Cogito

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

農から見た日本

2005-08-26 23:08:42 | 
「農から見た日本」 山下惣一著 清流出版

山下さんは私と一歳違いだ。だからバックにある社会情勢はよくわかる。
消費者運動をしてきたので、戦後の農業政策を私もかなり知っているし、山下さんの農政批判もうなずける。ただ一言言いたいのは、山下さんの努力は知ってるけど、消費者からみれば、そういう農政を支持し助長させてきたのは、農民の力が大きかったということだ。踏みつけられながらも、そういう農政をしようとする政権を支えてきたのはどういうことなんだい、と。

しかし語り口が軽妙なので、実はほんとに厳しいことなのだが、すらすらと笑いながら読んでしまえるのは怖いところだ。
私は以前から、人間は食べなければ生きていけないのだから、農業をダメにするわけにはいかない。採算が合わなくても農業は残すべきだと思っている。それは未来に生きる日本人のためにも。

山下さんは20代で開墾してみかんを育て、50代で国策で切り払ったそうだ。人生を切り払ったようだったという。そうだろう。みかんを日本人が食べなくなったのは、家族の団欒がなくなったからだと山下さんは分析する。これにはうなってしまった。

日本の農業がダメになっても、国民が飢えてもかまわない。とはいえ自分は農業はやめない。ただ家族の食い扶持だけを生産するからいいのだ、と、山下さんは言う。逆説的だが、そうだよなぁ、そういいたくもなるだろうよ。
普通の消費者にとって生産者は遠い存在だ。最近スーパーなどで「私たちが生産しています」なんて書いた紙がぶら下がっている商品を見ることはある。でも生産者は消費者にとってまだまだ近い存在ではない。

どんなにワリが合わなくても自国の農業はつぶしてはいけないんだよ。国民の認識がそこにたどり着かなくては、農業を残すことはできない。要するに戦後のような食物不足、飢えをいつかは体験しなければならなくなるということだ。

山下さんは提案する。これからの日本の農業のあり方は「地産地消」だと。地域が地域農業を支えるのだと。うん、うん、私たちもやっているよ。生産者とじかに結びついている運動を。

文中にネグロスのことが書いてあった。山下さんは世界のいろんなところの農業視察をしている。その中で一番ショックを受けたのがこのネグロスだった。「21世紀の闇だ」と彼は言う。ネグロスはサトウキビの島。地主は島の外にいて、砂糖が暴落すれば砂糖の生産をやめ、海老養殖に切り替える。労働者は土地を持っていない。その都度飢えに苦しむことになる。土地なし住民が自作できる土地を買える手助けになるように、NGOを通して私たちも、バナナの購入をしていた。ネグロスのマスコバド糖は今も使っている。反政府ゲリラがいるといって、関係ない農民が政府軍に殺されていた。そこで当時のコラソン・アキノ大統領に私自身が手紙を送ったこともある。解放運動はまだまだ続いていて政府の解放証明書も発行されているようだが、29歳の農民の青年が私兵に銃殺されたそうだ。

もちろん電気も台所もない。同じく電気もないカンボジアでは自作農が多い。二つを比べたら、電気のないことなど屁でもない、と山下さんはいう。

山下さんの言いたいことをまとめると、
①特定の地域で農業生産が増大しても、世界の飢餓の解消にはならない。農産物の貿易は余っている国から不足している国にへではなく、安い国から高く売れる国にしか動かない。

②國際競争に勝って生き残れる農業など世界中に存在しない。

③したがって、先進国では、自国の農業を守るという国民合意がない限り、農業は守れない。

日本の食物自給率は下がる一方。穀物自給率も下がる一方。先進国では最低だ。
もう一度国民みんなで考えよう。このままでいいいのか。これで安心なのか。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の終わり

2005-08-22 11:19:03 | 日記・エッセイ・コラム
91
仲良く


秋来ぬと目にはさやかにみえねども
         風の音にぞおどろかれぬる

ツクツクホウシもなき始めた。夜は虫の声も大きくなってきた。しかしまだ日中は暑い。今年も暑さが身に堪えた。去年もそんなことを言っていたように思う。しかし、温暖化も手伝っているのだろうが、暑い夏はこれからも続くのだろう。さりとて冷房は嫌いだし、どうしたものか。林のような恵まれた環境にいてもこうなんだから。いつも夏の終わりは体調が崩れる。暑いさなかは、なんとかがんばって入るが、もうおわりだという安心感もあって、夏ばて状態が出てくるのだろう。

昔は老人の死亡率は夏が一番高かった。それは夏の暑さのせいであった。今よりも気温は低かったにもかかわらずだ。それが扇風機や冷房の関係で暑さがしのげるようになったので、死亡率が低下したのだと、聞いたことがある。

この夏は保冷剤が大活躍した。保冷剤など、ケーキを運搬するときとか、買い物に行くときとか、旅行のときぐらいしか役には立たず、いつも冷凍庫に眠っているのだが、ことしは違って、フル回転した。それはウサギや金魚たちのためにである。
暑いらしく子ウサギがのびていた。そこで凍った保冷剤をポリ袋で包んで小屋に入れてやった。すると子ウサギたち、保冷剤に乗って寝ているではないか。やはり少しでも涼しい方が良いんだ。そこで4匹のラパンのほうには大きな保冷剤を二つ並べてしいてやった。すぐ4匹がお行儀よく涼んでいる。コトンにも入れてやった。ちょこんと保冷剤に足をかけている。暑いから一日に2回は取り替えている。金魚の水槽にも入れている。

そんなことで保冷剤を買い足した。しかも平たくて大きい物を。

金魚は水槽を洗って間もない頃、病気が発生して、見る見るうちに金魚の尻尾が溶け、体は真っ白になってしまった。金魚たちは元気がない。もう一度水を換え、メチレンブルーをたっぷりいれ、水温が上がらないように保冷剤を水の中につるした。病気の金魚たちは食欲もなかったが、毎日メチレンブルーをいれ、保冷剤を取り替えて様子を見ていた。驚くほど早く、金魚の体から白いうどん粉のようなモノがなくなり、うっ血していた血瘤もなくなった。やれやれ。治りだすと元気になり食欲も旺盛。溶けた尾っぽもきれいに伸びてきた。でもまだ暑い日が続くので保冷剤を入れている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真は物の見かたをどのように変えてきたか

2005-08-20 21:49:53 | アート・文化
恵比寿の都写真美術館へ「写真はものの見かたをどのように変えてきたか」12人の写真家たちと戦争・第三部「再生」を見て来た。3階で。いいしゃしんだ。じっくり見たので疲れてしまった。
2階ではブラッサイの写真展が開かれていたので、これも見た。パリの風景。おもしろかった。地下でもなにかあったが、疲れてしまって、それ以上見ていられなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・パンフから

第三部「再生 」

3_p_new1


◎出品作家 : 小石清・河野徹・木村伊兵衛・林忠彦・植田正治・濱谷浩・桑原甲子雄・
熊谷元一・中村立行・大束元・福島菊次郎・東松照明


1930年代に入って出現したフォトジャーナリズムは、写真がその媒体の長所を生かすことができる新たなジャンルとして、多くの写真家たちが夢と希望を抱きました。しかし1937年に日中戦争が勃発し、日本中のすべてが大きな戦争へと巻き込まれていく中、フォトジャーナリズムも国策プロバガンダのための道具として利用されていきます。これは写真家たちが期待し、望んでいたフォトジャーナリズムとは違っていました。自分たちが苦心して撮ったものが、時には切り刻まれ、偽装するために別の写真に作り替えられるなど、写真家たちにとって屈辱に堪えなければならない苛酷な状況だったからです。今回ご紹介する12人の写真家たちは、戦争という受難と向き合い、時に苦悩し、自分自身の表現方法を模索していきました。ある者は、不本意な気持ちを押し殺しながらも無言の抵抗をし、写真を撮ることができる唯一の場所に身をおき、ある者は中央の喧噪から遠ざかり、時が過ぎるのをじっと待ちました。また、ある者は戦争という衝撃的な体験を自分の表現の原動力として昇華し、写真家となる決意をしていったのです。例えば小石清は、1938年に従軍カメラマンとして中国に渡り、日本軍のために報道写真を撮影しました。そして帰国後の1940年に、「半世界」と名づけた作品を発表。平和の象徴である「象と鳩」をディストーション技法によって歪めたものや、「抜殻の挙動」として、中身のない大量の貝殻の流動している様が軍事下の国民を象徴しているように見える作品など、反戦思想を感じさせる作品を世に送り出しています。これらの作品から、従軍カメラマンとして戦地でレンズを覗いた小石の心情を察することができるのではないでしょうか。小石は、もともとは大阪を拠点とする「浪花写真倶楽部」という前衛写真を志すアマチュア写真家集団の代表的メンバーでした。アマチュア写真家は、戦況が悪化するにつれ、表現活動は制限され、最終的にはフィルムなどの写真材料が入手困難となり停止状態となります。


小石 清 『半世紀』より「象と鳩」1940年 戦時下で、趣味の写真をやるのはもっての他という社会の風潮も起こり、国策に協力するための写真でなければ存在価値は無に等しかったのです。そのような状況のなかで、小石は残された唯一の写真表現の場として、フォトジャーナリズムを選ばざるを得なかったのかもしれません。第3部「再生」では、小石をはじめ12人の写真家たちが「戦争」という苦難とどう向き合い、写真家としての道を模索していったかを検証します。そして、彼らの生き様を通して、1930年代から60年代の写真表現を探ろうとするものです。

otsuka_gen_jyoshi1
大束 元 「終戦の詔勅放送に泣く女子挺身隊員」1945年








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スイカ

2005-08-19 23:58:16 | 
スイカ、やはり西瓜と書いた方がしっくりする。子どものころは西瓜が大好物だった。なのに、同じウリ科のメロンは嫌いで、みんなから「変なの」と言われている。いまでも西瓜は嫌いではないが、食べることはあまりない。食べたいと思うこともあるにはあるが、冷蔵庫に入らないのであきらめている。子どもたちがいたときは大きな西瓜を買ったものだが、いつしか西瓜といえば小玉西瓜となり、それもまれにしか口にしなくなってしまった。だから外国でデザートに西瓜があると喜んでいる。

久しぶりに大きな西瓜を買ってきた。当然、冷蔵庫には入らない。バスタブに水を張り、浮かしておいたが早く食べたいので半分にして冷蔵庫に入れた。その大きな西瓜を一人で食べている。一切れが大きいので、それを食べると他のものが食べられない。ご飯代わりといってもいい。夏の疲れが出てきてたらしく夏バテ気味で食欲が落ちているので、西瓜は食べやすく、水分や糖分の補給になってくれている。
以前のアヒルは西瓜を喜んで食べたのに、いまのがあちゃんは食べない。ウサギも喜ばない。なんか最近の子どもたちみたいだ。

西瓜の歴史をたどってみよう。
スイカはアフリカのカラハリ砂漠原産で、古くから栽培されていた。4000年前の古代エジプトの壁画にものこされている。エジプトでは種子を食用としていた。

その後、地中海沿岸、中央アジア、中近東へつたわったが、ヨーロッパには17世紀になってつたえられた。中央アジア、中近東、ロシア南部では水の代わりとして飲料にされ、飼料にももちいた。果物としての利用は地中海沿岸地域ではじめられた。

11世紀ごろ中央アジアをへて中国にはいり、西からきた瓜(うり)ということで西瓜とよばれた。日本へは16世紀に渡来したと思われる。現在栽培されている品種は明治中期になって、導入された中国や欧米の優良品種を改良したものである。

