不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Cogito

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

合併問題②

2004-08-21 14:02:10 | インポート
 市町村合併は言ってみれば国の政治の失敗を地方に押し付けているに他ならない。
日本では、明治から2度の大合併が行われている。明治の合併は単位を小学校が出来る程度にしたのだった。徴兵の目的もあった。2度目の昭和の大合併は中学校が出来る程度。これで3300余りの自治体が出来た。今回の合併で自治体の数を1000にしようという話もある。しかしこれは先ず無理のようだ。

税金の配分を簡単に言うと、所得税等、国税はいったん国に集められる。それを国が地方に分配する方式が取られている。これが本来なら1:1であるべきだが、まだまだ格差がある。国の取り分が多いのだ。

地方への分配の重要なひとつに地方交付税というのがある。交付税には普通交付税と特別交付税があって、普通交付税は交付金として配分、特別交付税は災害などの時に配分される性質のものである。交付税は財政力豊かなところと豊かでないところとの格差を少なくすると言う目的である。
自主財源のあるところは地方交付税不交付団体という。神奈川県は不交付団体が多い方だ。それでも交付団体へなってきている自治体もある。

自主財源の少ないところは交付団体、わが町も交付団体である。交付税の算定基準はいろいろある。それにしたがって、自治体ごとに配分額も違う。この交付税は各種補助金と違って、ひも付きではないので、自由に使え、自治体にとってはあてに出来るお金である。国の地方財政が赤字なので、これを減少させるためには交付税を減らす、というのが、政府の打ち出した方針である。交付税を減らすためには自治体の数を減らさなければならない。自治体の数を減らせば、必然的に配分は少なくてすむ。そこで地方分権とか、権限委譲とか格好いいことを言いだした。地方自治を発展させるためには分権は不可欠だ。自治体という名のごとく、自治とはそこに住む住民たちので意志で行うものである。合併で大きくなることは自治の破壊にもつながる。
長らく中央集権で地方を押さえつけてきた官僚はなかなか権益を放したがらないのは当然である。ここに大いなる矛盾がある。本当の地方分権は財源移譲もなければならない。
地方分権という声が高くなると、むしろ地方分権とは建前だけで、更なる中央集権に利用されるのではないかといった危惧もないわけではない。

国は、なんとか自治体の合併を進めようとした。しかしなかなか埒がいかない。そこで打ち出されたのが、アメとムチ方式だ。
17年3月までに合併したら、交付税をすえおき、特例債として自治体に見合った借金をすることが出来、さらにその特例債の70%を交付金で面倒みようというものである。これがアメ。ただし、この特例債は建設費にしか使えない。民生とか教育には使えないのである。しかも残りの30%は借金として返済しなければならない。そして10年後には交付税は減らされるのだ。さもなくても財政上苦しい市町村が無理をしてハードなものを作ったら、ランニングコストもかかり、またまた借金がふくらむことになる。
ムチはもちろん交付金を減らすというのである。自主財源に乏しい交付団体はお上のご機嫌を伺いながら、もらえるものは貰おうと、あちこちでばたばたと合併協議会を発足させた。しかもまず目的が特例債ありき、である。
交付税交付金の割り当てが少なくなることは予想できる。しかし日本の税制が根本から変わらない限り交付税制度そのものがなくなるとは思えない。

しかし、それ以上に心配なのはこういうばら撒きのの結果である。さもなくても赤字のたまっている国が、大盤振る舞いして大丈夫なものか。

まなづるToday No.145~ 合併問題
http://www.manazuru-today.net/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合併問題①

2004-08-19 22:37:47 | インポート
 真鶴町は箱根連山と、相模湾につきでた真鶴岬に抱かれるようなスロープにできた面積7平方キロ、人口9200余人の小さな町である。山から見ると、真鶴半島を鶴の首に見立て、鶴が羽ばたくような姿からこの地名ができたと言う。

 この小さな町が脚光を浴びたのは、「まちづくり条例」の制定のときである。いまでこそ国の施策にも「美しいまちづくり」などと美をうたったものが出来ているが、条例と言う法律に抽象概念である美の基準を取り入れたことは例のないことで、注目を集めたのだった。そもそもまちづくり条例が生まれたきっかけは、バブル期の、あちこちで起こった野放図の開発、特にリゾート・マンション建設に待ったをかける必要からだった。こんな小さな真鶴町に50もの計画が持ち込まれようとしていたのである。

