3日㈮、午後からは丹後の与謝野町三河内に向かった。三河内は旧野田川町の一地区で「三河内」と書いて「みごち」と読む。毎年、三河内曳山祭が盛大に開催されている。
なぜ?このお祭りに参加することになったのか?というと、昨秋、京丹後市峰山町の飲食店でたまたま席が隣りになった少し年上の50代の経営者と知り合い、意気投合した。
その時に強い与謝訛りで「お前はワシよりちょっと年下やから四方クンと呼ぶけど、四方クン、ミゴチの祭を知らんのではアカンわ」「うちに泊めてやるから、今度来るか?」と言われた。
初対面で、互いに結構飲んでいたこともあり、「そうは言っても、明日になったら覚えてないだろう」と思っていたが、それからも何度か「約束通り来てくださいね」とLINEをもらったのでお言葉に甘えることにした。
その方の家も知らないので、「どこへ行ったらいいですか?」と数日前に聞いたところ、「梅林寺という寺の手前」だと言われて、梅林寺を目指して行った。梅林寺は臨済宗妙心寺派のお寺で城のような巨大な石垣があった。
寺の近くから電話をかけたら「寺の下まで来て!」と言われたが、人はたくさんいるもののその人の顔が分からない。一度、会っただけなので、よく考えたら顔もよく覚えていなかった。
寺の下に知り合いの与謝野町議がおられた。「げんたろう、お前、なんでこんなところにおるんだ?」と言われ、「この祭の意味も分からずに、〇〇さんに誘われて来たんですけど…」と答えた。「それなら、これから後藤神社に行くから、お前もついて来い」と言われて、よく分からないまま、出雲大社与謝分祠の後藤神社へついていくことになった。
後から分かったことでは、三河内には6つの町内会があり、それぞれに山車を出している。この町議の町内会は「神楽山」で、僕が誘われたのは「倭文(しどり)山」、他にも「春日山」「浦嶋山」「大幟山」「八幡山」というのがあるそうだ。
「倭文山」に行くべきところを間違えて「神楽山」についていってしまったようだ。
後藤神社で少しビールを飲ませてもらい、三河内の区長さんや後藤重和分祠長らとご挨拶した後、ずいぶん歩いて戻ってようやく「倭文山」と合流することができた。
「倭文山」は梅林寺の門前にある奥地町の方々が80軒弱で守っておられるそうだ。今年の「倭文山」の総責任者(総町主と呼ぶそうだ)が元京都府職員の方で「綾部の四方先生がなぜ?ここに?」と驚いておられた。
「倭文山」と書かれた法被を貸してもらい、「山車の綱を引っ張ってくれ」と言われて列に加わった。山車は初めて見たが、小学生を乗せて坂道を登ったり下ったり、90度直角に細い路地へ入って行ったりする時に溝にはまったり、屋根にぶつかりそうで、「大丈夫かな?」と心配した。
15時半頃に子どもの山車が梅林寺下の倉庫に戻ると夜の巡行までしばらく中休みとなった。
その間に三河内の町を歩き、祭のことを説明していただいた。家々の前には「献灯」と書かれた提灯が立てられ、町全体が祭一色になっている。あちこちからお囃子が聞こえ、フーテンの寅さんがひょっこり歩いて出てきそうな雰囲気がある。
三河内曳山祭は5月2日から準備が始まり、3日が宵宮で青年屋台(10代、20代の若者が乗る)と子ども屋台(小学生が乗る)の巡行、4日は本祭礼で大きな山車と子ども屋台が昼から夜まで巡行するそうだ。
街並みには、昭和の頃までは機屋が軒を連ね、「ガチャ万」で大儲けしていたなごりが感じられた。
祭の中心である倭文神社にも参拝した。機織りの神様で「綾部」と通じるところもあるように思った。
「神楽山」とも再び遭遇した。この町内会では若者が神楽を舞い、三河内区全域を回るようだ。
浦嶋山の「総町主」の方に祭を運営する組織の話を聴かせてもらった。各町内で「町主」と呼ばれる幹事役が選ばれて、その代表が「総町主」となるとのこと。だいたい60才前後の方がなられるそうだ。
山車の組み立てや運行管理は「保管委員長」もしくは「保管係長」が責任者でその下に20名ほどの委員がおられるそうだ。僕を招いてくれた方は「倭文山」の「保管委員長」を務めておられた。通常は1年交代で、その方は次になる予定の方の都合が悪くなって2年連続で引き受けたとおっしゃっていた。
巡行の出発点にある小さな祠。ここにも神社の幕には全て「丹後ちりめん」が使われている。
17時45分頃からは、奥地町の公民館の前に青年屋台、子ども屋台が運ばれ、飾りつけの準備が始まっていく。
町の人達によって、出発点まで移動し、各町から10基ほどの山車が集まってきた。順序は毎年、総町主による話し合いで決まり、間違えると大変だそうだ。
出発点に着くと、提灯が灯される。昨年からLEDになったそうだが、以前は火をつけていたということだった。
屋台に乗る青年や子どもは18時から23時過ぎまで、交代で太鼓を叩き、笛を吹き、ドデッサッサーという掛け声を発し続ける。太鼓が腹に響き、若者が叫び、笛が甲高い音色を出し続ける。すごい熱気だ。
倭文神社や梅林寺、町のあちこちでしばらく停まる場所や転回する場所などがある。
また、祭りの法被を着ていると、この日はどの家でも酒や食べ物が振る舞われるそうだ。
こんな祭を今でも継続できているところは京都府北部では三河内しかないだろう。何もかも祭に捧げて、老いも若きも狂喜する姿は、行ったことはないがスペインのカタルーニャ地方で独自の言語や文化を誇る「バルセロナの雰囲気」ではないかと思った。
ドデッサッサーという掛け声は大人は言わず、若者や子ども達だけが言っていた。大人が大きな声で叫ぶと若者や子どもは呑まれて言えなくなるかもしれない。次につなげるための工夫ではないかとも感じた。
最後は出発点に戻って、全員で万歳した後、各地に戻っていった。軽く考えていたので5時間も歩くことになるとは思わなかった。明日は明日で、本祭礼があり、さらに大きい山車が同じように夜まで巡行されるそうだ。