明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



幼い頃、頭に浮かんだイメージはどこへ消えていってしまうのか。誰かに話したならまだしも。それを取り出してやっぱり在ったな、と確認するのが主な目的である。外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想だといって来た。写真はセルフポートレートやレントゲンを別にすれば、基本的に自分の外の世界にレンズを向ける物である。よって比喩的表現用ツールという気がする。私の場合は外の世界のイメージに仮託してみたいこともなく、機械音痴と相まって、かつてはまったく好きになれなかった。それが自分で作った物を撮ることにより擬似念写が可能となった。今まで廃れていたオイルプリントを写真のド素人にもかかわらず個展を開いてみたり、マコトを写すという写真に抗って来たが、ここに至り、レンズの味など余計なことはせず、カメラにはそのまま写してくれよ、と。カメラという物はつくづく良く出来ている、それにしても寒山拾得とは。考えずに感じているとこんなことになる。



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寒山拾得の頭部の完成が一年を以上待つことになるとは思っていなかった。お陰でその間に他のラインナップが増えてしまった。この調子だと、寒山拾得展の看板は上げられないのではないか、と思ったが私なりの2人になりそうである。寒山拾得というと普通は絵画だから『寒山拾得写真展』とすべきだろうか?しかし想像されるのは、定年退職した初老の男が、カミさんの慰労も兼ねて念願の中国旅行。愛用のアナログカメラで撮影した天台山は国清寺、蘇州夜曲にも出てくる寒山寺の風景写真展であろう。まったく観る気にはなれない。もっとも昔、作家の人形作って写真撮ってます、と自分で言いながら実につまらなそうだ、と思ったものだが。



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