9月28日
朝までぐっすり眠ったらしい。目を覚ますと外は明るかった。朝風呂に出かけた人もいる。起きだして、不要になったものを全部段ボールに詰めた。ジャンパーも入れたかったが、まだ不安がるのでこれだけは残しておいた。残ったのはジャンパーとカメラとipadだけ。
庭をハクセキレイが歩いて行く。「ほら、ハクセキレイ」というと、みな「きれいですね」と見とれている。「セキレイは水辺にいるんです。真鶴でも見られますけどね」
静かで気持ちがいい。
9時お迎えが来た。大谷山荘、若いスタッフたちがきちんとしつけられていて、お客様に親切で居心地よかった。また来る機会があったらお世話になりますよ、と挨拶してホテルを出た。今日もいい天気だ。藤本さんも「みなさんの日頃の行いがよろしいのでしょう、お天気が続きですね」という。
車は田舎道を下っていく。山の上に何か施設がある。「あれな~に?」「石灰を掘っています。ベルトコンベアーで海岸近くまで運ばれています」「そういえば宇部セメントがありましたね」「宇部三菱セメントです。」
官庁街に入った。広い道に欅の街路樹が美しい。駐車場で車を降りると、山口県立美術館は地下道を渡って、反対側にあった。赤レンガの建物だ。
美術館は広い階段をのっぼっていく作り。どこかにスロープがあるのだろうが、ちらっと見ただけでは見つからない。バリアフリーじゃないね.
階段を上って入口まで行く、と、横に壊れた車につながれたゴミの塊のようなオブジェがある。何を意図しているものかわからないし、美しいとも思えない。
受付の右がミュージアムショップ、そして正面上が喫茶コーナーだが、喫茶はやっていないようだ。展示室は右手奥。
松田正平の小品が並んでいた。これは見ていてたのしかった。小品ながら油彩もいい。
続いてやや広いワンルームに香月泰男のシベリアシリーズの数点がかかっていた。今回は色を重点にしているとかで、日本海の青とか、業火の赤などが取り上げられていた。しかし展示されている作品は9点しかない。シベリアシリーズは57点あるはず。展示もタイトルがあるだけで、説明はない。
たとえば入り口近くにある「日本海」というタイトルの絵は、画面上に青、その青の上に白でイポーニア・モーリエとロシア語が描かれている。そして手前の黒い大地に横たわる白い骸骨。あのロシア語、キルリ文字が読める人は多くはないはず。「あのキリル文字はイポーニア・モーリエ、日本海と書いてあるんですよ。わかりますか、日本海の向こうは帰りたい、家族の待つ日本がある。帰りたくてもここで息絶えた人・・どんな思いでここの土になったか・・その思いを感じてください」と説明する。仲間がどこかに置かれていた作者の言葉という冊子をとってきてくれた。おそらくこれは展覧会の時のキャプションから抜粋したものだろう。それにしても香月のシベリアシリーズに込められた思いはこの展示では伝わらないのではないか。香月の思いを十分受け止めている私だって、肩透かしをくらった感じだ。はるばるシベリアシリーズに会いたくてやってきたファンは、がっかりした。
ここはアンセル・アダムスのオリジナルプリントも所蔵しているんだが、今回はその展示もない。県立美術館だからと思ってきたんだが、山口の文化程度を邪推してしまいそうだ。ここでゆっくり時間をかけるつもりだったが早々に出た。期待はずれだ、消化不良だ、とぶすぶす言っている。
山口県立美術館:http://www.yma-web.jp/
瑠璃光寺の五重塔:五重塔は国宝、建造は室町時代。大内文化の最高傑作と言われている。来たことがない人がいたので、ここを選んだのだが、存外喜ばれた。文化財を見るたびに、よくぞ建ててくれた、よくぞ残しておいてくれた、とつくずく思う。
瑠璃光寺:http://www.oidemase.or.jp/tsuredure/yamaguchi/rurikouji.html
公園を歩いていると、「この木なんの木?」と書かれた看板に気がついた。矢印の方に進むと、サルスベリの枝が分かれている間から松が育っているのが見えた。宿り木が大きくなっちゃったんだ。そう、もう数十年前になるが、この地を訪れた時、毛利家の墓所の境内で「アミガサダケ」がいっぱい生えているのを見つけた。アミガサダケなんて私には珍しいから他のことはそっちのけで、大喜びをして見ていたが、どこだったんだろう。
瑠璃光寺の境内から、遠くに藁ぶき屋根が見える。雪舟の雲谷庵だという。雪舟は備中の生まれだが、大内氏の庇護を受けていたので、この地方には残っているものが多い、死んだのは益田と聞いている。山口には雪舟が設計した庭園があるのだが、お寺の式典の都合で、この日は公開されていなかった。さて、その雲谷庵に行った。再現されたものなので、無人である。雪舟の流れをくむ画家たちを雲谷派というが、この雲谷庵に由来している。
中原中也の記念館。彼がここの出とは知らなかったな。中原中也もまた暗記している詩人のひとりである。彼の詩がかくべつ好きなわけではないが、独特のリズムがあるので覚えやすいのだ。そのせいか彼の詩には曲がつけられているものが多い。展示は友人との書簡の往来が主体だった。はがきに書かれた細かな文字は読むのがしんどい。
中原中也記念館:
http://www.chuyakan.jp/00top/01main.html
車が駐車場に止まった。「「ここは?」「豆子郎の本店です」そうなんだ、豆子郎の本店に連れて行ってくれと頼んでおいたのだった。店に入ると豆茶と小豆外郎のサービスがあった。
以前、瑠璃光寺を訪れた時、近くのお店で「試食をどうぞ」と外郎が差し出された。「これな~に?」「外郎です」「なんで山口が外郎なの?」当時はまだ外郎は名古屋の名物だと思っていたのだ。しかし試食すると名古屋の外郎とは違って、さっぱりしていて、美味しかった。「あら、美味しい」これが山口外郎との出会いであった。その外郎はたぶん御堀堂のものではなかったろうか。だから今度も山口外郎を土産に買ってきてあげる、と宣言していたのだった。
豆子郎の名前の由来は面白い。素人の「トーシロー」をもじったものだ。
豆子郎:http://www.toushirou.info/
小田原にも外郎はある。「外郎」さんというのは名字である。頼めば、小田原外郎で蔵を案内してくれる。その時聞いた話だと、外郎の発生はもともと京都だった、というのは外郎家は宮中に薬剤師として仕えていたらしい。今でも小田原外郎では「ういろう」という薬を売っている。宮中での折、もてなしの菓子を依頼されて、餡に餅子を入れて作ったのがういろうだった。小田原の外郎さんは京都の分家だそうだ。
そのとき、「どうして日本中に外郎があるのですか?」と質問した。すると外郎さんは「当時、京都には日本国中から職人が集まって働いていました。その人たちが国に帰り、それぞれのういろうを作り上げたのでしょう」ということだった。なるほど、身近にある材料を生かしての努力の結果が地方の外郎というわけなのだろう。数あるういろうの中で、小田原の外郎は元祖と言った感じで好きだが、次を選ぶとなれば、私は山口を選ぶだろう。山口のは米粉の代わりにワラビ粉を使っている。もっとも今ワラビ粉の入手は困難だろう。
外郎は生のも真空パックのも買い込んだが、菓子好きの野次馬は一つ一つ物色している。と「大内菱」というのを見つけた。桃山らしいが、中の餡に白小豆を使っていると書いてある。「白小豆」のことは知っている。栽培が難しいので、収穫量が少ないことも。「ねぇ、これ試食できない?」と言ったが、売り子さんは仲間たちの応対で忙しい。じゃ~味見に新幹線の中で食べようと、人数分買った。うしろの喫茶室に行くと、広々としていて感じがいい。「仲間がね、店先でお茶を頂こうと言っていたけど、こっちの方がいいから連れてきて」とお姉さんに頼んだ。
藤本さんが陳列棚をさして、ここにやきものもあります、と教えてくれた。色絵の大皿が飾ってある。発色はあまり美しいとは思わなかったが、伊万里かなと思ったら、萬壽焼と書いてある。隣の大皿は須佐焼、これも色絵だ。どちらも陶器だ。へ~、こんなやきもの初めて。
白玉ぜんざいをとった。甘みを抑えていて美味しい。運転手さんが「西のお菓子はいかがですか」という。「お菓子もお料理も西にはかないません。関東は直接的ですから。でも、寿司は絶対江戸前、関東ですよ」というと、「お蕎麦もね」と誰かが言った。「うん、でも、そばは出雲そばがありますよ。でも切りそばとつけ汁は江戸のもののようだけど」
白狐 が見つけた温泉というかわいい狐の絵の湯田温泉の案内板があった。あれ、白狐の見つけた温泉、以前泊ったことがある。その時おかみさんが、白狐の伝説を説明し、今は白化粧した狐に気をつけて、と冗談を言ったのを思い出した。他と間違えていたがここだったんだ。
新山口駅、ふり出しに戻った。売店は左がかまぼこやさん、右が外郎、と藤本さんが教えてくれた。3日間、ありがとうございました。藤本さんのおかげでたのしい旅ができました、と礼を言って別れた。
新幹線は、名古屋と熱海で乗り換えるだけだ。たのしかったね、来年はどこにしよう?