1999年
カイロ空港に下り立ったのが午前2時近く、ひっそりとしているかと思いきや、空港は混雑している。私たちの姿を見るや、「タクシーか」と何人もが声を掛けてくる。エイジェンシーの呼び込みもかなり強引だ。様子が分からないので、値段は高いがリムジンに乗って、ナイル・ヒルトンまで行く。さすがに道路は空いている。3時近くだというのにホテルもざわついている。
到着早々から洗濯。いつも旅行で私が持つのはカメラバッグがひとつ。カメラとレンズが中心に手帳、筆記用具、スティック糊、千代紙などの入った袋と本が一冊。これにワープロが入っていたのだが、フロムカードが使えなくなったので、今回は置いてきた。次からは軽いPCを持っていけるようにしようと思う。サイドにはゴミ袋が一枚。雨の時すっぽりバッグを覆うためにいれてある。夫はキャリー付きのバッグだけ。フィルム50本はこれに入れて貰うので、私の物は極力減らす。私は着替えは一組しか持っていかない。だからこまめに洗濯する。ヨーロッパの時は音楽会用にドレッシーそうなブラウスとスラックスが余分に入る。石けん、シャンプー、リンス、歯磨きは合成洗剤を使わないので持参。でも消費量は分かっているから、余分には持っていかない。洗濯の仕方は、洗濯した物を最後に熱湯ですすぎタオルに包んで絞る。バスタオルにくるくるにくるみ、足で踏んで水分を取るとラク。ホテルには悪いが浴室の電気をつけ、ファンを回しっぱなしにしておくと、乾きが早い。
ナイル・ヒルトンに宿をとったのも、先ずはカイロ考古学博物館から行動開始しようと考えたのだったが、イスラムでは金曜日は安息日、入ってもお祈りで11時半で出されてしまう。ホテルの窓から博物館の様子がよく見える。観光バスが並び、人々のすごく長い列が出来ている。持ち物をX線検査するため。2年前のあのテロのせいで、治安回復を狙ってのことだろうが、エアポートはもちろんホテルに入るにも、駅でも、博物館でも、例外なく金属探知器の下を通らなければならない。博物館など二回は通らなければならない。ホテルだって出たり入ったりの度に探知機をくぐる。くぐると必ずピーと警音が鳴る。私は「ピー」と言いながら入る。係員が笑っている。
発展途上国の問題はなんといっても貧富の格差が大きいことだ。貧しい人たちは富を求め、職を求めて都市に集中する。エジプトの正確な人口は知らないが、半分近くがカイロに集中しているようだ。貧しい国々(GNPの判断で)をずいぶんまわり、物乞いの多さも知っているが、(ヨーロッパだって乞食はいる。スーパーで買い物をしたり、切符を買ってお釣りがあるとすぐ手を出すのはイタリアが多かった)、私の知っている限りの他の国と比べるとここはかなりせちがらい。日本人と見ればふっかけるし、親切そうに道を教えてくれたと思ったらチップを要求する。入場料を払って入ったモスクでも、更に更にチップを要求される。
町中、いや国中、治安のためだろうが小銃を持った警官があふれている。警官の給料を払うだけでも、国はかなりの予算が必要だろう。しかし警官の低賃金には驚いた。低賃金でも安定しているからだろうか、この数の多さは。さぞかしワイロが利くだろうな。国中どこへ行ってもムバラク大統領の顔写真が貼ってある。そういえばこの国は社会主義の洗礼を受けている筈だ。いまの制度がどうなっているか勉強不足でしらないが、このせちがらさは社会制度が充実しているとはとても思えない。
とはいえ、町中車があふれかえっている。結構、HYNDAI(韓国車)が幅を利かせている。タクシーは多い。タクシーに乗るには値段の交渉から始まる。何回も行っているところは運賃の相場が分かっているからいいが、初めて行くところは、フロントあたりで情報を貰っておく。
一流ホテルにいるリムジンはかなりの割高だが、英語が通じる。町中で拾うタクシーの運ちゃんは英語が出来ないのが多い。こんなことがあった。
歩くにはちょっと遠い所だったので、タクシーを拾い、「ラムセス セントラル ステイションに行ってくれ」と頼むと、運転手は傍らの店の親父さんに何か言って、OKと車を走らせた。この国の車は交通規則などあって無きが如しで、車を押しのけて走る。もっと恐いのはそういう車の間を平然と歩行者が横切ることだ。そのうちには馴れてしまったが、はじめは「ヒャー あぶない」と思わず声をあげた。