 さかのぼると1973年、用途地域指定がすすめられており、県の案と町の案が示された。開発優先の町案に私たちは待ったをかけた。そこで町との話し合いの末、委員会に住民代表を数人送り込み作業に当たった。私が議員になったのは用途地域指定、真鶴有料道路問題、また真鶴岬に500室もの大型ホテルの計画が持ち上がっていたこういう時期、結婚して真鶴の住人になって9年目のことである。当時環境相だった三木武夫元総理の所にも、津田県知事のところにも行った。

 用途地域指定で土地所有者らが譲らなかったところが無指定地域として残された。また海岸地域を特別風致地区にしたのだが、あとになってわかったのだが、それが生かされていなかった。無指定地域は傾斜地が多かったので、まさかこんな地に開発の手が及ぶとは思わなかったのだろう。しかし建築技術の進歩でこういった崖地でもなんなく建物が立ってしまうようになった。ここがリゾートマンションに狙われた。土地は安い、無指定だ。しかも防御するのには宅地 開発等指導要綱しかない。
要綱というのは指導的なものであり、法的効力はない。デベロッパーに言わせると真鶴町など「赤子の手をひねるよう」に簡単にやられてしまった。条例とは自治体がつくることが出来る最高の法律である。

 真鶴町には水資源がない。隣町から高い金を出して水を買っている状況だ。水道法15条には建築物には水を供給する義務がうたわれている。少ない水をマンションのために用意しなければならない。
熱海のようなコンクリートの塊は自然が豊かな真鶴にはふさわしくない、町民が反対運動に立ちあっがたのは当然である。
たまたま町長選に二人の議員が立候補し、議員の補欠選挙も行われることになった。私は3期で議員を辞めていたが、マンション攻勢から町を守るには即戦力になると判断して、再度立候補し再選された。私のミニコミはここから毎月新聞折込で全戸配布しつづけている。

 さて、そのときリゾートマンション攻勢から町を守ると公約して町長になったのが、三木町長、今回湯河原との合併をすすめ、住民からNOをつけつけられ、その責任をとって辞任した町長である。給水規制条例、地下水規制条例制定と、建設に待ったをかけていった。それでも先に許可になったものは建設されてしまった。町の開発の許可は県の仕事である。県は地元を知らない。まして国の建築基準法は机上の産物である。
その後、現状に合わない建築基準法は見直され、メニュー方式に改正されている。

 戦いが始まった。県は指導要綱でいいと指導する。しかし指導要綱で守れなかった町は条例をつくると対抗する。このときの県知事が「地方の時代」を提唱した長洲知事であった。もちろん私は長洲さんの支持者だった。長洲さんとは大喧嘩した。「真鶴から地球の友へ」と長洲知事への抗議を世界へ発信した。連携してくれた人たちは多かった。
リゾートマンションは投機対象で値段は高騰、億ションも当たり前だった。やがてバブル崩壊、野放図の建設は規制は出来たのだが、水使用は少ないし、滞納などリゾートマンションが残した問題は少なくない。

 湯河原町と真鶴町は広域行政で協力している。だから三木町長は日頃、頭がふたつ、体はひとつ、いずれ合併してひとつになるべきだとは口にしていた。私のミニコミのサブタイトルは「小さな町こそすばらしい」である。小さな町の方が顔の見える関係で、協力しやすい。この町の住民意識は少ないがゆえに育てられている部分も多いと思っている。しかし、どうしても合併が反対と言うのでもなかった。そのためには先ずは両町民が交流しなくてはなるまいと思っていた。もちろん個人的には知り合いはたくさんいる。

 ところが合併問題が急激に動きだしたのは、国の特例債が示されてからである。どうせならもらえるものは貰おうという考えが優先したのだ。これが2年前のことだ。
今回の合併騒動はここから始まる。
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクさんのこと

2004-08-18 09:52:17 | アート・文化
コメントにたびたび顔を出して下さっているアクさんを紹介しておこう。自己紹介にしても、友人知人の紹介にしても、まだ紹介欄の作り方がわからないのだ。

