Cogito

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

徳田八十吉展

2011-08-26 15:38:46 | アート・文化

熱海のMOA美術館で開催されている三代徳田八十吉展を見に行ってきた。会期は長かったのだが、近くだといつでも行けるからと、やれ雨だ、暑いの、寒いの、と言ってなかなか腰を上げない。そうこうしているうちに行きそびれてしまうことが多い。週間予報を見ると、今日は晴れ、そしてまた雨が続く予報。思い切って出かけてきた。

久しぶりに町外へ出た。吉浜の海水浴場は海水浴客の姿もなく、波は静かに砂浜をぬらしていた。きれいだった。ほんと、久しぶりの外出、と笑っている。仲道を通っていく。こっちはもっとお久しぶりだ。

確認でMOA美術館のHPを見たら、ネット割引があった。1600円のところ、プリントしていくと1400円だというのである。アイスクリーム代が出る、と2枚プリントして持っていった。でも高齢者割引で1200円だったので、これは役には立たなかった。「高齢者割り引きなんて、なかったよね」と係りに言うと、新しく出来たのだという。そうだよね、いつも1600円払っていたもの。3階からエレベーターで2階に降り、メインロビーを歩いていくと、いつも信楽の大甕が置いてあるところに紅白梅図屏風がおいてあった。あら~、紅白梅の図だ。え~、こんな明るいところのおいていいの?いつも奥の部屋でみるから、落ち着いているけど、明るいところで見ると、金箔が光って見えるよ、胡粉の白も浮いている、情緒がない、なんてごちょごちょ言っている。近くへ寄ってみると、「複製」と書いてあった。やっぱりね。

                                                         

今日から、同時展示は茶道具展。見ごたえがあった。長次郎の楽茶碗「あやめ」もあった。茶道具展を見だけでも十分堪能できる。一番奥の部屋は彫刻。なつかしい、聖徳太子の像が迎えてくれた。この美術館に通い始めた高校生のころから、この聖徳太子の像に迎えられていたのだ。当時はまだこんな立派な美術館ではなく、ホールの片隅に作られた展示場だった。熱海美術館と言っていたように思う。それからもういちど移り、そしてこの建物が出来て、MOA美術館になった。

                                                         

徳田八十吉展は初代、二代の作品もあり、初代が三代を陶芸家にすべく、すべて本物を見せて英才教育したが、三代は伝統的な九谷焼が嫌いで、なかなか打ち込めなかったそうだ。そういう紆余曲折があったからこそ、独自の、といっても九谷の伝統的な手法を発展させて、三代のあのグラデーションの世界を確立したのだろう。初代は九谷焼の釉薬の研究に力を注いでいたそうだ。その受け継いだ釉薬をさらに増やし、多くの色彩を生み出した。磁器の表面を丹念に磨きあげ、ピンホールを埋め、さらに磨き、計算した設計に基づいて、丹念に色づけし、何度も焼く、しかも温度を変えて。それによってさらに表現はふくらむ。透明色のガラス釉に貫入が入り、光を反射するので、すこぶる美しい。色彩の中に吸い込まれるような気がする。

三代も亡くなり、今は娘さんが四代をついでいるようだ。四代の作品はまだ見たことがない。

パンフをここに載せようと思ったのだが、パンフの写真は透明感がないから、美しくない。で、割愛。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気温が一変2

2011-08-24 18:17:14 | インポート

今度は暑くなった。

そして豪雨。

腰が痛い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気温が一変

2011-08-20 21:10:00 | 日記・エッセイ・コラム

茹だるような暑さは昨日の午後から一変した。雨が降り始めて、恵みの雨だと喜んだら、ごろごろさんまで加わってにぎやか。大気が不安定なんだろう。雨が降ると、涼しくなったが、度を越して寒いくらいだ。シャツを着込み、靴下をはいた。

                                                                                                                                                          

今日も涼しい。開けっ放しだった窓は閉めてある。昼間つくつくほうしの声を聞いた。つくつくほうしの声を聞くと、秋を感じる。そしてミンミンのラッパがうら寂しく感じる。

                                                                                                                                                          

台所にハエがいる。気になるねぇ、と言いながらハエたたきを手にして軽くたたく。クモにやるためだ。ピンセットでイエオニグモにやっているのを見て、Papasanが「家のクモは幸せだ。よそ家だったら殺されちゃうよ」という。「いやいや、私たちのほうが幸せなんだよ。害虫をたくさんとってくれているんだから。殺しちゃう人間の方が損をしているんだよ」

                                                                                                                                                               