地図を見ていた夫が「道が違う」と言い、運転手の肩を叩き、「私の行きたいのはここ」と地図を見せると、頷いている。しかし車は反対方向に走っている。「一方通行じゃないの。大回りして行くんじゃない」と私。大回りまではよかったが、ついたところは考古学博物館。「違う違う」と再度地図を見せると、運転手は外に出て、警備員を連れてきた。彼は英語が話せそうだ。「ラムセス セントラル ステイション」とゆっくり地図を見せながら言うと、「ラムセス セントラル」と頷いて運転手に指示した。タクシーがその方向に走り出し、やれやれと思ったら、すぐ止まった。今度はなんとラムセス ホテル。再度地図を見せ「私たちの行きたいのはここ。でももういい」と約束の料金に回った分をうわのせしてもいいよ、と言って夫がお金を出すと、その意味も分からなかったのか、約束の料金しかとらなかった。それからは英語が出来るかどうかきいてから乗ることにした。
英語ができても、エジプト英語はすごい。30はセルティ。夏はサマル。とまどったが馴れてくると勘で分かる。分かるのはいいが、マネしてしゃべるから自分の英語もおかしくなってしまう。白人女性に「Can you speak English?」と声をかけられた。「Yes」と答えると、「イスラム博物館を知っていますか」と。「今私たちは行って来たのだけど、電気のトラブルで今日は入館出来ないと断られた」と言うと「急いで30分もあるいてきたのに」とがっかりしている。「そこを左に曲がって数分だから行ってみたら」と言って別れた。彼女も英語が通じなくて苦労してきたのだろう。
予定を変更して、タクシーとガイドを頼み、ギザの3大ピラミッド、スフィンクス、サッカラ、メンフィスと1日かけて近郊の名所をまわった。 ギザに近づき、ガイドから「ほら、ピラミッドが見える」と指され、「わぁピラミッドだ」と子どものように叫んだら、なんでこんなものに感激するのかといった顔をされてしまった。ピラミッドもスフィンクスも人、人、人でごった返していた。学校が休暇にはいったとかで、子ども連れの家族が多い。加えて外部からの観光客。いろんな言葉がとびかっている。
アムステルダムから飛行機が一緒だった日本人ツアーの人たちとも出会った。彼らは聴覚障害者の一団。空港でも活発に手話で話し合っていたが、残念ながら私にはアラビア語以上になんにも分からなかった。挨拶はニコっと笑って会釈するだけ。以前手話で「こんにちは」を覚えたのだが、使うことがなかったので忘れてしまっていた。どこの国でも、こんにちは、ありがとう、さようなら、ぐらいは、そこの国の言葉ですると喜ばれる。今回もアラビア数字を覚えて、ルームナンバーはアラビア数字で書くと、ことのほか受けた。だが、同じ日本人なのに手話の一つもできずコミュニケイション出来ないのはなんとも残念だ。
クフ王のピラミッドは入り口までは登れる。中学生くらいの男の子達がわいわい話しかけてくる。調子に乗って私も写真を撮ったりして一緒に騒いでいる。 ピラミッド、初めて見る者には大きくて存在感がある。吉村作治さんによれは(彼の著書は殆ど読んでいる)、ピラミッドは王墓ではないそうだが。ガイドにピラミッドの石を指さし、「この石は何」ときくと、「アラバスター」だと答えた。アラバスターは白い筈なのに変だなと「アラバスターは固いのか」と聞くと「固い」と言う。 私の住む真鶴は小松石の生産地。石にはちょっと知識がある。この答えはどうもおかしい。旅が進むにつれやがて、ピラミッドの石はグラニートで、アラバスターは私の思っていたとおり白くやわらかい石であることがわかった。
公開しているピラミッドの内部通路は背をかがめても頭がぶつかりそうに天井が低い。真っ暗な中を下を向き向き歩いていたら、いきなり前方をふさがれた。さっきの男の子達が、もそもそ上がってくるオバサンを見つけて、通せんぼをしたのだった。こんなところ人なつこくてとてもかわいい。
3つのピラミッドが一望に出来るところに連れていってくれた。さらさらとした砂というより泥の乾いたような細かい砂の上を歩いていくと、遠くサッカラのジェセル王の階段状ピラミッドも見渡せる。「これから行くからね」とピラミッドに呼びかける。96ものピラミッドがあるそうだ。スフィンクスにも寄る。
サッカラに行く前にパピルスmuseumに連れて行かれた。パピルスの製造過程を見せ、土産物を売っている。運転手とガイドはここに私たちをおき、15分くれと言って、近くのモスクにお祈りに行ってしまった。今日は安息日、お祈りの日だからしょうがない。町中にイマームの声がスピーカーを通して響き渡る。コーランなのだろうか?
サッカラまでは田舎道でのんびりしていて居心地がいい。川沿いには麦畑が青々と続き、泥づくりの家々のまわりには山羊、羊、水牛、牛、馬、ロバ、鶏、あひるの姿が見られる。小さなこどもたちがロバに乗ってかけまわっている。動物は生活の相棒であり、食料にもなる。生活の相棒である限り、この種が生き残れるのも確かだ。ロバは車代わり、自分の背に牧草を積んでもらい、荷物を運んだり、荷車を引いたりとよく働いている。
エイシを焼く
お腹が空いたので、「みなさんにもご馳走するから、どこか食事に連れていって」と頼むと、「美味しくて安い店がある」とレストランに連れていってくれた。入り口の左の窯で、女性が二人、薄くてきれいな円のナンのようなパンを焼いている。傍へ行って「これはなに」と聞くと、答える代わりに焼きたてのパンをポンと投げて寄こした。 裏にフスマがついていて香ばしくて美味しい。ガイドに聞くと「エイシ」という。「ラジーズー(美味しい)」ほどなくエジプト料理が並ぶ。エイシにディップや野菜をはさんで食べるようだ。これがまたいける。ケバブは二人で一人前でいいから、一皿は二人にまわし、夫は専ら水みたいなステラビールを飲んでいる。私は紅茶。どこもリプトンのティーバッグ。ミルクは入れないらしい。デザートまでついて4人で125ポンド。
さすが疲れた。二人は明日の予定を聞く。明日は博物館へ行く予定だというと、午後はどうかと聞く。空いていたら、砂漠にベドウィンを訪ねて、お茶を飲んでこようと誘う。私は「行きたいなぁ」と乗り気。夫は明日はのんびり市内を歩こうと反対。「私たちは年寄りだからね。明日はフリーにする」と断ると、気が変わったら電話してと名刺を置いて行った。 ホテルで一日延長を頼むと、値段がちがいますがいいですかという。予約していくと1泊17,000円。延長は1泊250ドル。予約の方が遙かに安い。
旅での私の日課ははがきを書くこと。一日平均10枚は書く。5枚ほど書いて、のどが渇いたので下にお茶を飲みに行くと、結婚式の披露宴が行われていた。 2階から父親に腕を取られてウェディングドレスの花嫁が下りてくる。階段の下では黒のタキシード姿の花婿が待っている。ライトがつけられ、大きなビデオカメラが回っている。花婿は花嫁のヴェールをあげ、キスすると手をとり、ホールを進む。ここに上下白に赤いベストと赤い帽子をかぶった楽団が待ちかまえていて、演奏が始まる。実にたのしげなリズム。民族衣装をつけた踊り子達もお祝いの踊りを踊る。腰までスリットの入ったスカートで激しく踊るのでなんともなまめかしい。ホールを一回りすると、花嫁花婿を先頭に一団は階段を上っていった。この先ものぞきに行きたかったが、遠慮した。
と、次の花婿が同じように下に立ち、花嫁を待ち受けだした。今度の花婿は白のタキシード。もう一回式がある。カメラがほしい、というと夫が部屋に取りに行ってくれた。楽団は同じく白装束だが帽子とベストは青。太鼓とラッパがにぎやかに響く。巻き舌でラーというかん高い女声が響く。彼女はプロで、儀式にはつきものだそうだ。花嫁の母親が辺りに金のコインのようなものをまく。今度は踊り子はいないが、花嫁花婿と親族が輪になって踊っている。ほほえましい。柱の横からカメラを向けていると親族が前に出て写真を撮れと押し出してくれた。ついでに記念にまいたものも拾ってくる。コインのようなもの、手形に青い目がついているものなどがある。きっとそれぞれに意味があるのだろう。
エジプト弥次喜多記 3
私の体内時計は日本にいると7,8時間狂っているから、こちらに来るとちょうどいいらしく早起きになる。アザーンも聞けるし、日の出も見られる。
ホテルの朝食はどこもすっかりビュッフェスタイルになってしまった。エジプト食の方を物色すると、エイシもある。取ってきたが冷たくて、焼きたての美味しさを知ってしまったので、小麦粉の持つ甘さも香ばしさも感じられない。まずいと言って夫の皿の上に載せる。うんちくを披露すると、パンの歴史はエジプトから始まる。小麦の歴史はイラン高原の一粒小麦から始まる。因みに私たちが使っている粉には薄力粉、中力粉、強力粉、セモリナ粉などがあり、グルテンの強さが違うのだが、これは小麦そのものの性質によって分けられている。薄力粉は薄力粉用の小麦の粉なのである。
フェタに似た真っ白な出来立てのようなチーズがある。塩辛いし、フェタのようだ。ボーイさんに「このチーズはなんて言うの?」と聞くと「ビアンコチーズ」だという。「ビアンコ、白いチーズ?なんでここでイタリア語になるの」と言いながら、ちょうど出てきたコックさんに同じ質問をするとフェタだという。フェタはギリシャのチーズ、地理的にも近いから製法が入ってきているのだろうか。もうひとつもっとクリーミーな、チーズスプレッドのような白いチーズも美味しかった。固いチーズも何種類かあったが、私は朝食はあんまり食べない方なので、さすがの食いしん坊も味見はしなかった。ただ、生野菜がたくさんあるのは実にうれしかった。
今日の予定はまず旅行社に手配を頼みに行くこと。夫はいつものように弥次喜多が良いと言うが、地方に行って英語が通じないと困るから、今回はエイジェンシーに頼もうと説得する。ホテルにある旅行社でルクソール、アスワン、アブシンベルをまわり、帰りは列車でと頼む。午前中博物館に行って来るからと午後1時に航空券が取れたかどうか結果を聞きに来ることにして、すぐ目の前のカイロ考古学博物館に行く。
博物館は、なんでこんなに人がいるのかなと思うほど大勢が押しかけている。でも、中は広いので、東京の特別展のような押し合いへしあいはない。展示品の量はすごい。まるで倉庫といった感じ。エジプト学に興味のある人はこたえられないだろうな。ロンドンやパリやベルリン、ニューヨークにずいぶん持って行かれてしまってはいるけれど。
ここのメインはツタンカーメン。日本にも黄金のマスクをはじめ埋蔵品がやってきたことがあるお馴染みのもの。何度みてもすばらしくきれいだ。切手にもツタンカーメンの立像が使われている。コンシェルジェでエアメールの切手を買っていると、そこにいたエジプト人が「アクエンアトン」だと切手の絵をさして言った。アクエンアトンにしては顔が丸いなとは思ったが、眼鏡を持っていないとよく見えない。「アクエンアトン?サンキュー」あとでよく見るとツタンカーメン。一般の人にとって、ツタンカーメンに比べたらアクエンアトンはメジャーじゃないのに。
1時に旅行社に行くと、行きの航空券は取れなかったと言う。すべての順序を入れ替えてもう一度組み直し料金を支払い、チケットやバウチャーを4時に受け取りに寄ることにする。ホテルにある旅行社でもカードは使えず現金払い。夫が銀行に行って引きだして来た分厚い札束を支払っている。ここのお姉さんの英語もrをちゃんと発音する。
ムハンマド・アリ・モスクへリムジンで行く。リムジンは市内はすぐ近くでも遠くても
29ポンドと協定料金になっている。空港までは61ポンド。そのかわり運転手が英語で説明してくれる。私は都市の車通りの喧噪は嫌いだが、路地のごちゃごちゃしたところは大好き。
ムハンマド・アリ・モスクは高台にあり、シタデルに続いている。ムハンマド・アリは
フランスのコンコルド広場にあるオベリスクを贈った人だ。大きなモスクだ。モスクに入るには靴を脱ぐ。中は絨毯がひきつめられ、シャンデリアの光の蔭がドームに映って微妙な雰囲気をつくっている。メッカの方向を示したミフラの前で数人が(必ず一人が前に立ち)祈りを捧げていた。このモスクからの眺めはすばらしい。
外を歩いていると、カメラを持った人に声をかけられた。シャッターを押してくれと言うのかと思ったら、子どもと一緒に記念写真に入ってくれというもの。私は写真は撮るが撮られるのは大嫌い。一瞬ためらったが、快く子ども達と写真におさまる。その代わり私にも写真を撮らせてくれと、二人の男の子を撮らせて貰う。ムハンマド・アリ・モスクで会った日本人として彼らの記念になるのだろうな。残念なことに折り紙を持ってこなかった。握手して別れた。