アクさんは私のPhotoshopの先生である。いや、Photoshopのみならず、PCの先生と言った方がいい。なにかわからなくなると、まず「HELP!」毎度のこととはいえ、その都度懇切丁寧に教えてくれる。いつまでもPC初心者の私が、まがりなりにもPCを操作できるのはひとえにアクさんのおかげである。
まだまだPCもたもたなのが、Photoshopができると言うと、他の人は驚く。「Photoshopができるなんて、たいしたもんですよ」「うん、それしか出来ない」

photoshopはアクさんからメールで教わった。わかりやすく書かれてはいるが、文字で読むのと、やり方を実際に教えてもらうのでは、かなりの差がある。PCの機能もしらない。だから結果が違って「えっ~」なんてことはたびたび。でも理由も分からない。試行錯誤、苦労しながら覚えて行った。いまでこそ、なんで失敗したのか、理由も分かるようになったが。ド素人がこれが扱えるようになったのだから、先生の資格は十分にある。ほめすぎじゃないよ、足りないくらい!

通信講座でPhotoshopが理解できたから、アクさんは私がもう少しPCが出来ると思っていたらしい。ところが、なにか話すたびに「それなんのこと?知らない」が出てくるので、実際驚いたようだ。「mamasanってそんなことも知らなかったの?」アク先生にしてみれば、幼稚園生がよくぞPhotoshopを理解したと思っているのだろう。しかもそれを応用して無手勝流で仕事をしているからなおのことだ。
「mamasanは10しか知らないのに、その知識で15や20の仕事をこなしてしまうからたいしたもんだ」、とほめられた。
そうなんだ、自分の選挙のポスターはすべて手作りだったが、papasanの選挙のときはポスターもパンフも全部PCで作ってやった。しかも写真入である。応用力があるといえば聞こえがいいが、物怖じしないでよくぞやるものだと言ったほうが当たっている。

Photoshopといっても、私ができることは限られている。フィルムスキャンにポジをいれ、スキャンする。それをPhotoshop画面でレタッチし、MOにしまうことだけである。Photoshopの本は何冊も買ってきているのだが、読んでも理解できないことの方が多い。「1週間でPhotoshopをマスターする」なんて本はそのつど買っては練習しているが、すぐ忘れてしまう。それでも、若い人にも教わって、webにのせることも覚えた。ほんと私がwebで楽しめるのは、アクさんはじめ多くの人たちの指導の賜物である。とはいえ、まだまだしたいことはたくさんある。

ブログもアクさんに勧められて始めた。しかし、まだ要領が飲み込めないので、なれるために、一方的に書いているだけである。旅行記に写真を入れる方法も、教わったばかり。コメントの仕方も分からないでいたら、コメントしやすいように、さりげなく話題を持っていって、練習させてくれている。アク先生とはそういう人である。
このブログ、いちおう公開にはしてあるが、まだ練習中なので、ほんの少しの知人にしかおしえていない。

アクさんは科学者だが、ここで私が書くよりご自身の自己紹介をのぞいてみて。これもなんか方法があるみたいだけど、わからないので、アドレスを載せておきます。。
http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と日本酒

2004-08-16 09:03:45 | 日本酒

手元にいつも数冊の本が置いてある。英語とフランス語とイタリア語の辞書、植物、野鳥、クモの図鑑、地図帳、そして「吟醸酒への招待」という新書である。この新書は末尾に吟醸酒を生産している蔵元の名前と代表する銘柄があげられているので、これを見るためにである。

食糧難の時代に育ったからか、もともとそっちに興味があったのか、とにあれ食べることは好きである。道を間違えたのではないかと思うくらい、料理も好きだが、食品に関しては徹底的に追求する。チーズに興味を持てば、チーズを食べ歩くのはもちろん、原料、製造、あげくは自分でも作ってみるし、チーズを通しての歴史や文化まで手をひろげる。ワインもそうだ。ここ数年、日本酒、とくに地酒に凝っている。といっても日本酒に関してはまだまだトウシローである。

