明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昔は胡座をかいていたからと椅子の生活からふたたび座椅子に座布団生活に戻したが、限界である。足腰にくる。毎月通うクリニックでは貧血気味だと初めて言われ、今度癌検診も入れておきます。といわれた。昔とは違うということであろう。後悔しないよう、はじからやり残したことを潰して行かなくてはならない。先日の市ヶ谷の撮影も積年の思いをようやく果たした。私は目標がある訳ではなく目の前にぶら下がったイメージをパン食い競争のパンのように齧りつくだけである。子供の頃、頭に浮かんだことは何処へ行ってしまうのだ、と不思議であったが、次々可視化しないと自分でもあやふやなまま、死んでしまえば何処に行くも何も灰となるだけである。若い頃思った通り、やはり人生も夏休みのバイトの如し、慣れた頃に終わるようである。 数年間放置したままであった三島由紀夫へのオマージュも終わりに近づいて来た。三島に関しては始めた当初からモチーフは男の死以外にない。そして三島が最後に見たであろう光景。窓外に先程まで立っていたバルコニーが見え、その向こうには市ヶ谷ならぬ水平線が見える。後は日輪を輝かせるだけである。椿説男の死の最終カットはこれしかないと思っていた。 私は常日頃、根気もなければすぐにめげるへなちょこだが、それはひとえに、こういうことの為に、執念を温存するための仕組みでそうなっていると解釈している。こんなことは一つあれば充分だし、たくさんである。

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午前中、三島の『椿説弓張月』白縫姫仇討ち場面の馬琴の文章を複写。浮世絵のように背景に配そうと考えている。こんなことは、主役に陰影があったら出来ない。白縫姫は武藤太を縛り上げ、指を一本一本切り落とし、腰元に命じ、竹釘を打ち込み、苦しみうめく武藤太。北斎の挿絵には、すでに手下二人の首ははねられ、まるで果物のように置かれている。原作ではその後白縫自ら武藤太の首をはねる。恐ろしい場面であるが、歌舞伎では、こんな仇討ち場面なんて拍手喝采であろう。歌舞伎同様、私にしたところで、これまた陰影がないから手掛けられる無残な場面である。以前、神風連の割腹シーンを作ったが、はみ出すハラワタに三島の映画『憂国』同様、豚モツを使用したが生々しい。その時も、写真というものの身も蓋のなさに往生し、暗くして判り難くするという私が最も避けたい策しか取れず。それにしても三島は、当然一年後の市ヶ谷のことを念頭に演出していた訳である。改めて私の作家シリーズの中でも、作品の挿絵じみた物を制作しているようではまったく話しにならない相手である。そしてそんな本日、市ヶ谷駐屯地のツアーに参加して再びあの現場ヘ。途中交番で尋ねるが、子供みたいな警官に市ヶ谷駐屯地といっても通じず。 前回はバルコニーの撮影が目的であった。実際は大分コンパクトに移築されており、そのままでは使えず、良く再現したなと久しぶりに見て我ながら感心した。今回の目的は、三島が最後に目にした光景を撮影することである。ライターの妹尾美恵さんと待ち合わせ突入。あの部屋は、三島に思いをはせるのを防ぐために設置したとしか思えない、巨大で無粋な展示ケースが鎮座し、邪魔でまともに撮影できないようになっている。イメージのためなら、どんな手でも使うことにしている私である。すべてどかしてやる。

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椿説弓張月で密告により為朝を生け捕りにさせた仇、武藤太が木槌により竹釘を打込まれる処刑は“小槌の仕置”と呼ばれる肥後の山賊に伝わる処刑方法らしい。これから三島にやってもらう予定の武藤太の役は、三島が演出した歌舞伎では、市川猿翁の弟、四代目段四郎がやっている。もしやと思ったら、たまたまサイン色紙を持っていた。私の子供時代のアルバムを前の家に忘れて来て、何でこんな物を持っているという話である。これも何かの縁であろう。 裸の処刑場面だけは三島のこだわりで筋骨隆々の大映の俳優勝村淳がやっている。勝新太郎の勝プロ所属で、勝新の座頭市などでスタンドインをやり、『悪名』や『兵隊やくざ』ではよく見かける。ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』ではブルース・リーに一本背負いを決めている。また勝新と三島が共演した『人斬り』に勝村も出演している。そんな縁であろう。 雪降るこのシーンで琴を弾く白縫姫は、三島歌舞伎では常連の歌右衛門ではなく、高校卒業直後で大抜擢の坂東玉三郎である。『椿説弓張月』『人斬り』いずれも三島の死の前年の作品である。人斬りで田中新兵衛役の三島は、“めんどくせぇもういいや、何でも良いから腹切りたかったんだ”といわんばかり、ほとんど唐突に腹を切るが、リハーサルから竹光を血が滲むほど程腹に当て、周囲がハラハラしたそうだが、この場面により京都撮影所で使用する一年分の血糊を使ったらしい。つまり弓張月、人斬り、翌年の“本番”に向け、それこそリハーサル充分の三島なのであった。





