毎日ゲリラ豪雨に襲われている。地形的にここが洪水になることはないが、そのかわり傾斜面が多いので、がけ崩れが心配だ。
跳ね返りの水がかからないように、ケージを二段にして、上のケージに黒光オバサンが抱卵している。順調に行けば明日ごろ孵化する予定なのだが。
シロは毎朝、6時半ごろケージから出してやる。昼間は自由勝手に遊びまわっているのだが、夜はやはり母ちゃんの傍がいいらしく、ケージの上に乗る。そこで抱いて、中に入れてやるのだ。忘れていて、薄暗くなって入れに行くと、シロは「待ってたよ~」とばかりに立ち上がって、「こ~」と声を出して寄ってくる。雛が孵ったら、シロを一緒にしておおうか、一羽にして、下のケージに移そうか、目下考慮中。
シロはたまごやさんが届けてくれた卵を黒光おばさんに抱かせて孵った三番目の雛である。一番目は雄鶏でたまごやさんに持っていってもらった、あのヤマトである。そして二番目は猫にやられてしまった。だから大きくなるまでは外に出さず、ケージの中でオバサンが大事に育てていた。外に出しても、おばさんがいつも傍にいた。人間との接触はえさをもらうことぐらいだった。夜はケージに戻る。特別、ペット並みに扱ったわけではない。ただ、シロという名前をつけて呼んだことぐらいだ。外に出ても、犬や猫、ウサギ、と先住民たちとは仲良くしている。
鶏もずいぶん飼ったことがあるが、固有名詞をつけて呼んだのは初めて。だから覚えやすく、簡単なシロなんて名前になったのだ。「ここのうちにしては簡単な名前ですね」と言われるくらい。シロは自分の名前を認識して、どこにいても「シロ!」と呼ぶととんで帰ってくるようになった。家人が外にいると傍に来て、石やプランターを動かしてくれとねだる。その下には好物のハサミムシやムカデはいるからだ。大きなムカデはかまれないように突付いて殺してから、食べている。ハサミムシはそのままだ。昆虫や蝉は羽根をむしってから食べている。母ちゃんが教えたのか、本能的に知っているのか??
とにかく鳥は目がいい。ウサギと一緒にいると、ウサギは目が悪いからシフォンを投げてやっても、鼻をふがふがさせながらありかと捜しているので、目ざとく見つけたシロに取られてしまうことのほうが多い。シフォンなんてもう飽きているくせに。
カラスに肉片を投げてやるときは下にいる。カラスが落とすのを承知しているようだ。カラスもときおりは筋をシロに落としているようだ。にもかかわらず、シロはカラスを敵視していて、カラスが地面にでも下りようならすかさずダッシュしていく。母ちゃんが温めていたたまごをカラスに取られてしまったことがある。母ちゃんの仇、というわけなのかもしれない。
それがいつしか家の中に入ってくるようになり、すっかり家鶏になってしまった。家の中にはアヒルのがあちゃんがいる。10年近いからもう年寄りなんだろう、があちゃんはあまり外に行かない。テーブルの下に新聞紙を広げてあるところが自分のショバだと思っているらしく、いつもそこにいる。ただし夜は寝室に入ってきて、椅子の下で寝ている。があちゃんとは仲良しみたいだ。ときどき一緒に座っている。アヒルは新聞紙を何度も取り替えるくらい糞で汚すが、シロは家の中で糞をしない。なかなか心得ている。
朝、ケージから出してもらうと、外を一回りして、寝ている私たちを起しに来る。ベットの上に乗り、さらに背中に乗ってくる。鳥の足は結構痛い。そこで起こされてしまうわけだ。
食事のときはいつも下にいて、おこぼれをもらう。魚や肉が大好物で、犬猫と争ってもらっている。パスタもラーメンもつるつると上手に食べる。しかしご飯は食べない。変なの。ケーキも飽きたらしく、あんまりは喜ばない。パンもたまにしか食べない。
8時半ごろ、私の机の上ですわり、テレビとデッキが並んで乗っている棚に飛び移る。そこで卵を産むのだ。毎朝、欠かさず生んでいる。その卵はPapasanが食べている。そう、シロに魚や肉をあげるのはPapasanなのだ。たまごを生むのがちょうど私の朝食の時間なので、BGMだといってCDをかけてやる。はじめは座っているが中腰になったら、産卵準備OKといったところ。下は木なの産み落とすと、ぽとんと音がする。一個は残して前日のをとる。
机には乗る、だから「かわいいね」「いいこだよ」とくちばしをつまんだり、背中をなでたりしている。まさに猫並み。言葉も猫並みには通じている。「シロ」と呼ぶと必ず「こーこー」としり上がりで答える。朝は「おはよう」と声をかける。「あ~お~お~」と同じくしり上がりで答える。こう試していると、微妙に音に差がある。たまごを生んだ後やびっくりしたときの騒ぎは特別だが。
部屋の中から外にいるシロに声をかける。見えているから普通なら窓から入ろうとするはずだが、ちゃんと玄関から入ってまわって来る。我が家の構造を認識しているのだ。風呂場にも行くし、トイレものぞいている。好奇心が強いんだろうね。黒光おばさんは2階でたまごを生んでいたから、母ちゃんの教えかもしれない。
とにかく鶏がこんなに賢いとは思っていなかった。
昨日、アフガニスタンで拉致されたペシャワール会のメンバーのその後の消息がわからず案じていた。ペシャワール会の仕事はよく知っている。今朝は早めに出かけてしまったので、帰ってチャンネルを回すと、ペシャワールの拉致された伊藤さんが遺体で見つかった、というニュースが飛び込んできた。とたんに涙があふれた。どうして、どうして。
はじめ拉致したのはタリバンだという報道をしていたが、ペシャワール会の中村さんはタリバンを非難したことはない。なら、人質を殺すことはないだろうと思っていた。
ペシャワール会は医療活動だけではなく、住民たちが自立できるように、潅漑用水をつくり、農業を育てている。伊藤さんはその農業の一人者だったはずだ。こういう人たちをアフガン人が憎むわけはないと信じていた。だからなおのこと、涙があふれたのだ。悔しい、もったいない。アフガンにとっても、大きな損失だ。
新聞広告で「もの思う鳥たち」という本を見た。うたい文句に「ここまで解明された、鳥たちの『心の世界』、鳥はこんなにも人間に近い「知性」と感情を持っていた!鳥たちの驚くべき知能や、人間との感動的な交流のエピソードを紹介。人ととの新しい関係が、この一冊から始まります。」とあった。おもしろそうだ、とAmazonをチェックするとあった。注文しようとするとすぐ下に「ガラス蜘蛛」というタイトルが見えた。ミズグモのことだな。ミズグモは身近にいないから生態は知らない。知的好奇心をくすぐる。鳥とかクモとかいう言葉には弱い。で、これも加えて2冊注文した。
「もう思う鳥たち」セオドア・ゼノフォン・ハーバー著 笠原敏雄訳 日本教文社
まず「はじめに」に「行動科学者として30年の経験を積み、頑固一徹な懐疑的研究者という評価を専門家の間で得ていた私は、その後。動物の知能という特殊な問題に全力を傾けるようになった。・・科学文献を6年かけて検討するうち、・・鳥たちが知的に、でそして目的をもって、しかも柔軟に行動していることがしだいにわかってきた。それまで、鳥は本能的な自動機械に過ぎないという科学的な公式見解を、私も含めた科学者の事実上全員が受け入れてきた。・・
研究によって明らかにされたデータは・・鳥たちが敏感な意識や感情をもっており、それぞれはっきりと異なる個性をもち、自分たちがしていることを知っている、ということだ。・・」
この「はじめに」を読んで、違和感を覚えた。何だ、いまさら、という違和感である。
で、著者の経歴を見た。1927年アメリカ生まれの心理学者で、催眠研究の第一人者とあった。私より10歳上ということになる。生物学者ではない、違った分野の鳥観もまたおもしろいかも、と読み始めた。鳥の知能は、がはじめなのだが、読んでいると「こんなことも知らなかったのか」と腹が立ってきた。この文章はいつ書かれたものだろう。もう一度、あとがきを探してみた。笠原氏の訳は2008年4月だが、著者は2005年に亡くなっている。この著書は1994年にペンギンブックスに収録された、とある。ローレンツ博士は動物行動学でノーベル賞をもらったのはもっと以前のことだ。
放り出したいのを我慢して読んでみた。しめに、こう書かれていた。「地上の人間たちよ、目を覚ますときだ。・・云々」これは私の主張に近い。が、むしろ付録の「鳥と友だちになる」の方が好感がもてた。
鳥に興味のある初心者にはいいかも。
63回目の敗戦記念日。
そして我が家では黒猫ラッキーの2回目の誕生日。ブスイけど、まぁいいね。
夕刊を見ていたら、フランス映画の秘宝と銘打って13本の映画が上映されることが載っていた。その中のひとつ「海の沈黙」と言うのが目に付いた。「海の沈黙」ねぇ。もしかしたら、あの小説の映画化かな??
学生のころ、毎日帰りに本屋で、ひとつ星の文庫本を買って電車の中で読んでいた。星ひとつは40円だった。それでも毎日食費も込めてもらう100円の中で買っていたのだ。だから40円のひとつ星の内容など見もしないで、40円というだけで片っ端から買っては読んでいた。出会いもあったが、気に入らない作品もあった。ふたつ星は80円。80円支出すると、食事はできなかった。でも家に帰れば食事はできると、20円のキャラメルをしゃぶりながら、それでも本を買って読んでいた。
「海の沈黙」はその40円の本にあった。「星への歩み」と2編収められていたように思う。とても感激して帰ったのを覚えている。たしかレジスタンスのフランス市民を描いたものだ。ドイツの将校がフランス人家庭に同宿するようになる。しかしフランス人家族は頑として沈黙を守り続ける。にもかかわらず、ドイツ人将校は自分のフランスに対する思いをしゃべり続け、やがて東部戦線へと去っていく。ドイツ人将校の口を通して、逆にフランスへの愛国心が語られ、ナチスの欺瞞が、フランス文学を禁書にしようというようなナチスのやり方が明らかのされる。
当時、これを原書で読みたいと探したのだが、見つけられなかった。訳者は確か河野与一だった。この文庫本は捨ててはいないと思うから、どこかには紛れ込んでいるとは思うが、探せないだろうな。
映画は1947年制作となっている。どんな作品なんだろうかと、ちょっと気になった。