ピコが死んだ。朝、私の傍でロールパンをちぎってもらい、チーズもペンタと競って食べていた。具合が悪いそぶりはぜんぜん見えなかった。夕方、ピコは黙っていても自分のケージに入るのだが、いない。そこで「ピコ!ピコ!」と名を呼びながら、探した。下に行く坂に白い丸いものが見える。で、行ってみると、ピコが顔を隠すようにして死んでいた。なんか悪いものでも食べたかな。ずっしりと重い。Papasanに埋めてもらった。ピコは4歳ぐらいだから、そんな年ではないはずだが。でも、この姉妹はシロ、ブチ、共に短命だ。改良に改良を重ねて卵を産むために作り上げられた鶏の子孫だからかねぇ。ほんと、卵を孵すことも出来ない。3歳のアルファ、ペンタが年長になった。もっとも最年長としてはチャボのオバサンがいるのだけど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「息吹き」

2011-08-16 19:43:32 | 日記・エッセイ・コラム

P1010532_2                              

Nさんから茅ヶ崎の社会教育を考える会の会報「息吹き}を送っていただいた。

先月のことだ、Nさんから「息吹き」に昨年私がブログに書いた、海で遊んでいたときに機銃掃射を受けた経験談を載せてもいいかという手紙を頂いた。もちろん、快諾した。その会報が出来たので送ってくださったのである。

                                                          

「息吹き」305号の特集は「私の8月15日」。さっそく読ませていただいた。

はじめは「父の戦争」 筆者の父上がなくなる2ケ月前、病室で聞き書きしたのだそうだ。それにしても父上の記憶は確かだ。忘れられない記憶だからだろう。

中国戦線、そして南方戦線に送られた。最後はラバウル。ご苦労なさったのだ。戦争には、人の数だけの思い出がある。ましてや命令で徴兵され、戦わされた人たちは言うに言われぬ辛い思い出がある。

父上の行軍の地名を読みながらいろんなことが思い出される。

                                                         

よく家に来ていたお兄さんはガダルカナルで戦死した。帰ってきた白木の箱を開けると一枚の紙切れと封筒に砂が入っていた。地図を広げて、一生懸命ガダルカナルを探した。ガダルカナルはソロモン諸島にあった。お兄さんはガダルカナルの土になったのだろうか。テレビで見たのだが、ニューギニア島には未だ野ざらしにされている日本兵の骨がある。それにしてもよくぞあんな遠くまで行ったものだ。今は木材がソロモン諸島からやってきてはいるが。

                                                         

知人の息子さんから手紙が来た。末尾に「安田さんによろしく。満ちゃんによろしく」と書いてあった。安田さんも、みっちゃんも、知り合いがない。もしかして暗号かもと、親たちが 知恵を絞った。そして安田、満、アンダマンではないか。きっとアンダマン諸島のどこかにいるんだろうということになった。で、またアンダマン諸島を地図で捜した。

よく口ずさんでいた「さらばラバウルよ・・」のラバウル、これも見つけた。

もちろん、今私が持っているようないい地図ではなかったが、それでも小学生の時から、地図を眺めていたので、未だに地理は好きである。

                                                                                                                                                             

もうひとつ、小柄な可愛い顔をした老婦人と知り合いになった。と言ってもどこにお住まいだか知らなかった。私はまだ50代だったと思う。気を許してくれたのかいろんな話をした。戦時中の話になったとき、彼女が、島の名前は言わなかったが、南方のある島から、急遽撤退することになり、潜水艦に乗って逃げた、と話した。一般人が潜水艦に乗って逃げた、という言葉に緊迫した空気が伝わってきた。「どうしてそんなところにいらしたんですか」と聞くと、彼女はじっと私の目を見て、「わかるでしょう?」と言った。私ははっとして、それ以上、尋ねることができなかった。もちろん慰安婦のことはよくよく読んでいた。戦後すぐ、熱海だから、海兵隊が何のために上陸したかも知っていた。

                                

父は徴兵を受けるには年を取っていた。兄は少し若すぎた。だから直接戦争の惨禍に巻き込まれることはなかったが、ちょっとした時間のずれで、私だって、家族だって同じ運命を余儀なくされていたかもしれない。

                                                                                                                                                            

Nさんの「東日本大震災 瓦礫の被災地をめぐって」まで読んだ。

今の私は災害地までは行けない。震災後、やっとボランティアが入れるようになったとき、若い知人が被災地に入った。実際はテレビで見る惨状なんてものじゃない、テレビや映像は一方向だけど、あの惨状が360°広がって続いているのだから、と報告を受けた。今日からだったか、和美さんも絵本を呼びかけた彼女といっしょに岩手県山田町に入る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敗戦記念日

2011-08-15 21:06:47 | 日記・エッセイ・コラム

66回目の敗戦記念日。8月は鎮魂と平和を誓う月だ。一人静かに黙祷。

66年経って、えっと思うようなニュースが現れる。軍部は新型爆弾、いわゆる原爆をアメリカが投下するという情報は知っていた、がそんなこと脅かしだと退けたのだという。軍部の体質、今の東電の体質とよく似ている。そう、東電も福島原発1号炉、マーク1の危険性はアメリカが十数年も前に指摘していたにもかかわらず、無視していた。曰く、何百年に一回のマグニチュード9なんて地震が起こるとは思わなかった、想定外だった、と。原発事故はまさに人災。かつての役員たちも、責任取れ!だ。