今度は夫が声をかけられている。どうしたのと聞くと、あの男の子達、話がしたいんだよ、という。帰り道でも一緒になったので「May I?」とカメラを向けると、喜んでポーズを取ってくれた。「バーイ」。子ども達にはもてるなぁ。
ムハンマド・アリ・モスクからホテルまでタクシーで20ポンド。チケット等を受け取り、部屋に置いてカイロタワーに行く。ここもすごい行列。チケットを買ってその列の最後尾に並ぶと、係員がこっちに来いという。エレベーターの前は2列。私たちの連れて行かれた列はほんの数人。優先的にこちら側から乗せてくれる。外国人は優先されるのだそうだ。おかげで待つこともなく上にはあがれたが。
その時は分からなかったが、だんだん分かると、外国人の入場料は、博物館でも、エジプト人の3倍位以上高い。そういえば他の國でもそうだった。
高いところから市内を見るのは地理を頭に叩き込むにはいちばん。夕日の方向にギザのピラミッドが見える。あっちが西。タワーの横をナイル川が悠然と流れる。夕日に映えてすばらしい景色だ。タワーのあるところはナイル川の中州、ゲジラ島。ホテルは目と鼻の先。車でゆれる橋を渡り歩いて帰る。
夕食はワインから。関税が高いらしく輸入ワインはすこぶる高い。昨夜賞味済みの赤、オベリスク98年をとる。のみやすい。私は赤しか飲まないから、エジプトワインのオベリスクとオマール エル カイヤンの2種類をたのしんでいた。値段はボトルで47から55ポンド。オベリスクの方が高い。でも私はオマールの方が気に入った。
帰り、出発が午前4時なので、空港近くのノボテルに泊まったら、オベリスクが79ポンドだった。
いよいよ南への旅が始まる。
「カイロには2つ駅があり、これはギザ駅からの発車ですからくれぐれも間違わないように」とエイジェンシーのお姉さんがアラビア語でギザ駅と書いてくれた。ギザ駅列車到着はたぶん7時5分くらいになるだろうから、少なくとも6時45分には着いていて欲しいとも言われた。 私も気が早いが、夫は更に気が早い。5時半でいいというのに、モーニングコールを5時に頼んだ。朝は車も空いているから、6時半にはギザ駅についてしまった。でも、もう人々でごった返している。例によって金属探知器を受けフォームに入る。ギザ駅はフォームが2つしかない小さな駅だ。どこを探してもアラビア語以外の表記はない。警備の人に聞いても英語が通じないからさっぱり分からない。南があっちだからたぶんこっちのフォームから出るんだろう。大体どれが駅員さんだか、それすらわからない。日の出前なので、すこぶる寒い。私はコートの裏ポケットに必ず手袋とマスクとレインハットがいれてある。「オーバーだよ」と言われてもマフラーをし、手袋をはめ、それでも寒いとぼやいている。
反対側のフォームに列車が入り、荷物がいっぱい下ろされる。ポーターがとんでいく。ぐるっと見渡しても通路らしきものは見あたらないし、路面から高いフォームに段差もスロープもない。どうして運ぶんだろうかと見ていると、線路に下りて荷物を持って往復している。こちら側のフォームにはキャリーを持ったポーターもいるのだが、請負らしく手伝いを断って一人で運んでいる。
10歳ぐらいの男の子が重そうに荷物を背負ってきた。のぞくと新聞がぎっしり。これは重い。男の子がポンと線路に下りると、近くにいた列車を待つ人が彼の荷物を渡してやった。向こう側でも手伝っている。自然に手を出していると言った感じ。まだここには助け合いの精神が生きているんだなぁ。夫が「子どもの権利条約」は必要だなぁとつぶやく。
7時過ぎ列車が来た。でもどう見ても長距離利用の列車ではない。と、商社マンらしき人が切符を見てくれ、これではない。たぶん7時半頃になると教えてくれた。ずいぶんアバウトだなぁ。7時半近く列車が来た。「来たよ」と叫ぶとまわりの人たちが「ノー。ノー」と×印をする。こんな時間に観光客が立っているので、どこへ行くのかわかっているらしい。言葉は通じなくても、みな親切だ。
「中国人か?」と声をかけられた。「日本人だ」と言うと、日本人が 列車で旅行なんてめずらしいと言う。でも、彼も列車が何時に来るかは知らなかった。待つこと1時間半、8時にルクソール行きの列車がやっとやって来た。もう一組、外国人旅行者が乗った。本当は何時発だったのだろう。 座席はとても座り心地がいい。これなら長距離の旅も大丈夫そうだ。すぐに車掌さんが来て検札していった。ユニフォームがないので車掌さんの区別はつきにくい。
飛行機ならカイロからルクソールまで1時間 だが、列車だと10時間かかる。10時間以上の列車の旅はマレーシアでしたことがあるから、そんなに大変だとは思わない。10時間の運賃が一等で56ポンド、嘘みたいに安い。ほどなく朝食の注文取りが来た。朝食を注文すると網棚からなにやらとりだしていると思ったら、ごそごそとテーブルをはめ込んだ。夫が汚いというので、ウェットティッシュで拭いてやる。彼は大きめのハンカチをテーブルクロス代わりに敷いている。かまわない私はそれを見て笑っている。 運ばれてきた朝食はきれいなトレイに載せられ、まるで機内食のようにパンもチーズもみんなパックされている。おまけにウェットティッシュまでついている。お茶も頼めば何回も持ってきてくれる。お茶代は2ポンド。
列車はナイル川に沿って走る。これは快適だ。
「エジプトはナイルの賜」というヘロドトス(BC5世紀)の言葉があるが、まさにその通り。川沿いはエジプトの国土の97%が砂漠だという言葉が信じられないくらい緑豊か。車窓からは人々の暮らしもかいま見られる。農作業も家族そろっての手作業だ。トラクターの姿も見たが、圧倒的にロバや牛、馬が農作業を手伝っている。家畜の傍にはアマサギも多い。ツバメは川面すれすれに飛び、クイナやバンがゆったりと泳いでいる。青々としているのは麦、牧草。オレンジもたわわに実って、本当に豊かな風景だ。 そうこうするウチに、どこまでもサトウキビの畑が続く。刈り取ったサトウキビをロバが荷台一杯に山積みして歩いている。
ランチはチキンとグリンピースのピラフ。チキンそのものが美味しいから、骨までしゃぶった。ピラフはちょっと米の芯が残るところがあったが、日本人にはあう。時間にゆとりがあれば、列車の旅はおすすめ。
ルクソールに近づくにつれ、畑は広いトマト畑になった。コンテナいっぱいにつみ取られた真っ赤なトマト。美味しそうだ。
日が西に傾くと、遠くの禿げ山に夕日があかあかと燃える。刻一刻と移りゆくその色彩の美しさ。今思うとあの禿げ山は王家の谷の辺りだったのだろう。
暗くなった駅に待っていてくれたのはエイジェンシーのハマダさん。なじみやすい名だ。そういえば、ピラミッドの運転手はタナカさんだった。今日のホテルはナイル川沿いのイシス ホテル。客がいっぱい。日本人団体客もぞろぞろいる。部屋は通りに面している。この国の車はやたらとクラクションを鳴らすのでとてもうるさい。夫が部屋を代えてくれと言いに行くと、今日は満杯だから明日の朝にしてくれと言われた。
ミナレット
このホテルには何軒ものレストランがある。「中華に行こうよ」というと「こんなところで中華に行かなくても」と夫は渋い顔。でも中華にいく。飲み物は?夫はステラビール、私はチャイニーズティを注文すると、チャイニーズティはないという。中華料理店のくせにチャイニーズティがないなんて、それならやめるとわがままな私は席を立つ。 夫はイタリアンにしようという。ガイドブックに美味しいと紹介されているからと。ガイドブックなんて信用しない方がいいよ、と私。この辺、ギリシャもトルコも、イタリアの近所のくせに、パスタの茹で加減がアルデンテでない。イタリアだって茹でたパスタを使うところがかなりある。「日本のスパゲッティはアルデンテなのに、イタリアのスパゲッティはアルデンテでない。どうして?」と訊いたことがある。そうしたら、主人答えて曰く「お客様を待たせないためのサービスだ」と。 でもここならワインは飲める。ここのミネストローネは美味しかった。野菜が美味しいんだろう。パスタはやっぱりアルデンテではなかった。だから後はお茶だけ飲んで出てしまった。
エジプト弥次喜多記 5
ルクソールの一日。アザーンの声で目が覚めた。部屋が東向きなので、朝日が昇るのが見える。ナイルの岸辺を散歩する。ナイルはたっぷりとゆったりと流れている。ボチャンと音がしたのでそちらを見ると、キングフィッシャー(カワセミの仲間)が魚をくわえて飛び上がった。大きさもヤマセミに似た黒と白のキングフィッシャーだ。 車窓から見た畑の作物を確かめたくて、近くの畑まで歩いていく。
西岸に行くには以前はフェリーを利用していたようだが、今では立派な橋が架かっている。ルクソールはエジプト第一の観光地。国の力の入れ方も違うのだろう。
西岸は古代は「ネクロポリス(死者の町)テーベ」といわれ、ルクソール住民の墓所だった。有名な王家の谷があるところだ。今日のガイドはアリさんとシャバさん。シャバさんは日本でアラビア語を教えていたのだそうだ。日本人のためにわざわざ日本語の出来るシャバさんをスタッフに入れてくれたのらしいが、このシャバさんの日本語がこれまた大変。シャバさんがつまると、そっと隣のアリさんに英語で説明して、と頼む始末。
王家の谷にいく途中の丘の上に早稲田ハウスがある。「寄りますか?」「隊員がいるときは旗があがっているそうだ。旗がないから今日は留守」と断る。ここでは吉村作治さんはヨシムラセンセイと呼ばれて有名。「吉村先生の本、みんな読んでいるよ」、というと「それでは歴史にくわしいでしょう」と。
王家の谷入口
王家の谷は草ひとつない河岸段丘にある。しろっぽい丘の上の空は真っ青。もうすでに大型観光バスが押し寄せ、駐車場はいっぱい。土産物屋が所狭しとならび、観光客に声をかける。シャバさんが、2年前のテロ事件で、日本人観光客が来なくなって、本当に困り、時計を売ったりした、という。
公開されている王墓の前は行列が出来ている。なんのことはない、団体客にガイドが説明しているので、入り口に人だかりができているのだ。団体客は結構こんなことで時間をとられる。ピカソのゲルニカの前で団体客に、ガイドがながながと説明したのには腹がたった。団体が完全に作品をふさぎ、見えなくしてしまった。説明をきく人たちは作品を見ずガイドの方を向いている。説明は離れたところでしろ、と文句を言った。だから迷惑にならないように、二人だけで見学してくる。
色鮮やかな壁画。表面はガラスで覆ってあるが、こんなに大勢の人が入れ替わり立ち替わり入って影響ないものか、とその一人であるにもかかわらず、心配している。近くにツタンカーメンの墓もある。夫が ぜひ見たいというと、ここは別料金だという。「チケットはどこで買うの?」と聞くと、いくらだからアリさんにはらってくれという。入場料を見て、夫が「アリさん、料金上乗せしているよ」とささやく。ツタンカーメンの墓は小さい。副葬品はカイロ博物館にあり、ここには彼のミイラだけが眠ってる。ツタンカーメンの時代は宗教的に大変な時代。案外、暗殺されたのかもしれない、と当時をしのんでいる。
シャバさんがツタンカーメンの奥さんは「ティティ」「違うでしょ」と私。「そちらの方が詳しいのでした」「まったく。嘘おしえちゃだめだよ」と笑って言う。
ハトシェプスト女王葬祭殿。ここも二人だけでほっつき歩いてくる。今は修復中でテラスまでは上がれない。ここの警備もすごい。あのテロで撃たれた人が小田原にいるが未だに後遺症が残っている。