団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

京間

2011年12月01日 | 無知

  きょうま」と いうと遂「狭間」と いう字が思い浮かびどうしても狭い方を指すように思ってしまうのは私だけでしょうか。ところがこれが「京間」なんで すね。紛らわしい限りです。

11月22日読売新聞コラ ム 続茶の湯 より

きょうま [京間]

長辺6尺3寸(191セン チ)、短辺3尺1寸5分(95センチ)の畳を使用する。京都から西日本に広まった。これに対し、関東の江戸間は長辺 が5尺8寸(175センチ)と小さい。茶室は普通。京間の規格で作られてい る。
  畳は柱と柱の間にきちんと収まるようにサイズが決められている。そうしないと部屋中に畳を敷き詰めることが できないからだ。…中略

隅々まで畳を敷くのは室町 時代、足利義政の頃に始まった。それ以前は板の間に様々な座具をおいて座っていた。だから生活文化である茶の湯の作 法も義政の時代に大きく変化した。
  ところで、なぜ茶室は全国的に京間なのか。
  それは茶道具のサイズや置き場所、ひとの歩き方まで、基準が京間だからだ。客は畳の縁から8寸(24セン チ)下がって座る。もし小さな畳だと、「体の大きな外国人男性は後ろの壁につっかえてしまう」と裏千家で外国人 留学生を指導するブルース・浜名さんはいう。…以下略

「きょう」の方が広かった のか。覚えておかなきゃ。チョッとサーチして見ました。

ウィキペディア 京 間

京間(きょうま)とは、建 築における寸法基準の1つ。1間=6尺5寸(曲尺)、もしくは畳の寸法を6 尺3寸×3尺1寸5分としたもの。京都を中心とした西日本で広く用いられた。

由来は定かではないが、室 町時代までは様々な寸法が用いられており、統一性は無かった。桃山時代の頃に畳や建具の互換性を確保するために考え 出されたと言われており、慶長13年(1608年)江戸幕府の作事方平内正 信によって書かれた『匠明』が「京間」の語の初出とされている。

建築資材の規格化に伴い、 次第に普及していったが、関東地方では慶安年間に江戸間(田舎間)が、次いで東海地方では中京間が考案され、地域に よって規格の差異が生じた。更に、戦後に入り、鉄筋コンクリート構造の集合住宅で畳が用いられるようになると団地間 が登場し、畳の寸法は多様化した。

表 千家不審菴:茶室と露地:京間の畳より

座具として使っていた畳 を、床(ユカ)に敷き詰めるためには、畳を規格化する必要がありました。そのためには建築の技術と調整しなければな りませんでした。すなわち建物を建てる時の柱間の基準を決めることです。そこで柱間を6尺5寸と定め、柱の寸法を4寸として、2間(柱間2つ)の間(12尺6寸)に2枚 敷ける畳の寸法は6尺3寸(約190cm)です。こうして6尺3寸×3尺1寸5分の畳の規格が生まれました。こ れが近畿地方を中心に広まった「京間」と呼ぶ規格です。

足利義政の東山殿の諸室 は、すべて畳が敷き詰められていました。この後は大工の技術も、京間の畳を敷き込むことができるように柱を立てる 「内法柱間制」に移行しました。しかしこの技術は関東には広まりませんでした。関東の大工は、「心々柱間制」に固執 しましたから、畳の寸法は京間より短く、5尺8寸(約175cm)が標準と なりました。これを江戸間(田舎間)と呼びました。茶の湯では京間の畳が基準となっています。

畳の寸法も色々あるんです ね。狭い日本もなかなか広いようです。長い間使われてきたものを統一するのは難しそうです。これで次に「きょうま」 を目にしたときに直ぐに思い出せるでしょうか。どうも怪しそうです。
  それにしても茶室が「京間」であることには納得できますが、「外国人男性が後ろの壁につっかえてしまう」は 余計でしょう。室町時代に外国人男性はいなかったのじゃないでしょうか。偶然と考えた方が自然でしょう。

なんて余計なお世話かな!