日本酒と言うイメージは私にはいいイメージはなかった。まず、酔っ払いのイメージがつきまとう。酔っ払ってクダをまく男どもの印象はすこぶる悪い。酒臭い息も迷惑だ。よっぱらいは大嫌いだった。品性が卑しいとも思っていた。この大嫌いな酔っ払いと日本酒がイコールだったのだ。
父は上等な酒、そのときはそう言っていたが今思うと、単に税金の高かったものに違いないが、それを茶箪笥にのせていた。食事の時にはそれを出してはたのしんでいた。父が酔っ払ったのを見たことがない。でも母の方が強かったようだ。
父は客が来ると、よくオールドパーを出していた。ウィスキーグラスと水を添えて。
中学生のとき、「お父さん、ウィスキーって美味しいもの?」と聞いたことがある。「美味しいよ」と父は答えた。そこであるとき、客も帰り人気のないことを幸いに、そこにあったウィスキーをなみなみとグラスに注ぎ、くっと飲んだ。のどが焼け付くように熱くなり、そのあとは覚えていない。それがトラウマとなって、その後アルコールを飲むことはなかった。ビールも一切飲まなかった。ビールは味がどうしても好きになれなかったのだ。

アルコールを口にしたのは、大学時代、父が貰ったシャトーもののフランスワインの白だった。一口飲んで、美味しいと思った。そのワインはだれにもやらずしまいこみ、ひとりで飲んでしまった。銘柄を書いて、丸善へそのワインを探しに行った。あるにはあった。しかし、1本6000円で、学生の身でそんなものはとても買えなかった。私のオーバーコートが6000円、熱海から東京までの定期券が1ケ月1700円の時代である。ワインは美味しいものだという味の記憶はちゃんと残った。そして高いものだという記憶も。

私は口に合わないものを無理して食べることはないと思っている。飲み物もそうだ。こと食べ物に関する限り、実に保守的である。イメージの悪い、美味くもない日本酒なんて、料理には使っても飲むことはなかった。
それが36歳で議員になっての正月の賀詞交換会で、もう故人になったが町長が酒をすすめた。「飲めません」と断ると「男みたいな口をきくのに酒も飲めないのか」と言った。今ならセクハラになるところだ。売り言葉に買い言葉「頂きましょう」と杯を出した。町長はなみなみと酒を注いだ。まわりは心配そうに見守っている。その杯を一気に飲み干した。美味いもまずいもない。ただ、食道が熱くなった程度である。いま思えば、ジェスチャーでも具合が悪いそぶりでもすればよかったのだが、私も気がはっていたのだろう。けろっとしていた。「飲めるじゃないか」、さすがにそれ以上無理強いはしなかったが、アルコール大丈夫と言う第一歩を記してしまった。以来、酒量は増え、いつしか私の前には銚子の数がならぶことになる。しかも絶対に乱れない。強い、との評判も。こういう契機だから飲めはしても日本酒に思い入れはなかったし、好きにもなれなかった。アルコールを飲むようになっても、もっぱらワインであった。ケーキを作るので、スピリッツやリキュールも30本以上はいつも置いてある。しかし、これを飲むことはない。

ところがここ数年、日本酒が美味しいと思うようになった。吟醸酒との出会いである。
香も飲み口もワインみたいなお酒、日本酒に対するイメージは一変した。一変すると、おもしろがって追求しはじめる。地酒の数は多い。はじめは酒好きに「何が美味しい?」と聞き、美味しいと言った酒を買ってきては、自分で飲んで試していた。だんだん好みがはっきりしてくる。

日本橋・高島屋の地下では毎週のように変わりばんこに蔵元から出張販売に来ている。担当のNさんはお酒には詳しい。それにすすめ上手だ。蔵元の人とも話しながら、あれこれ試飲させてもらって、気に入ったのを買ってくる。そんなことで、おなじみになった蔵も多い。

とはいえ、今の私は自分で作ったぐい飲みに1、2杯たしなむ程度。いつも冷蔵庫に何本か入れてあり、気分で飲み分けている。

この春、喜多方まで蔵元「大和川」をたずねて行った。喜多方にはあそこだけで9軒の蔵元がある。いろいろおそわった。たくさん飲んだ。米や麹や水だけでなく、蒸し方にも蔵の差が出るとも。会津若松でも飲んだ。その帰り国道121号線沿いにある田島町の二つの蔵元によった。開等男山と国権である。ここのも気に入っている。

先日、秋田へ行った。秋田の美味しい地酒、というと天功と刈穂を勧めてくれた。美味しかった。そこで蔵元の住所を書いてもらった。天功は飯田川町に、刈穂は神岡町にあった。しこたま買い込んできたのだが、気前よくみんなにやってしまったので、自分のがなくなってしまった。じゃぁ、正雪を買いに由比町まで行ってこよう。
道楽だと夫は言う。宝石を買うわけでもなし、ま、この程度の道楽は許されてもいいだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食物自給率

2004-08-15 09:51:21 | 日記・エッセイ・コラム
8月15日。敗戦記念日だ。昭和20年8月15日はじりじりと真夏の太陽が照りつける暑い日だったと聞くが、私には8月15日の記憶がない。幸い地方にいたので、空襲の怖さは知らずにすんだが、戦後の食糧難は記憶している。空腹感は忘れてしまってはいるものの、生きるために食べるのだ、と意識は基本になっている。

最近のトピックで日本の食物自給率が40%で先進国では最低だと言うのを見た。見た瞬間、日本の穀物自給率と間違えて、えっ、回復したの?と思ってしまった。私が勘違いしたのは穀物自給率のことである。こっちはもうとっくに30%をきっているはずだ。よくよく見ると食物自給率だった。しかもその中には飼料自給率は入っていない、飼料はほとんど輸入だから、これを加えるともっと自給率は下がるだろう。40%の自給率とは10人中4人分の食料しか自分の国で生産できないということである。恐ろしいことだ。しかし、この数字に日本人のどの程度が恐怖感を覚えるのだろうか。少ないに違いない。

店に行けばあふれるように食料は並んでいる。毎日の食卓は買ってくればことたりる。財布の中身さえゆるせば、世界のめずらしいもの、美味しいものをそろえることも出来る。今の状態が続く限り、自給率の低下も食糧不足も遠い問題だ。「買ってくればいい」たしかにそうだ。買えるうちはそれでいい。しかし、買えなくなることも、ありえないことではない。自然災害、戦争・・買えなく理由は多々考えられる。戦後の食糧不足を生きてきた人間には、あってはならないこと、だと思いながらも背筋を寒くしている。

他の国々の自給率を参考にしてみよう。世界の食物自給率はオーストラリアが300%前後、アメリカ250%前後、イギリス・ドイツ・インド・中国はかろうじて100%を維持している状態だ。この数字は、欧米諸国は、人間が生きていくのに不可欠な食料の生存基盤をきちんと確保した上で、経済拡大を図っていることを示している。
日本にはそれがない。日本の農業は衰退の一歩をたどっている。日本の農業を衰退させたのは、もちろん国の政策である。戦後、食糧不足をなんとかするため、食糧増産につとめていた。
簡単に言えば、食料は輸入に頼り、輸出のための工業生産に重点をおいた。このためには人手が必要だ。法律をつくり、農村から若い働き手を都会へ集めた。いわゆる「金の卵」と呼ばれた人たちだ。地方から出てきた働き手はふるさとへ帰ることはなかった。都市の一局集中化もここに起を発している。

ケニア旅行中、「日本の農業のゆくえ」という本を読んでいた。仲間にも読むように勧めたのだが、帰ってきてバッグから出したのは覚えているが、どこかへやってしまって見つからない。
ここに戦後の農業の経緯が載っているのだが、もう一冊買ってこよう。

1985年ごろから、私たちは食料問題を取り上げた作品を制作している。「現代の米騒動」から始まって、「豊かさの裏側」「食べる」と私たちの食卓をとおして世界を見てきた。その当時の日本の穀物自給率は34%であった。それが33%、30%と毎年のように下がり、とうとう30%を切ってしまった。同じくその年代の神奈川県の米の自給率は3日分しかなかった。あれからさらに田んぼはつぶされている。人口もふえている。1日分もあるのだろうか。

最近、スローライフという言葉が使われている。おなじくスローフードという言葉も。
外国で生産されたものはエネルギーを使って、遠くまで運ばなければならない。環境負荷にもつながる。

消費者運動を長くやっていて、つくづく思うのは農業を大事にしなければ、ということである。
農本主義といったらいいのだろうか。人間は生きるためには食べなければならない。食べられることが基本だが、食は食品として安全で美味しいものである必要もある。それが食の文化だろう。日本農業の危機は、日本の食文化の危機でもある。生活環境の危機でもある。そして、日本のそのものの危機でもある。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする