトウ氏に大げさに報告したことがきっかけだとの説がある。陳氏は「トウ氏をだませるはずがない。彼は多数のルートから現場の状況を把握できていた」とし、トウ氏自らの判断だと強調した。【5月29日 朝日】
***********************
“すべては小平が決めたこと”と、やや自己弁護の趣もあるような感もします。
もちろん、当時において最高実力者・小平の意向にたてつくことは、民主化運動に理解を示して失脚した趙紫陽総書記と同じ政治的運命をたどることを意味する状況ではありましたが・・・。
【「阻止されなかったのは不思議だ」】
なお、中国では29日夜、この件を報じていたNHK海外放送のニュース番組が一時中断されたそうです。
中国当局は普段から天安門事件に関しては非常な神経を使っていますし、6月4日も近いこの時期ですから、ある意味“当然”の対応かもしれません。
“当然”でないのは、むしろ下記記事が伝える当局の対応の方でしょう。
****「天安門」集会、阻止されず=事件23周年を前に―中国****
30日付の香港各紙によると、中国貴州省の省都・貴陽市内の広場で27、28の両日、天安門事件23周年(6月4日)を前に民主活動家ら数十人が集会を開き、「政治的迫害の停止」などを訴えた。集会の周りには数百人の見物人が集まったが、警察は集会を阻止しなかった。
集会参加者の一人は「阻止されなかったのは不思議だ」と述べ、共産党指導部内の権力闘争で党中央政法委員会の周永康書記が劣勢になったため、警察、検察などを管轄する政法部門の機能が低下しているのではないかとの見方を示した。
集会の主要メンバーはこれまで、この種の集会を開こうとするたびに警察によって自宅かホテルに軟禁され、6月4日以後に解放されていたという。【5月30日 時事】
*************************
【事件を知らない若者】
この集会では、“事件の映像を流しながら真相究明を訴えたが、事件を知らない若者が「でたらめだ」などと批判し、主催者側と口論になる場面もあったという”【5月30日 毎日】とのことです。
89年当時、日本では、中国から送られてくる情報・映像にくぎ付けになっていました。
天安門広場で高まる緊張に“中国が変わるのでは?”との期待も感じました。
戦車の列を止める男性に、強い感銘も受けました。
事件を巡る中国各地の軍部の対応に、内戦の可能性を感じた時期もありました。
軍による徹底した弾圧に憤りも感じました。
中国国内では情報は統制されています。事件後、“天安門事件”は封印され、教育の場でも取り上げられることはありません。
そうしたことで、「でたらめだ」と怒る若者が多数生まれてくる訳ですが、情報統制の怖さを感じます。
【「中国に必要なのは指導者の口約束ではない。権力を監視する制度だ」】
“共産党指導部内の権力闘争”云々については、実際のところはよくわかりません。
天安門事件の再評価は難しい状況にあると、下記記事は報じています。
****「天安門」進まない再評価 事件から23年****
中国の民主化を求めた学生らが武力で弾圧された天安門事件から4日で23年。温家宝(ウェン・チアパオ)首相は「動乱」とされる事件の再評価につながる可能性のある政治改革への決意を訴えるが、指導部内に同調の動きは見えない。名誉回復の願いがかなわぬことに絶望し、自殺する遺族も現れた。
「政治体制改革を成功させなければ、中国がこれまで得てきた成果を失う可能性がある」
3月14日、温首相は重慶市副市長の米国総領事館駆け込み事件で、同市共産党委員会書記だった薄熙来(ポー・シーライ)氏らを批判。その中で政治改革の推進に踏み込んだ。
改革に慎重な層を代表する政治家だった薄氏は、翌15日に重慶市の書記職を解任された。こうした動きを見て、改革派に有利な方向に政治の風向きが変わるとの見方が出た。温首相の言葉通りに改革が進めば、天安門事件の評価の見直しにもつながるのでは、との受け止めも広がった。
直後からネット上では、過去の指導者を追悼するサイトで、故・趙紫陽元総書記をたたえる書き込みが爆発的に増えた。2009年12月から2年で241件だったのが、14日からの2週間で1800件を超えた。
趙氏は天安門事件の直前、民主化を求めた学生を見舞い、その主張に理解を示したとして総書記を解任された。この時、温首相は趙氏の部下として行動をともにしていたが、政治的な失脚は免れていた。趙氏の名誉回復は事件の再評価と密接な関係にある。
改革派の党関係者は「趙氏が残した政治体制改革のプランは温首相の手元にある。引退が近づいた温首相はここ数年、党最高指導部の会議で、何度か天安門事件の再評価を提起している」とも明かす。
しかし、同調する他の指導者は現れず、温首相の決意の固さも定かでない。評価見直しの動きは見えないままだ。
胡錦濤(フー・チンタオ)政権は薄氏への対応で党内の動揺を招いたと懸念し、むしろ「党中央との高度の一致を維持せよ」との合言葉を掲げ、政権の威信回復に力を入れ始めた。薄氏らを批判し、党内の亀裂を印象づけたとして、温首相への批判の声も漏れる。
中国で死者を弔う4月の清明節が近づくと、趙氏の追悼サイトは閉鎖され、書き込みは削除された。今年後半の党大会で選ばれる次期指導部が再評価に踏み込む可能性についても、否定的な見方が支配的だ。
趙氏の肉親は「私たちの状況は何も変わっていない。中国に必要なのは指導者の口約束ではない。権力を監視する制度だ。幻想は抱いていない」と話した。
事件で亡くなった学生らの遺族の間にも失望の思いが広がる。
5月24日、北京市内に住む軋偉林さん(73)は、リウマチで足の不自由な妻に「もう世話してあげることはできないよ」と言い残して自宅を去り、近くの駐車場で首をつった。遺書には戒厳部隊の発砲によって絶命した次男のことが書かれていた。「息子の無念を晴らせないままだ。私は死をもって闘う」とあった。
党指導部は、民主化運動を党の統治に挑んだ「動乱」と位置づけ、リーダーらを「反革命」などの罪で裁いた。遺族でつくる組織「天安門の母」のメンバーたちは、学生らの訴えはより良い中国を造るためのものだったとし、その名誉回復と今も詳細が不明な事件の実態解明を求めてきた。
同組織の発起人の一人、丁子霖さん(75)は「薄氏の事件も結局、党内の内部闘争でしかない。私たちが抱いているのは、共産党そのものへの絶望だ」と話す。【6月1日 朝日】
************************
89年当時、失脚した趙紫陽元総書記に同行して広場に立ち、学生らと向かい合った温家宝首相は、自己批判して事件と距離を置くことで政治生命をつなぎとめました。
ただ、師と仰ぐ胡耀邦や、失脚した趙紫陽同様に、政治改革への志は持っているとされ、これまでも事件再評価を巡っては薄熙来氏と対立があったようです。
しかし、派閥を持たない温家宝の政治的力量には限界があるとも見られており、指導部では孤立しているとも言われています。
常識的にも、薄熙来氏の事件で動揺した後ですから、体制の引き締めが強まる・・・と思われます。
“共産党指導部内の権力闘争”はコップの中の嵐であり、誰もコップ自体を割ろうとは考えていない・・・とも言われています。