Cogito

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懐かしい人たち

2024-05-29 10:11:06 | 日記
顔も忘れてしまったくらい、何十年ぶりに、知り合いが訪ねてくれた。私に用があったわけではなく、なんでも真鶴に借家、借部屋を探しているとのことだった、う~ん、真鶴は空き家だらけだけどなぁ。

秦野のHさんから電話をもらった。一人暮らしを気遣って時折電話をくれるんだ。優しい人。Hさんは旧小田原合庁の一階にあった、消費生活センターの職員だったが、2市8町の消費者グループの連携を図ってくれた。おかげで2市8町の消費者団体とも親しくなった。消費者活動が盛んな楽しい時代だった。
そんな思い出話をして、当時の仲間たちは如何しているかな、という話になった。なん人かの電話番号はノートに残っている。で、親しかった人から電話をかけてみた。「電話に出ることができません」次は留守、数軒かけてみて、そうか、トップの人たちは私と同年配。といことは静かに暮らしているんだろう、で、Hさんに電話をして、深追いはやめる、と伝えた。しかしはたと考えた。平穏な生活を続けることだけがいいことではないはず。時折変わった風が吹いて忘れていた脳が活性化することもあるんじゃないか、と。
でまた、電話をかけ始めた。案の定、思い出して、思い出して、くれているようだった。最初は些細な思い出だが、話が弾むと少しづつ思い出してくれるようだった。
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あいかわらずドジ

2024-05-22 22:28:41 | 日記
水曜日は燃えるゴミの日。前日からまとめて玄関に置いておいた。持って行ってもらって、生ごみの三角入れをみると、ちゃんとまとめて水切りのために三角入れに入れてあった。その上にまな板が横切っていたので、気が付かなかったらしい。一番出したいものを出し忘れてしまったわけ。ドジぶりに,われながらうんざり。

テレビでよく見る徳光さんの奥さんが認知症なのだそうだ。5年前、気が付いたのは息子たちだった。お母さんが何度も同じことを言う、とか、忘れ物が多いとか、でも徳光さん自身は気が付かなかったそう。献身的に世話をしてくれる賢婦人だったらしい。ある時、買い物に行くと言って出ていったまではよかったが、普通なら40分位で帰ってくるのに、半日以上帰ってこない、警察に事情を話して捜索を依頼してら、警官が来てくれた。そこに明るい声で、ただいま!と奥さんが帰ってきた。「どこへ行ってたの」ときくと、「帰り道がわからなくなっちゃって」と答えたという。

う~ん、それを思うと、一人暮らしをしているからかもしれないが、脳はしっかりしているほうだ。ありがたいことに。
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朝から

2024-05-21 10:29:31 | 日記
朝起きると、廊下にネズミの死体があった。やや大きい。20㎝ぐらいはある。
とったのは、どっちのネコかな?
トービー、持って行ってくれるかな。

トービーが木にとまっているのを確認して、火ばさみでネズミをつかみ、窓から投げた。トービーはすぐ様下りてきた。よかった。ネズミもこれで役に立った。
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ヤボ用

2024-05-21 08:38:19 | 日記
数日前、学習院桜友会から会報が届いていたが、机の上に置いたままだった。続いて、桜友会小田原支部の総会のハガキも届いた。後始末しなければいけないな。そこで学習院内の桜友会本部に電話して、受取人が亡くなったので、
会報は遠慮したいと申し出た。担当はすごく感じのいい女性で、速やかに事務処理をしてくれた。私が学習院を訪れた時の思い出話をして、二人で盛り上がった。papasanは中学、高校は立正へ通い、大学だけ学習院に行った。学習院には大学院がなかったので、その後また大学院は立正に戻った。

「なぜ学習院に入ったの」と聞くと、当時の蛍雪時代(雑誌)に哲学科を選ぶなら学習院、教授陣素晴らしいと紹介されていたからだそうだ。私も哲学と言ってもギリシャ哲学がメインだったが、その程度の私でもわかるくらい、そうそうたるメンバーの教授陣だった。阿部能成さんが院長だったからして、そうだったんだろう。ついでに小田原支部にも電話して亡くなったことを伝えた。

もう一つ、これはpapasanではないが、私の用事で、鈴鹿市役所に電話していたが、担当がいないので今日になった。数年前我が家にあった佐佐木信綱さんの全集やもう市販されていないような本を、段ボールに詰めて送った。そのお礼なのだろうが、毎年佐佐木信綱記念館から会報が届くようになった。薄い冊子だが中身のある楽しいものだった。

でももう歳だし、字を読むのも面倒、で冊子の送付をお断りした。その時も信綱さんについてたくさんお話しした。子どものころ信綱さんに届け物をするのは私の役目だった。いつも客間で先生といろんな話をした。私が言語学に興味があるのを知って、「万葉集が何語に訳されましたよ」なんて話してくれた。帰りにはいつも先生の本を頂いた。それがたまりにたまっていたので、鈴鹿に送ったのである。

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲
「の」ばっか多い、信綱さんのこの和歌だけはよく覚えている。この背景も話に入れた。おおらかな、穏やかな、奈良盆地が目に浮かぶ。

頂いた佐佐木信綱記念館だより(これが最後になる)を読んだ。
信綱さんは明治5年生まれ。同年生まれには、樋口一葉、島崎藤村がいる。それ以上によき先達、よき友、よき後輩に恵まれていたようだ。名前を見るだけでも、歴史に残っている文学者たちの名前が並ぶ。 

熱海時代は74歳から92歳。私がお使いで通ったのはこの時代。お葬式にも父親が病気だったので代理で参加した。
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訪問診療

2024-05-15 07:33:57 | 日記
昨日は訪問診療の日。先生に早速文句を言った。若い先生と年寄りの会話の行き違いですけどね、年寄りをコケにしてはいけませんよ」「飲みやすいようにひとまとめにしたんですよ」「それがかえって飲みにくかったんですよ。それにまとめて袋に入れられちゃうと、薬の判断もできないでしょ。タケキャブと、骨粗しょう症の赤い丸薬はわかるけど、一応ね、薬の名前を見ながらトレイに並べてから飲んでいるんですよ。」
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