大学3年から4年にかけて、カトリックの修道院の寮に下宿していたことがある。入居していたのは信者の子女たち、そこに例外に信者でもない私が入れてもらったのである。まして親元を離れたのも初めてだったので、見るもの、聞くもの、すべてが新鮮だった。朝、寮生たちが「おみどう」と呼んでいた礼拝堂から聞こえる讃美歌の美しい声で目を覚ました。信者たちはその朝の礼拝に参加していたようだが、私はとうとう一度も参加したことがなかった。
その「おみどう」に入ったのが、クリスマス・イヴだった。隣の上智大学でフランス語を教えている先生に誘われて、おみどうへ初めて入った。その日は隣の音大ンの学生の洗礼式(そのうち式名を思い出すつもり)が行われていた。同じ階でイタリア語の翻訳をしている女性が代母になって、式が行われていた。図らずも彼女の式に立ち会ったこととなった。
おみどうは祭壇に向かって、数列、長い机が並んでいた。腰かけると、机の下にクッションを敷いた足台があった。ひざまずいて祈る時膝を乗せるためのもののようだった。上智の先生がひざまずいて、祈り始めた。私も真似をして、足台に膝をのせ、机の上に両手を組んで祈りの恰好をした。目を閉じ、1分かそこらだろうが、じっとしていた。そして目をあけ、隣を見ると、彼女は未だじっと祈っている。あわててまた目を閉じ、手を組んだ。そしてまたしばらくして、目を開けてみると、彼女は未だ祈っていた。その祈りの深さにびっくりした。もう一度手を組んで、とポーズをとると、院長が飛んできて「あなたはそんなことをしなくてもいい」と言って、椅子に座らせた。それでも彼女は変わらず祈り続けていた。祈りとは、一種の陶酔状態なのだろう、とその時思ったものだ。
午後11時から告解が始まり、ミサは真夜中、12時きっかりに始まったように思う。 神父さまがお供(なんていうのかわからないが、まだ若い人)をつれて式を始めた。その若い人はアテネフランセのフランス語で一緒だった。