吉浜に洋菓子研究家の今田美奈子さんが経営するレストランがある。今田さんは子どものころ湯河原に住んでいた。そのことはずっと後になるまで知らなかったが、私は彼女の本を買ってはケーキを作っていた。テレビでの指導もみていた。飯田深雪さん、大谷直吉さん、今田美奈子さん、そのほかにも多くの料理研究家のお世話になった。私はケーキが好きである。食糧難の戦中戦後に育ったからか、料理も好きだが特にケーキは食べるのも作るのも好きである。好きだから作るのも得意である。
7月の末、ミニコミ紙でこのレストラン「銀河館」のことを知った。そして建物もコンドルの設計であることも知った。コンドルは鹿鳴館やニコライ堂の設計者として有名な建築家である。政府のおかかえ外人として来日したひとりである。イギリス人だから本来ならコンダーと発音した方がいいのかもしれない。
納戸のドアに
そこでさっそく食事に行った。当然コンドルの設計にも関心があった。
Papasanは学生時代今田邸を訪れたことがあるという。そこでかつての今田邸に行ってみたがレストランはそこではなく、吉浜の方だった。吉浜のこの建物は覚えがある。この建物は通りに面しているので通るたびに目にしていたが、長方形の3階建てで、取り立てて美しいという印象ではなかった。蔦が絡まり、荒れ果てていた。3階の窓も壊れていたように思う。Papasanに「あの建物はなんだったの?」と聞いても旧村役場だとか、警察署だったかと曖昧だった。そこだったのである。
館内は昔の洋館らしくダークブラウンの木材で統一された落ち着いた室内の雰囲気は素敵だった。ドアが大きいのが印象的だった。
娘が来たので「今田美奈子さん、覚えている?」と聞いてみた。「ケーキの先生ね」と覚えていた。そこで吉浜のレストラン銀河館へつれて行った。食事が終わると今田さんの妹さんなのだろうか、館内を案内してくれた。一階はレストラン、2階は多目的でセッティングやマナーの教室、パーティにも貸し出すそうだ。部屋からバルコニーになっていて、ガラス窓から海が見える。3階は和室。花火見物に最適だそうだ。
もともとこの建築物は東京にあった公家さんの建築物を今田さんのお父さんが買い取り、別荘用にここに移築したのだそうだ。昭和元年、資材は船で移送した。ここに移築されてから80年経っていることになる。 東京では博物館に使われていたので、ドアが大きくて広いのだという。この大きくて広いドアがなんともいい雰囲気をかもし出している。収納庫の扉のかんぬきは今ではめったにお目にかかることのない細工だ。扉の両面にデフォルメしてあるが、大きな松の彫り物がある。こんなところにこんなドアを使うのはもったいないくらいだ。
チョコレート色の階段の手すりには飾りがついている。こういうのがコンドルの特徴だそうだ。
空気入れの小窓
壁のあちこちにほんの小さな、そう20cmくらいのドアがついている。金具をはずし開けてみると、空気入れの窓だった。
今田さんは「古いばかりで」と謙遜するが、こんな潮風の強いところで時間をかけて長い間じっとしていた建築物の素敵さは簡単には出ないだろう。なんか博物館を訪れたようなたのしさだった。
歴史を感じます
コンドル Josiah Conder 1852~1920
建築家。名前は本来コンダーと発音するが、日本ではコンドル、コンデルと称された。ロンドンに生まれ、ロンドン大学などで建築をまなび、ゴシック・リバイバル建築の大家バージェスに師事。1876年(明治9)には、イギリス王立建築家協会のソーン賞設計競技で入賞をはたした。
1877年に来日して工部大学校教師に就任し、彼のもとからは、辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊など明治期を代表する近代建築家を輩出する。単なるイギリス建築の移入ではなく、日本人の伝統と生活を尊重した近代建築を提唱し、東京帝室博物館(1882、現存せず)、鹿鳴館(1883、現存せず)、ニコライ堂(1891)などの設計を手がけた。88年(明治21)、官を辞して建築事務所を開設。以後帰国することなく、河鍋暁斎に入門するなど日本文化を愛好しつづけ、日本人の夫人とともに終生日本でくらした。
◇コンドル設計の邸宅で公開されているのは三重県桑名市の六華園http://kanko.city.kuwana.mie.jp/pickup/rokkaen/index.html
窓の外は建物といっしょに80年を生きた桑の木
木々が潮風から建物を守ったのではないかと今田さんは言う。