北海道の当麻町特産だと言うが、釧路でも売っていた、デンスケ西瓜という皮が黒い西瓜がある。とっても値段が高いが美味しい。でも、どういう由来だかは知らない。

西瓜と言えば思い出すのはスリランカ。スリランカの西瓜はそれほど美味しいとは思わなかったが、ヌワラエリヤの道端で売っていた楕円形の大きな西瓜を抱えてホテルに帰った。そんな客はいないのだろう、フロントもベルボーイもにこにこして眺めていた。その西瓜はこれから訪問するオタクへの土産に買ってきたものだった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敗戦記念日

2005-08-15 21:47:09 | 日記・エッセイ・コラム
60回目の敗戦記念日。ここまで曲がりなりにも平和であったことを感謝しよう。この戦争のために犠牲になった、日本のみならずアジアの人々、そして世界の人びとの鎮魂も祈ろう。
どんな戦争にも言い分はある。いまここで、きちんと歴史的清算をして、新しいアジアの共同体制をつくりあげていきたいものだ。政治を預かる人たちにそういう認識がないことはまことに残念だし、これからの日本の行く末も案じられる。

報道によれば、小泉首相がアジア諸侯に深く反省しているという表明をするそうだが、一方では国会議員たちがそろって靖国神社参拝に行き、アジアの人々の神経を逆なでしている。戦没者を悼むことは残された国民としては当然なことなのだ。しかし、靖国神社は単なる戦没者を悼む神社ではない。こういうけじめをきちんとつければ、だれかれも参拝に行けるのではないか。そういうことをしてほしいだけである。
イスラエルとパレスチナですら、しかもタカ派のシャロンがガザからの撤退に踏み切ろうとしている。経済的に発展したのだから、こころも大きくなって、アジアのまとめやくになってもらいたいものだ。まさに日本の政治は三流、特に外交は下手だねぇ。

1945年、昭和20年8月15日、多くの人はその日は照り付けるような熱い夏の日だったと回想しているが、私には8月15日の記憶はない。この日は、私が小学校2年、正確には国民学校2年生の夏休みのことである。同じ年で、1学年上の夫は家族と玉音放送を聴いたというが、私はそんなことがあったのすら知らない。夏のいつもの日と同じように海に遊びに行っていたものと思う。夏は晴れても降っても、姉妹揃って、海で泳いで、遊んでいた。その毎日の一日だったのだろう。ただ覚えているのは、夜になって、いつも電灯のかさにかけていた黒い布を母が「今日からこんなものかけなくてもいいんだよ」と言ってはずしたのを覚えている。その電気の光が部屋中にいきわたって、いつもよりず~っと明るなった。たぶん、それが8月15日だったのだろう。

昭和20年7月22日、敗戦の1月前のことである。いつものように伊豆山の海で遊んでいた。警戒警報も鳴らなかった。そこへどこからともなくやってきた2機の飛行機が低空飛行し、いきなり私たちに機銃掃射を浴びせたのである。あわてて逃げて、姉妹もろともマンホールに落ち込んで、助かった。しかし、掃射された銃弾が岩に当たってキーンと鋭い音を上げ、海面に打ち込まれた弾が、水煙を上げてプシュプシュと水を切ったのを今でもしっかりと覚えている。

先日姉妹で会ったとき、これが会話にのぼり「怖かったね」と思い出したのだった。「実は、あの飛行機がね・・・」そう、あの2機の飛行機がとんだ禍を残して行ったのである。

この飛行機が、私たちを撃ったあと、熱海の沖合いにある初島沖で漁をしていた漁船を執拗に攻撃し、漁民の多くが犠牲になった。死んだのは22人だったと思う。海面は血の海になったと生き残った人が証言している。この事件の全貌が私にわかるのは、何十年も経ってからだった。この船を真鶴から目撃して、被害後、えい航してきた石船の人(知人)が語ってくれたところによると、銃撃された人たちは無残で、脳が飛び出した姿もあったという。その人は、今思えばえい航なんてせずに自分の船に犠牲者を乗せてきたら、もう少し助けられたかもしれないと後悔していた。この船が港に入ったとき、友達たちと夫は見に行っている。甲板が血だらけだったのを覚えているそうだ。それぞれが別々に体験したことなので、なかなかむすびつかなかったのだが、実は7月22日の一連の出来事だったのだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする