最近は殆ど 見なくなったテレビ番組のうち数少ない番組の「開運!なんでも鑑定団」で何度か紹介された中国の「翡翠の白菜」を見 て、なんでありふれた白菜を貴重な翡翠で彫ったりするんだろうと不思議でした。
國 立故宮博物院 National Palace Museum
清 翠玉白菜 長18.7cm、幅9.1cm、厚さ5.07cm
本物の白菜そっくりそのままともいえるこの作品は、翠玉(翡翠)を彫刻して作られたものである。わかりやすい題 材、清く真っ白な部分と緑の葉、いずれも身近で親しみやすさを感じさせる。葉の上に留まっている二匹の昆虫を見るの も忘れないでほしい。この昆虫は多産を象徴するキリギリスとイナゴである。この作品はもともと紫禁城内の永和宮に安 置されていた。永和殿は、光緒帝の妃であった瑾妃の寝宮であったことから、清らかさを象徴し、多産を願う瑾妃の嫁入 り道具だったのではないかと推測する者もいる。翠玉という素材と白菜の造型は清代中晩期の流行であるが、白菜と昆虫 という題材は、元代から明代初期の職業画家による草虫画の中によく見られ、民間で長きに渡って喜ばれた吉祥を象徴す る題材であった。…以下略
ところが、何時ものサイト巡回でもしかしたらと思える記事がありました。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平 成23(2011)年11月24日(木曜日) 通巻第3496号 より
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(読者の声3)貴誌通巻第3493号(読者の声2)で「PB生、千葉」氏が第二次大戦中の1943年、インドのベンガル地方で大飢饉が発生していますが」
と 書かれましたが、重要な点が見のがされています。当時のイギリス政府はベンガルでの飢饉ではなんの救済策をもとら ず、英軍のための食料挑発を強行したということです。
そ して、ベンガルでの飢饉の報告を聞いたときのチャーチルの反応は、「飢饉でガンディーは死んだか」だったそうです。
こ れが英国の国民性です。
名 前は失念しましたが、中国のあるベストセラー作家が、1940年に日本軍に追われた国民党軍が、通過したある村から 徹底的に食料を挑発した後、国民党軍を追ってその村に到達した日本軍が軍糧から村民に食物を分け与えたという噂を聞 き、現地を取材して「1940」と題した本を書いたそうです。
こ んなことは日華事変の中で当たり前におこなわれていたことでしょう。これが日本人の国民性とシナ人、イギリス人との 違いでしょう。
ま た日本の農学は古いとのことでしたが、環境的に日本では栽培が非常に困難であった白菜を札幌農学校の研究者と篤農家 の努力で明治時代に日本での栽培を可能にし、大正時代には大量生産・廉価化に成功し、一般庶民でも食べられるように なりました。
朝 鮮では古来白菜は高価な野菜で一般庶民は白菜自体もそれを材料としたキムチも食べることができませんでした。朝鮮の 庶民が白菜を食べることができるようになったのも札幌農学校の研究者と愛知県や伊豆大島の篤農家たちの心血を注いだ 努力の結果です。
こ のすばらしい日本の農学の伝統を破壊したのが、戦後の農協・農業族議員と欧米盲従の農学です。…以下略
ま さに現代は、戦国時代に切支丹たちが宣教師とスペイン・ポルトガル商人と結託して日本の伝統からは考えられない低劣 悪逆な犯罪・狼藉に手を染めた、日本人を日本人以下の存在に貶めた時代と同様な時代なのでしょう。(ST生、千葉)
もしかしたらこの白菜が彫られた頃は中国でも貴重品だったのかもしれません。それならわざわざ貴重な翡翠で彫ると いうのも分かるような気がします。
しかし、これも単なる下衆の勘繰りかもしれません。彫った人は、単に白菜のなにかに感じたのかもしれません し、やはり当時としては貴重なものとして珍重されていたのかもわかりません。
どうだったんでしょう!