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北砂図書館へ。砂町銀座商店街の近辺で引っ越し先を探したのに、アリオ北砂が近いので、ついそちらに行っていたが、砂町図書館が商店街の中を行くことがわかり、図書館へ行くときは帰りに商店街で買い物すれば良い。出無精の私もようやく一通り、必要な場所を把握出来た。 椿説弓張月の惨殺シーンは、三島の演出では、北斎の挿絵同様後ろ手に縛られ、座らされて腰元達に木槌で竹釘を打込まれる。黒蜥蜴に剥製にされた三島で、ほぼ同じポーズで一度作っている。そのまま使おうか、と思ったくらいである。ご丁寧に弓矢まで刺している。聖セバスチャンの場合は、三島もそうしたが、両腕を上げている。後ろ手はすでに作ったし、セバスチャンのオマージュという意味でも腕を上げたポーズにしようかと思った。なぜなら三島にとっては腋窩の翳りがつまり脇毛が重要ではないか、と思ったからである。これだけ書くと、何馬鹿なことで悩んでいる、と思われるかもしれないが、こればかりは『仮面の告白』を読んでもらわないとならない。と書きながら、妙なことで悩ませてくれて三島は本当に有難い人物である。こんな一見バカバカしいことについて悩むなんてことは、私の大好物である。 引っ越し後、私の東京は64年の東京オリンピック以前の東京だ、などと粋がって、掃除機を拒否し、箒とチリトリ、座布団に座椅子と決め込んだ訳だが、どうも足腰に来る。しかしユーチューブで久しぶりに小津安二郎の『お茶漬けの味』を観て、やっぱり良いよな。無性にお茶漬けを食べたくなる。しかしよく考えたら、佐分利信でさえ、今の私より年下であろう。粋がってないで、座椅子や文机の高さを少々高くすることを考えるべきであろう。

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『椿説弓張月』の中にあった聖セバスチャンの殉教図、武藤太の拷問場面だが、作るにあたり、決めかねていることがある。ブログに何度か書いたが、それ以前、板東妻三郎の無声映画『雄呂血』のように、追手に追い詰められ、刺叉やハシゴに囲まれ、ザンバラ髪の三島が刀を振り回し、顔は歌舞伎調、というのをイメージしていたのだが、残念ながら該当する作品、エピソードがない。薔薇十字社版では、三島は好き勝手?なガテン系の男達になり切り、そりゃ楽しかったろうが、私は根拠もなく、作りたいからといって捏造してはならない。そこに持ってきて、和製セバスチャンを見付けた訳である。そもそもが三島が演出した歌舞伎であるから、歌舞伎調メイクや、目の演技をしていても良い訳である。飛んで火に入る、といいたい所であるが、何を迷っているかというと、聖セバスチャンは、何本もの弓に射られていながら恍惚とした表情、というのが”ミソ“である。しかし一方の武藤太は、苦痛にうめきながら、半沢直樹に土下座させられた市川中車のような表情である。腰元達に竹釘を打込まれるのだから当然である。さて、どちらの表情にするか、である。こう書きながら三島が扮したセバスチャンは手本の絵画に準じ恍惚としているが、石塚版ではやはり苦痛にうめくべきであろう。こうしてサービスに務める私であった。本日のブログも、書いたお陰で決められた。そんな駄文にお付き合い頂くのはいつも心苦しくはある。 それにしたって、この一年の長さはなんだ。部屋の片付けばかりしていた気がする。嫌なことを嫌々やっていたら時間が経たないことがはっきりわかった。私が結婚していたら『火の鳥』の登場人物のような目に合っていただろう。

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5月のゴールデンウィーク明けに予定している個展会場『ふげん社』が移転し、その内覧会に出かける。古い趣きのある会場も良いが新築はまた気持ちが良い。まあいくら観たところで頭には何も浮かばず、展示は一言も発しないままお任せすることになるだろう。 昨日から出品作の解説を書いている。先日、写真作品に説明は不要ではないのか、というフェイスブック上で論議があった。確かに野暮といえばそうだし、必要ないなら、とは思うが、写真は通常外側の既存の世界を撮るものだから、なんとなく想像がつくかもしれないが、私の場合は、頭に浮かんだ、私しか見た事がない風景である。だったら絵画と同じだし、絵ではそんな解説しないだろうという事にもなるが、私の選ぶモチーフがまた厄介である。三島由紀夫を読んだ人なら判るか、というとそれがそうも行かない。三島の作品をただ作品化したというなら話は簡単だが、そうではない。特に、私の作品の中でも、作者にウケる事しか考えていない、という特殊な事情もある。それはともかく。 単純に考えて、三島由紀夫が汚穢屋姿で死んでいたり、王子様の格好でドラゴンに噛み砕かれている所を作った人間が、何の説明もせず、個展会場でただ押し黙って立っているなんてことが、はたして許されるものであろうか。私は許される気が全くしないのだが。

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“すでにここ一年あまり、私は奇体な玩具をあてがわれた子供の悩みを悩んでいた。十三歳であった。その玩具は折あるごとに容積を増し、使いようによっては随分面白い玩具であることをほのめかすのだった。” そして三島由紀夫十三歳のある日、風邪気味で学校を休まされたのをよいことに、父親の外国土産の画集を眺めていた。そこで見たのが『聖セバスチャンの殉教』図でありその絵を見た刹那 “私の血液は奔騰し、私の気管は憤怒の色をたたえた。この張り裂けるばかりになつた私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤ろしくいきづいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教えられぬ動きをはじめた。” “これが私の最初のejaculatioであり、また、最初の不手際な・突発的な「悪習」だった” 『仮面の告白』第二章より 久しぶりにこのくだりを読んで、三島ではなく自分について理解した事がある。 きっかけはどうあれ、何事も三島のように自ら“発見”するのと、知識として学んで習得するのでは大きな違いがあり、とくに創作に関しては”誰にも教えられぬ自発的な動き“により行われるべきである、と私は頑なに思い込んでいるということである。 常日頃、頭で理解出来ずとも、まずは自分の中から湧出る衝動を第一として優先し従い、自ら“発見”する機会を“阻害する、“そのための知識“を得る事を常に恐れ避けて来た理由がここにある事に気付いたのである。知ってしまったら”誰にも教えられぬ動き“による創作は不可能となる。そう思うと、私が展覧会を全く見に行かなくなったのも、出不精をこじらせたと思い込んでいたが、私が自発的に見付ける前に、他人の創作物により知ってしまう事を回避している、と思えば判る気がする。 よりによって私に取って重要な事を三島のこんなシーンで気付かされるとは。ところで全くの余談であるが、早熟の天才三島よりも、この件に関してだけは、私の方が一歳早い。


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私が切腹と言うと一番印象に残っているのは、小学生の時に映画館で観た『日本のいちばん長い日』で阿南惟幾を演じた三船敏郎である。酒を酌み交わし、介錯を断り割腹の後、頸動脈を自ら搔き切って絶命する。これが長回しで子供の私には余りにリアルでショッキングであった。 詳しい事は書けないが、死に装束の武士姿の○島が両手で短刀を握り頸動脈を刺している写真が存在する。腹の部分はおそらくウエストレベルのカメラのファインダーを覗く、アフロヘアーの男の後ろ姿で見えないが、すでに割腹した直後の動作であろう。まさに『仮名手本忠臣蔵』四段目判官切腹の場そのもので、おそらく男のイメージしていたのもそれではないか。 赤穂浪士の時代は、切腹はあったろうが、形だけで、三方の刀を取ろうとした時点で介錯する場合も多かったと聞く。公開の場ならともかく、そうでなければ浪士のへの同情から、苦痛は少なくしてやりたいと言う介錯人もいただろう。逆に割腹し、苦しんでいるところをわざと間を置くような介錯人も中にはいたらしい。 三島事件を三島と森田必勝の心中と見なす向きもあるが、私は違うと思う。介錯は森田に、と三島が希望したかもしれないが、森田には介錯だけで、死なずに生き続けて貰いたかったのではないか、と私は思う。実際寸前まで説得している。しかし森田は応じず。次に自らも割腹する森田は無理もないが、手元が狂い酷い事になった。本来なら、残る二人のいずれかに介錯を任せるのが合理的であろう。 死ぬのは俺一人で良い。“俺を太宰なんかと一緒にするな!”三島は声を大にして言いたいだろう。


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昨年より、三島が台本を書いた『椿説弓張月』の武藤太に聖セバスチャンを見付けた、とはしゃいでいた私であったが、上演が死の前年、昭和44年だと知ったのは、実は昨日ブログを書いている時であった。例によって年月日に疎い私である。となると、三島が未完の英雄と呼んだ源為朝に翌年死ぬ自身をなぞらえていたであろう事は想像に難くない、三島をむしろ為朝にすべきではないか?と考えないではないが、本来私がいの一番に手掛けるはずの聖セバスチャンの殉教を三島本人にやられてしまっていた、という私から創作の快楽を奪った三島への恨み?が晴らせない。では両方やれば良いかというと、江戸川乱歩に明智小五郎と怪人二十面相の二役をやって貰うようなもので、あまり様子が良くない。それはともかく、そんな事より。 『椿説弓張月』が死の前年であった事を知り、一年後の市ヶ谷の“バルコニーの場”で「もはやこれまで。」踵を返して割腹。悲劇的な死の演出のために自衛隊員の轟々たる野次も、三島の計算であったことを改めて確信した。そう思って起筆日が11月25日の『仮面の告白』を読むと、この主人公は、この後、あらゆるものを利用し、自分の絵図通りに死ぬために着々と準備を進めながら生きたのだな、と戦慄する。 腹を切ることはなんとかなるとしよう。介錯はいくら親友でも頼めない。頼めたとしても、そのための心得、練習をした友など何処にいる。しかも三島が愛したバチカンの“アンテイノウス像”を想わせる、かつ“理智に犯されぬ肉の所有者”がベストである。となれば、三島以外の方法があるだろうか? 老人となった現在はともかく、当時盾の会自体が、理智に犯されぬ肉の所有者の集団であった。鈴木邦男さんにお会いした際、盾の会について、ある質問をした。その答えが「連中は本なんか読みませんから。」であった。


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三島由紀夫、初の書き下ろし小説『仮面の告白』。起筆日の11月25日に後に自決する事になる。作中“そこで私はいつになっても、理智に犯されぬ肉の所有者、つまり、与太者・水夫・兵士・漁夫などを、彼らと言葉を交はさないやうに要心しながら、熱烈な冷淡さで、遠くはなれてしげしげと見てゐる他はなかつた。”これらのまさに三島好みの人物に自ら扮し、死の場面を演じて篠山紀信に撮らせたのが、幻の写真集『男の死』だが、それは三島本人がやるから良いので、私が面白いから、と言って、勝手な場面を創作してはならない。 何年も前からザンバラ髪の侍が捕的に追い詰められ、と言う場面を考えていたが、該当するエピソードが思い付かない。神風連の乱というのも有りかと思ったが、西洋文明を否定した武士達が、あえて刀や槍で抵抗し、鉄砲に全滅させられる所が良い訳で、今一つである。そこに『椿説弓張月』の中に主君を裏切り仇を討たれる武藤太に、三島本人にやられてしまった『聖セバスチャンの殉教』図を見つけた。イメージしていた侍モチーフでもあり“一挙両得”という訳である。三島歌舞伎の演出の責め場は三島趣味炸裂であり、公演プログラムに書かれた〝私には堕落と悪への嗜欲も潜み、その夢は、雪のふりしきる中に美女達の手で虐殺される武藤太に化身してゑる〟という一文を見つけた。まさにビンゴ!の思いである。世間に呆れられながらも映画や新劇の舞台に出演した三島も、歌舞伎の舞台には立てなかった。武藤太のその場面には身体を鍛えた代役をたてた。お望み通り、汚穢屋の青年に扮して差し上げたように、思い切り歌舞伎メイクで、存分に断末魔の苦しみを味わって貰いたい。三島は役者達の理解力の無さに不満を持っていたようであるが、死の一年前の上演という意味でも悲劇の英雄、源為朝に三島が託した物は何だったのか。改めて重要である、との思いを強く持った。 そして以前も書いたが、三島に面会し、石塚版『椿説男の死』を見せ「君は随分暇な人なんだねガハハハ。」お忙しい三島先生の時間を拝借し過ぎてはいけない。早々においとまし、と見せかけ、庭の木か、石像によじ登って様子を伺っていると、脇に片付けた、と思われた私の『椿説男の死』満更でない顔して眺める三島を夢想するのである。


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私も他人のブログを読んで〝何いってんだか訳判らないよ〟としょっちゅう思うから、三島の話しは大概にしておきたいが。 三島はとにかく血が大好物である。クーデターの挙げ句のような血の海で死んでいる将校や、神風連の侍が、もはやこれまで、と割腹している所を制作した。ひとえに三島にウケるためであった。一方江戸川乱歩の時は、残酷シーンを書いておきながら、あとで後悔して削除するような人物であったから、過激なシーンを避け、例えバラバラ死体でさえ切り口は羊羹を切ったかのような有り様で、犯人役の乱歩は、常に他人事のような顔をしていた。よって手掛けたいのはやまやまであったが、私の手法だと『芋虫』では、乱歩を芋虫にするしかなく断念した。他の作家が、やりたい放題描いているのを見ると羨ましくもあるが、著者の創作のおかげで様々なイメージを抱かせて頂いた、と思うと本人を登場させる手前、それが出来ない。好き勝手な事をやっている割に奇妙なくらい律儀な私である。逆にいえば好きでないことはしたくない、というのも強いのであろう。最初の話に戻ろう。  作家本人にウケたい、とは言うものの、あくまで私の創作である。三島の趣味だからといって、なんでもかでも血に染めたくはない。目を開いたまま静かに座る三島がいたとしよう。作者の私が死んでいる、といえば死んでいるのである。それなら部屋に飾ることも可能ではないだろうか?と前回男の死で一カットも売れないというワースト記録を作った私であった。

【タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第17回『引っ越し』

『石塚公昭 幻想写真展き続ける作家た18年7/25~9/2 リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.Pyoutubeこ2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界


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友人から、また三島をやるのか?三島のどこがそんなに良いのだ、と半ば呆れた様子のメールが着た。面倒なので〝いま犬死がいちばん必要だということを見せつけてやりたい〟そんなセリフ他に誰が言うか?作りたくなるだろ。と返事しておいた。  四年続いた『中央公論Adagio』の廃刊が決まった時、最終号の田中角栄を作りながら、三島が事件に使った〝関の孫六〟の模造刀を入手した。そしてどうやって調べたか記憶にないが、すでに引退をされていた、元薔薇十字社の社主、内藤三律子さんにお会いした。今思うと、この人見知りがよくぞと、と思う。この方が三島が最後にやりたかった事を考えた伝説の編集者か、と感激であった。あんな嬉しそうな三島は見たことがなかったそうだが、細江英江の『薔薇刑』では、主体性のない被写体なりきる快感があったはずだが、〝私は彼になりたい〟三島は、魚をぶちまけ、腹に出刃包丁刺して死んでいる魚屋に紛しながら、三島がどれだけ嬉しかったか、薔薇十字社版男の死の存在を知らず、三島にウケるにはこれしかない、と男の死を着想した私には良く解る。さすがに内藤さんの場合は、三島を喜ばせるつもりで企画した訳ではないだろう。  あの死に様を見せ付け、それでも三島には足りず、二の矢となって放たれるはずだったのが、『男の死』だった、とずっと私は三島の無念を思い続けている。   11年のオキユルスのオマージュ展で、内藤さんに頂いた一文を久しぶりに拝読し、http://g-oculus.com/exhibition/1105 妙な奴が突然現れて、と言う感じが出ていて、懐かしい。こちらは相変わらずです。出来ればれば来年、ふげん社でお会いしたいところである。 内藤さんに心配されてしまったくらいであるから、友人がメールしてくるのは仕方がない事でこあろう。



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三島が様々な状態で死んでいるところを制作する、幻の薔薇十字社版『男の死』に敬意を表しての私の『椿説男の死』だが、三島が例えば映画『憂国』の撮影中「もっと血を!」と要求したり、歌舞伎『椿説弓張月』で、最前列の観客に血かかかってしまいそうなくらいの血糊を使い(寺山修司との対談で、あそこまでやるつもりはなかったといっているが、あんたがそうしろっていったんじやないか、と関係者は言いたかつたに違いない。)私も三島の御要望に答え、一人分とは思えない出血大サービスをした事もある。また死んでいるということで、つい目を閉じてみるが、考えて見ると、死んでもかっと目を見開いていてこそ三島だ、という気がしてきた。それに死んだからと言って必ずしも出血するとは限らない。三島に対するサービスを大概にしておけば、三島がただ佇んでいるように見えても良いだろう。作者の私が死んでいるのだ、といえば死んでいるのである。三島が町の若者たちと実際神輿を担いでいる写真が残されているが、ボディビル以前の華奢な身体で、それでいてあまりにも嬉しそうなのが泣ける。 以前書いたがこの作品で三島の回りでかついでいる方々は、実際には存在していないので、肖像権は大丈夫であろう。君のようで僕のようだし、僕のようで君のようだな?目鼻口をシャッフルしてある。案外抜かりのない私である。

【タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第17回『引っ越し』

 

 

 

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三島が様々な状態で死んでいるところを制作する、幻の薔薇十字社版『男の死』に敬意を表しての私の『椿説男の死』だが、三島が例えば映画『憂国』の撮影中「もっと血を!」と要求したり、歌舞伎『椿説弓張月』で、最前列の観客に血かかかってしまいそうなくらいの血糊を使い(寺山修司との対談で、あそこまでやるつもりはなかったといっているが、あんたがそうしろっていったんじやないか、と関係者は言いたかつたに違いない。)私も三島の御要望に答え、一人分とは思えない出血大サービスをした事もある。また死んでいるということで、つい目を閉じてみるが、考えて見ると、死んでもかっと目を見開いていてこそ三島だ、という気がしてきた。それに死んだからと言って必ずしも出血するとは限らない。三島に対するサービスを大概にしておけば、三島がただ佇んでいるように見えても良いだろう。作者の私が死んでいるのだ、といえば死んでいるのである。三島が町の若者たちと実際神輿を担いでいる写真が残されているが、ボディビル以前の華奢な身体で、あまりにも嬉しそうなのが私には泣ける。 この作品で、三島の回りで担いでいる方々は、実際には存在していないので、肖像権は大丈夫であろう。君のようで僕のようだし、僕のようで君のようだな?目鼻口をシャッフルしてある。案外抜かりのない私である。

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黒蜥蜴と、黒蜥蜴に剥製にされた三島由紀夫をやり直す。三島の表情が気に入らなくなった。乱歩の原作を三島が脚本化したものを深作欣二監督で、黒蜥蜴を美輪明宏で映画化されたが、黒蜥蜴が集めたコレクションの剥製に自らが扮した訳だが、黒蜥蜴が集めるのに値する美しさがあるとは思えず。いつまでも瞬きをしないでいられる、三島の特技は大いに発揮されていた。私はテレビで観たが、有名な作家だが、随分変わっているな、と呆れた。どちらが先だったかは定かではないが、さらに『からっ風野郎』を観てしまい。これでこの作家の作品を読んでみよう、と思わせるにはかなり無理があった。おかげで三島を読むのは事件後となる。ヘンな人だな、と思った最初は、小学生の時に家に来た百科事典のボディビルの項に三島が、ポーズを取っていた事である。作家と思えば逞しいが、ボディビルダーと思うとあまりに貧弱。後で知ったが、それを編纂したのは中井英夫で、三島はモデルを依頼されて、こんな嬉しい事は無かったらしい。私はこの百科事典にはまり、小学生から中学にかけてはじから一往復は読んだが、そういえば、シャンソンの項がやたらと詳しく書かれていた。

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