臨済宗の師の姿を後世に残すという思いには感銘を受けるが、今にして思うとではあるが、絵画、彫刻しか残されていない時代の人物を手がけるきっかけ、流れがあったように思う。 初めて陰影を排除する作品となった三遊亭圓朝を制作した時のこと。圓朝が自ら落語を創作するようになったきっかけは、圓朝の才能、人気に嫉妬した師匠に、圓朝がやろうとする演目を、ことごとく先にやられ、演目を変えざるを得ないという妨害を受ける。ならば誰も知らないオリジナルを作ることにした。なのに後年落ちぶれた師匠を助け、遺児を嫁ぐまで面倒を見たり、弟子思いの人格者なのである。ところが圓朝と子供の頃から親しく接した鏑木清方の肖像画の傑作といわれる圓朝像が、写真とはプロポーションが違うし、何より何か企んでいるような顔である。私は何か見落とし読み違いをしているのか、と明治時代の演芸誌など、読めるだけの物を読み漁った。結果、清方は後年、自分の圓朝に対するイメージを優先して創作し、その表情は芸に対する執念を表したのだ、と結論し、人間を表現する ことに対する思いを新たにした。清方に敬意を表し、私にはこう見える、と同じ構図で制作した。