                                                          

たまたまNHKのアメリカから見た原発事故を見た。もともと原子力開発は軍事目的だった。それはよく知っている。その結果、日本に2個の原爆が落とされたわけだ。人が被害を受けた放射能の歴史は高々100年程度と言ってもいいだろう。人体や環境に与える影響、時間の経過と共にどうなるのか、など、まだ分かっていないことが多いはず。                   

アイゼンハワーが原子力の平和利用を打ち出し、実験用原子力発電所が運転開始をすると、まだその検証もされない2年後には日本がGEに頼んで原発を導入した。日本には技術者もいなかったので、技術指導もしてくれという条件つきだった。原子炉のああいう形も、経済性、簡易性を考慮した結果だそうだ。

その後、安全性の調査で、事故を起こした福島の原子炉、マークワンは電気が止まると、何時間後にはどういう結果になるといった、こと細かいシュミレーションが出来た、福島の原発事故で、そのシュミレーションを裏付けるように、まさにその通り起こっている。その調査には、スリーマイル島の原発事故の教訓も生かされている。と言ってもアメリカにも、技術者の体質は「臭いものにはふた」の体質はある。そして多くの分からない人たちは、安全だといった安易な報告を無責任に信じる。スリーマイル島の事故があって、やっと、その安全神話が打ち砕かれたのだ。これもまた日本も同じ。                                            

                                                             

原発継続是か非かの国民投票案が国会に提出されているという。どういう狙いか分からないが、脱原発は願ってもないことだが、それ以前に、国民に正しい原子力の知識を伝えてほしい。マスコミや避難民の話を聞いていると、無知ぶりにあきれる。知らないということはいいわけにはならない。命に関することは学習してほしい。原子力関連施設のある自治体で、毎年原発の安全だ、安全だというプロパガンダは行われていたが、住民にとって、万が一の事故にどう対応すべきかは教えられていない。人体にどう影響するか、農作物がどうなるのか、家畜同様人間だって汚染されているんだ、海も空も大地もどう汚染され、いつまでそれが続くのか、そういうことをきちんと説明してほしい。それと原発が安い電力だという神話もきちんと説明してほしい。原発に群がる金の流れも。この金の流れを解明すれば神話は崩れる。為政者としては無知な国民の方が扱いやすいとは思うけど。

                                                          

もうひとつ、ええっと思う情報。アメリカ軍が、北谷町の海岸にオレンジ剤、いわゆる枯葉剤、ダイオキシンの入ったドラム缶を多量に埋めたというもの。アメリカ兵によって明らかにされた。基地は治外法権。米兵たちはかつてヴェトナムで撒いた枯葉剤の影響で、後遺症に苦しんだり、子どもたちに奇形が生まれ、政府に補償を求めて争っている。沖縄でも運搬中に同じように枯葉剤を浴びた。そこで被害が出た、ということから、こういう証言が出てきたらしい。とはいえ、沖縄にとっては由々しき問題。これは何とか明らかにして、対策を考えてもらいたい。このニュースを読んでぞっとした。

                                                          

参考:毎日新聞から

原発や関連施設が立地する道県や市町村、周辺自治体に対し、交付金や税金の形で国や電力会社からもたらされた「原発マネー」の総額は、原発が営業運転を始めた66年以降、少なくとも2兆5000億円に上ることが毎日新聞のまとめで分かった。原発関連の固定資産税や寄付を公表しない自治体も多く、実際にはさらに巨額になることが確実だ。原発の今後を考える際に原発マネーの扱いは避けて通れない課題となりそうだ。

【原発マネーに頼る自治体】極限の行政:東日本大震災 選挙編/下 歳入の65%占める宮城・女川町

 経済産業省資源エネルギー庁の資料や自治体への取材などからまとめた。原発マネーの中心は74年成立の電源3法に基づく交付金と、原発などの施設に市町村が課税する固定資産税で、それぞれ約9000億円。原発を抱える全13道県が電力会社から徴収する核燃料税も6700億円に上る。電力会社からの寄付も、把握分だけで530億円あった。

 標準的な行政に必要な財源のうち独自の収入で賄える割合を示す「財政力指数」で見ると、立地自治体の豊かさが目立つ。総務省によると、財政力指数の全国平均は0.55(09年度決算)で、町村では0.1台の所も多い。原発立地21市町村への取材では、過半数の11自治体が1を超え、他も1に近い所が大半だ。

 原発マネーはインフラや公共施設の整備に使われてきたほか、近年は福祉や教育など住民生活に密着した分野にも活用が進む。北海道泊村が財源の5割を依存するなど、どの立地自治体も原発マネーへ強く依存している。「脱原発」を進める場合、財源を失う自治体が甚大な影響を受けるのは必至の状況だ。【まとめ・日下部聡】

                                                         

                                                          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする