Cogito

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あわあわ石けん

2005-11-30 23:32:14 | 日記・エッセイ・コラム
テレビをつけっぱなしにしていたら、「おしゃれ工房」が始まった。ほとんど見ることはない番組だが、大掃除なんてテーマだったので、耳だけ向けていた。
「大掃除にいろんな洗剤が出ていますが」という問いに「私は石けんだけで全部します」という答え。石けんと言う言葉に反応して、顔をテレビの画面に向ける。赤星たみこ(漫画家)というテロップが見えた。その後は合成洗剤と間違えないように石けんの見分け方なんて説明をしていたので、また耳だけ聞いていた。

油汚れには石けんが一番と言って、換気扇のお掃除をしていた。換気扇は私も粉石けんを溶かした石けん液で洗っている。きれいに落ちる。うん、うん。するととろとろ石けんと言う言葉でが出た。とろとろ石けんとは粉石けんを湯で溶いて、とろとろにしたものを容器に入れ、常備しておくと便利と言うものだった。

私は合成洗剤は使わない。洗濯も台所もシャンプーも石けん使用の物を使っている。合成洗剤を使うと皮膚障害を起こすのである。面の皮は厚いのだが、皮膚は繊細らしく、すぐかぶれる。下着も綿、オンリー。夏には絹も使うがほとんど綿である。セーターはウール100%だが、じかに首に当たるとかぶれるので、下に綿のブラウスを着込んでいる。温かいが、ハイネックは着られないのである。

次が「あわあわ石けん」 石けんをメレンゲのように泡立てて、網戸に塗っていた。それをふき取るだけできれいになっている。便器も泡をたっぷり入れて、一晩置いておき、朝流せばそれできれいになっている、と。
さっそく淡淡石けんを作って、いろんな汚れ物につけてみた。犬の鼻がつくガラス戸は真っ白な泡が茶色くなって流れた。うん、なるほど、きれいになった。トイレの便器はまだ試してないが、これはおもしろい。掃除は嫌いだが、実験は好きだ。

石けんだけなら、こぼれても安全だし、手あれもない。
今日は生活学校の集まり。こんなテレビを見たよ、と話すと、若い人がさっそく11月号のテキストを買ってきてくれた。へ~、「今からはじめるカンタン大掃除」というタイトルだった。これからそれを読む。

とろとろ石けんの作り方 (NHK「おしゃれ百科11月号テキストより)

○洗濯用粉石けん  約100m? (小さめのコップ1杯分)
○ぬるま湯       500m?
○容器         ボウル 、プラスチック容器など
○スプーン
注:合成洗剤はお湯で溶いても泡立つだけなので 注意。

1:粉石けんを容器に入れ、ぬるま湯で少しずつ加えながら、だまができないようにスプーンでよくかき混ぜる。
2:とろとろになったら完成。とろみは好みでよい。ゆるゆるの液状やゼリー状になっても使える。簡単な掃除や食器荒いならこの量で2~3週間もつ。

あわあわ石けんの作り方
網戸用の薄めのもの。油汚れがある場合は、もう少し濃い目にT

○洗濯用粉石けん 小さじ半分(濃い目の場合は小さじ1)
○水 700m? 
○」ハンドミキサーで細かな泡ができるまでこんもりと泡立てる。ボールの泡は何回も泡立てなおすことができる。

この泡を網戸にぬり、泡がすべて流れたら雑巾で拭くだけ。下に雑巾を敷いておく。

トイレ 網戸よりやや濃い目のあわあわ石けんを便器の内側にこんもり盛る。ふちにも塗っておく。上まで泡を盛ったら、1時間ほどそのままにしておく。泡が消えたら、水を流して完了。寝る前におこなって朝までそのままにしておいてもOK。

◇私はとろとろ石けんはそれほど必要としない。というのは固形のマルセル石けんを切って、網袋にいれ蛇口につるしてあるからだ。適当に水がかかるので、表面が溶けた状態になっている。あぶら汚れはこれで洗う。洗濯用石けんは最近は香料が添加されているものもあるが、マルセルは無香料だから、香料の嫌いな私にはこっちの方がいい。

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気持ちですね

2005-11-29 20:27:31 | 
外出から帰ってくると、宅配の不在連絡表が郵便受けに入っていた。小玉醸造さまからとある。小玉醸造は私のお気に入りの日本酒「天功」の醸造元である。秋田県、今度合併して潟上市となったが飯田川にあり、男鹿に行ったついでに、訪ねて行ったことがる。お届け品は味噌となっている。小玉醸造は日本酒と平行して「ヤマキュウ」という商標で味噌やしょうゆも醸造している。味噌もここのを使っている。でもお味噌は先月買ったし、注文していないんだけど、と半信半疑で再配達されるもを待っていた。届いたのはお味噌。しかしそれは蔵元からのお歳暮だったのだ。これにはびっくり。さらに同封されていた手紙を見て、う~ん、と感心してしまった。小玉醸造との付き合いはまだ1年半くらいにしかないが、お酒は贔屓にし購入している。

このお味噌は今年度の秋田県味噌品評会出品用醸した味噌で、品評会用に原料を吟味、仕込みにこだわり、小さな桶で職人が手作りしたもの。少量なので販売することができず、お送りさせていただいた、と次第書きが入っていた。

物がほしいわけではないが、お得意さんを大事にするこういう心遣いは感じ入る。うん、これからも愛用させてもらいますよ。


気持ちと言えば、ずいぶん前になるが、紀州を旅したことがある。そのとき鳥羽で鳥羽国際観光ホテルに泊まった。フリの客だった。それからずっと、鳥羽国際観光ホテルのご案内が年に2度ほど届くようになった。何年続いているのだろうか。それ以来、鳥羽に行く機会がなく、行きそびれているが、案内を手にするたびに、鳥羽、いや鳥羽のみならず近くに行ったら、絶対ここに泊まろうと思っている。

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かぽ物語4

2005-11-27 13:57:11 | 動物記
かぽたちは毎日やってきている。もちろん真っ黒カラスはどれがもともとのかぽだか、子どもたちだか見分けはつかない。シフォンを投げてやるとすぐに取りに来るのが親のかぽだと思っていたが、それすら区別がつかなくなってしまった。
要するに庭に来るカラスはみんなかぽである。

ここのところかぽの振る舞いがおもしろい。

シフォンを投げてやると、下を覗き込んで、下にネコがいると、シフォンをひとかけ下に落とすのだ。はじめは取り損なって落としたのかと思っていたが、わざと下に落とすみたいだ。時たまネコがそれを食べていることがある。友情の印なのかも。

洗濯をしているとすぐ近くまでやってきて、かぽかぽと鳴く。てっきりシフォンがほしいのかと持ってきて屋根に投げたやるが、取りに行かないことが何回もあった。かぽじゃなかったのかと思っていたら、どうもかぽは餌がほしいから近寄ってきたのではなく、遊んでほしいようだ。それもネコにである。

ネコのチャドがサクラの木に上っていた。するとかぽが近くまでやってきた。ネコのいるすぐ近くの枝に止まろうとして、枝が細すぎたので滑ってしまった。ここのところやたらと家をのぞいているのはネコを探しているようだ。かぽかぽと呼んでいるのもネコをよんでいるのかも。

カラスは利口だから、もうネコの名前や犬の名前を覚えているのかも。私がネコを呼ぶのを聞きつけているのかもしれない。

ネコとカラスのお付き合い、こりゃ面白そうだ。でもビデオの方が記録にはいいだろうな。ビデオは持っていない。簡単なのを一つ買うか。だんだん余計なものが増えちゃうな。



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南の島へ

2005-11-22 01:00:21 | 国内の旅
23
南の島へ

「南」という漢字は好きではないが、「南」という響きにはなにかわくわくするような感じを受ける。体の中に流れる血の半分に南の血が流れている所以だろう。とはいえ、人生のほとんど全部を温帯で過ごしているから、暑さは苦手だ。それでもこの時期、北へ行くよりははるかにうれしい。

私の血の半分、父は鹿児島県、母は静岡県の産である。そして私たちが生まれたのは静岡県は熱海。両親の墓は熱海にある。母が亡くなって10年になる。そこで姉妹と沖永良部に祖先の墓参りをかね、沖永良部にいる従姉妹に会ってこようということになった。三姉妹と連れ合いや子ども、孫を合わせて総勢7人の旅となった。

羽田発9時半の鹿児島行きだ。私は早起きが苦手。宵っ張りならいくらでもつき合えるけど、早起きとなると。でも、今回は前泊するわけにも行かないし、仕方がない、なんとか努力しよう。

5時に起こされた。6時前に家をでた。6時14分発。電車はお見合い車両だ。山側に座って相模湾にのぼる日の出を見ていく。まだ輝かない真っ赤な日輪が海の上に昇っていく。海は穏やかな銀色で、まさに日本画の世界だ。早起きしたご褒美だ、と喜んでいる。やがて日は輝き始める。朝日って本当に美しい。しかし車両は、下から暖房が出ているとはいえ、まだ空いているので温まらないのか、寒い。

ラッシュで新橋で下りれるかどうか心配した。幸いなことに日頃ラッシュなんて体験することがない。強引に人ごみにもぐりこんで外に出る。そして浜松町までまたラッシュ。通勤に混じってどうやらモノレールに乗る。ここからはずいぶんとラクになった。
8時半過ぎに到着。チェックインを始めると他の一行が、8時前にはみな着いていたと言って合流した。姪の息子の3歳のS君に始めて会う。かわいい子だ。

peninsula-manazuru
真鶴岬

右窓際に座る。飛行機から、真鶴岬がよく見えた。浜名湖あたりからだんだん雲が出てきて下界は見えなくなった。
鹿児島から沖永良部へ。32人乗りの小さなプロペラ機。以前はYS11だったと思うんだが。沖永良部まで1時間20分かかった。

こんな折だから、ざっと沖永良部を紹介してみよう。
沖永良部島は鹿児島県大島郡。鹿児島から南西諸島まで飛び石状につながる島々の中間あたりにある。鹿児島県としては最後が与論島、その手前が沖永良部島。与論島の向こうは沖縄本島である。
島の地形は頂点の長い二等辺三角形に似ている。最高の山は245m、平べったい、面積94.5平方キロの島である。ハブはいない。気候は多湿・亜熱帯性で、夏から秋にかけては台風銀座となる。

歴史的には小さな島なので、人口もさしたることもなく、支配権者が出現することはなかったし、鹿児島や沖縄の支配にも対抗する力もなかった。
沖永良部島のみならず、奄美の古代史は資料も少なく、解明されていないことが多い。島の先祖たちがいつごろ、どこから来てどういう暮らしをしていたかもまだわかっていない。
 
沖永良部島には和泊町と知名町の二つの町がある。和泊の町史を以前買って来たので、それでみると、沖縄・北山の一員である世の主が島の主になったのは1395年。そして1416年に北山が滅亡し、琉球を統一した尚氏に支配を受けることになる。琉球史では村落共同協力社会が崩壊して、支配・被支配に交代していくことになる。1609年には鹿児島・薩摩藩が琉球をくだし、奄美大島諸島を直轄地とする。薩摩藩の支配は琉球及び諸島にとっては搾取そのもの。特に砂糖地獄はすごすぎる。

島に自生するユリの栽培を始めたのは1909年(明治40年)、太平洋戦争の時、ユリは日本軍から廃棄処分という迫害を受けた、が、島のリーダーが、いずれユリが島を救う、とユリの球根をソテツの根元に隠して守った。果たしてそのユリがいまや島の基幹産業のひとつになっている。
敗戦とともに島は鹿児島県から分離され、米軍の統治下におかれる。日本に復帰したのは1953年。沖縄県が日本に復帰するのはさらに遅れ1972年。

沖永良部は高曇り。まずはタクシーで従姉妹のM子さんの家へ。M子さんと再会を喜ぶ。それからM子さんを乗せて、先祖の墓参りに行く。この墓の作りは気に入っている。道路に面した入り口にちょっとした平地があり、野辺の送りに来た人たちはそこで別れを告げ、奥の墓所には親族だけが行くのだそうだ。葬儀は神式。
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少し坂を上がると、内地と同じような墓石の立っている墓所がある。ただしここには遺骨は何にも入っていない。墓石を立てるのは内地からの指令があってのことのようだ。

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この墓石の後ろに珊瑚でできているような壁があり、真ん中に門がある。その門を入ると、広い芝生のような庭があり、さらに同じような門がついた壁がある。
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そこをぬけると、ちょっと空間があって、墓所に到着となる。岩壁を背に竜宮城みたいな形の屋根のある建物だ。
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中央の戸を開けると、中には祖先たちの遺骨が納められた骨壷が整然と並んでいる。
今では島も火葬になっているが、かつては沖縄と同様、風葬にして、骨になってからきれいに洗骨して骨壷に収めていた。明治になって風葬が禁止されている。この墓に参るのは3回目だが、初めてこの墓所を見たときは、この広さ、ただずまいにびっくりした。広さは200坪を下らないだろう。

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親戚の人の話だと、琉球王朝に支配されていた時代、沖縄から職人を招いて、この墓を作らせたが、民間人の墓を王家のものより立派に作ったといって、職人は死罪にされたという。なんとも理不尽な話ではある。

繰り返すが、当時の島の支配者は北山の息子の世の主であった。沖縄に南山、中山、北山と三山が割拠していた時代がある。それを統一したのが中山王の尚家である。沖永良部は北山に属していた。北山は「今帰仁遺跡」(なきじん)に名残をとどめている。

山の上に世の主が祀られている世の主神社がある。世の主の墓は下にある。世の主は北山王が自害し、中山王の船が近づいたのを見るや勝ち目なしと判断して自害して果てたという。実は中山王は和睦を求めてやってきたのだったが、早とちりをしてしまったらしい。これが15世紀、室町の頃のことである。
そして1609年、江戸時代、琉球は薩摩藩に併合されてしまう。沖永良部も薩摩藩の直轄地となる。

これは本家の主から聞いた話だが、4年ごとに鹿児島から薩摩の役人が島に赴任してきた。そのつど、少しでも島によくしてもらいたいがために、役人に女性を差し出していた。そのお手つき女性は島人みんなで生涯面倒をみたそうだ。下田のお吉の話とはずいぶん違う島人の心根だ。

琉球王朝には帯刀の習慣はなかったが、本家の見せてくれた宝に簪があった。お宝は門外不出、一般には見せないのだが、一族につながる者だからと勿体をつけて見せてもらったものだ。その簪の先端は鋭くとがっていた。それは何かあった場合、自らの喉をついて自決するためだったという。

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世の主の墓の入口

世の主の墓へ行った。娘や姪たちに二つの墓を比較させたかったからである。

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そして半崎へ行った。断崖だ、波が荒々しく打ち寄せて砕けている。カモメたちがまるでイルミネーションのように並んでいる。

ソテツの林に行き、家に戻る。
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3歳のSちゃんに、バナナが成っているから見せてあげると庭に出た。冬だと言うのに、紅いもの花、亜熱帯の花々がところせましと咲いている。
とそこでクモの巣に気がついた。

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チブサトゲグモ

どれもこれもチブサトゲグモ。わんさといる。写真で見ているトゲグモは背中だけで仮面みたいだが、頭が出ているので、まるで仮面が餌を捕まえたように見える。そこで何度もクモに触ってみて、仮面だけでなく頭もあるのがわかった。チブサトゲグモに会うのはひとつの目的だったから大喜びだ。

 先ずは着替え。暑い暑い。半袖になる。長袖は帰る日までバッグの荷物になった。

一人暮らしの従姉妹に忙しい思いをさせてはいけないと、夕食は持ち込んだ。ただ私の好きな「あおさ汁」だけは頼んでおいた。でも従姉妹は豚味噌も作ってくれた。台所でみんなでわいわい準備をしていると、ガラス戸にヤモリもまた集まってきた。このヤモリ、大きな声で鳴いた。へぇ~、ここではヤモリも鳴くんだ。スリランカやタイで鳴き声は聞いたことがあるが、日本では初めてだ。それもそうだ、ここは日本といっても亜熱帯なんだ。

楽しい夕べだった。

静かな夜。暑いのに虫の声すらしない静かな夜。しかし、夜更までおしゃべりが絶えることはなかった。窓をあけっぱなして寝たが暑いくらいだった。

11月9日

6時起床。みんなそろって散歩に出かける。私だけが朝日を見に行くのだと勘違いをしてカメラを肩にかけていく。海から日が昇りはじめる。でも日の出とは違う方角に歩いていく。そこでやっと朝日を見に行くのではなく散歩だと気がつく。朝からこんなに歩いたことがない。ぶすぶす言い始めた。アヒルがいる。ヤギがいる。さらにクモはたくさんいるし、花もきれいだ。こんなときは写真を撮るに限る。そうすれば文句は言わない。でも、みんなからは遅れてしまった。

帰ってきて朝食を食べて、空港へ。10時15分発なのに昨日のタクシーに迎えを9時にPapasanが頼んでおいたのだ。渋滞するといけないからと。車通りなんてほとんどない島で何が渋滞だと大笑いする。M子さんともお別れ。また会えるだろうか。

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さぁ、南へ八重山への旅の始まりだ。一行は妹と娘と私たち夫婦の4人。後の3人はここに残る。
1便なので今度は昨日よりは大きい飛行機だ。そのせいか鹿児島まで1時間。下界の見通しはよくなかったが、それでも雲の切れ間から徳之島や奄美大島、遠くに屋久島、種子島を見ることが出来た。うっすらと見える種子島の前に小さな島が見える。あれが馬毛島だろう。行ったことはないが、馬毛島の自然保護にいささかもカンパをしている。馬毛島は無人島で、馬毛シカなど貴重な生物が生息している。それが現在開発で、環境破壊の憂き目にあっているのだ。屋久島は霧が沸き起こるような感じで、ムードがある。

沖縄に行くのにもういちど鹿児島まで戻るのは大いなるロスだ。いろいろ手段を調べたが、連絡が悪くてそのまま南に進めない。鹿児島での乗り継ぎは30分しかないので急いだが、飛行機は遅れて出発。
飛行機の中で貰ってきたおむすびを食べた。おつまみつきでビール、ちゅうはい、ワインがひとつ500円で売っていた。もちろんpapasanはビールを買っている。那覇到着、そのままの場所で乗りついで石垣島へ。2時半ごろ石垣に着いた。日はまだ高い。タクシーでそのまま観光へ。

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石垣島マップ

石垣島は八重山諸島の中心的な島、大きさは西表島よりは小さい。
八重山と言う名は、海のかなたから眺めたとき、山並みが八重に重なるところからこういう名ができたのだという。
ちなみに石垣島は周囲139.2km。面積は228.6平方キロ。人口45,596人(H17年2月現在)。石垣島は合併して一島一市、石垣市である。

タクシーの運転手さんは石垣生まれの石垣育ち、私たちとは歳も近いから話が合う。昔の様子をいろいろ聞かせてもらった。先ずはバンナ公園に連れて行ってくれた。まわりの植生が違って目にたのしい。バンナ公園展望台から島や海岸線、竹富、西表、など島々を見晴らしている、となにやら鳴く声。その方を向くと偽木に小さなトカゲがいる。
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キノボリトカゲの子どもらしい

「トカゲがないたの?」「まさか?」すると運転手さんが「それはセミの声」そうだろうねぇ。でも、今頃セミがないているなんて。まだ頭から内地が抜けていない。

そうだ、機内の新聞で読んだばかり。アンバル湿地帯がラムサール条約に登録された。そのアンバルを見た。マングローブの林だ。

島では子牛を育てている。ここで7ケ月育てられた牛が引き取られ、2年間育てられて神戸牛や松坂牛になるのだそうだ。

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川平湾

ここは私のお勧めの場所。グラスボートに乗り、海底のサンゴをみる。海底を見るには引き潮の時は水がにごって見えにくいときいた。
夕日が海に落ちていく。きれいな夕日だ。

スリープ インは10月にオープンしたばかりのホテルだ。中はきれい。ホテルにはLANがあるのでパソコンにLANケーブルを接続すれば使えると一応LANケーブルを買って来たが、差し込んでも接続できない。何回も試みたがダメ。

夕食にハポイヤというレストランで石垣牛のステーキをたべた。もちろん赤ワインも。美味しかった。前菜のひとつにゴーヤのピクルスが出た。これが美味しかった。来年つくってみよう。
フロントでPCがネットに接続できないと言うと、LANケーブルを貸してくれた。買ってきたのと同じようなものだったが、これでやったがやっぱりダメ。疲れたので、洗濯をし、マッサージを頼み、そのまま寝てしまった。


11月10日

起床7時。7時半、支度をして食事に行く。そこで1FにOAコーナーがあることに気がついた。一足先に下におり、ちょっとのぞきに行く。
9時空港へ向かう。荷物を預けようとしてPapasanが荷物を持っていないことに気がつく。荷物といってもバッグひとつなのだが、それでもパソコンもフィルムが入っている。あわててとりに戻る。なんと部屋に忘れていた。タクシーに待っていてもらい、受け取って再び空港へ。
「ふ~ん、早発ちするのはこういうためなんだ」とさんざんからかう。

1
与那国島マップ

10;30 与那国島行き。晴れていたので、西表、鳩間、宮古ときれいな島々を眼下に見ることが出来た。与那国島まで25分、ほんのひとっとびだ。空港にホンダのレンタカーがシビックを用意して待っていてくれた。

与那国は方言でドナンという。周囲27.49km。面積28.88平方キロ。
人口1,854人(H17)。与那国島は与那国町である。

与那国は暑い。日差しも強い。サングラスをかけた。
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アヤミハビル館

まずはアヤミハビル館へ行く。宇良部岳の途中にある町営の展示館である。生きているヨナクニサンを見たかったのだが、ヨナクニサンは5月から10月までしか見ることは出来ないとのことだった。
ヨナクニサンは世界最大の蛾だ。いまは保護条例で採集が禁止されているが、以前は売買の対象として乱獲され、その数を減らしてしまった。沖縄県の天然記念物に指定され、保護増殖事業が行われているとのことだ。
ビデオが上映されるので、それでヨナクニサンの一生を見ることができる。

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入口に置かれたヨナクニサンの繭の抜け殻

格子に編まれた網にぶら下がっているさなぎの抜け殻だけは見ることができた。それでも大きい。ヨナクニサンは現地ではアヤミハビルという。「アヤミ」とは「模様のある」、「ハビル」は「蝶、蛾」の意味だ。蝶の標本はたくさんあった。生きているものはトカゲ、ナナフシ、カメ、ヘビ(ヨナクニシューダ)、魚、リュウキュウコノハズク、などがいた。

ひとまず祖納(そない)まで戻って食事をすることにした。与那国はカジキマグロや車えびで有名である。と海の幸を食べさせてもらえるところを探したが、あいにく多くが定休日。ツイてない。そこで食堂に入って長命草そばを食べる。長命草ってイタリアンパセリみたいな草だ。でもそばに打ち込んでしまうと色だけは鮮やかだが、香りも味も感じられない。そばに刺身もついていた。

agarizaki

東崎(あがりざき)につく。展望台の下には与那国馬が草をはんでいる。やせている。野生馬なんだろうか。
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風力発電が2基まわっている。こんなにすぐ傍でみたのは初めてだ。

遠くに島影が見える。
「台湾じゃない?」
「台湾は方角が違うよ」
「西表かぁ。そんな簡単に台湾が見えるはずないよね」
「台風が近づいているとき台湾が見えるんだって」
「じゃぁ、見えない方がいいんだね」(ちょっと負け惜しみっぽい)

higasizaki
車で磯までいける。上から透けて見える磯の色が実に美しい。
近く与那国マラソンが予定されていて、あちこちに何キロ地点という立て札が見られた。

gunkanniwa
道なりに「さんにヌだい」展望台へ行く。偽木で作られた遊歩道を下ると、まず目に飛び込んで来るのは軍艦岩だ。さらに進むと断崖の下は岩の千畳敷。
sennjoujiki
海をバックにコンサートや薪能ができそうだ。

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立神岩

続いて立神石展望台、海の色が実に美しい。立神石は与那国島のシンボル的存在だ。なるほど、巨石がぬっと海中から突き出ている。しかし午後の光は逆行になってしまって岩は黒く見えるだけ。ちょっと残念。

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花塩

比川浜で花塩を買った。黒潮の源流に近い与那国で手作りで作られているこの花塩のことは知っていた。妹はこの塩を使ってい
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またひとり

2005-11-20 21:04:31 | 日記・エッセイ・コラム
また一人仲間が帰らぬ旅にでた。10人のうち3人が鬼籍に入ってしまった。今朝、友人が電話で教えてくれた。私が出かけた8日、その日の午後、訃報が届いたのだそうだ。私はもう南の島への旅に出かけていた。そこで連絡のついた人たちだけが通夜や告別式に分けて参列したということだ。

亡くなったのは大学の同級生のF。肺がんだったそうだ。最後に会ったのは箱根でのクラス会だった。秋田から帰ったばかりだったので、お土産に持っていった「天功」を美味しいといって飲んでいた。でもちょっと元気がなかったが、親友のTをなくしたせいだと思っていた。そういえば強羅公園の階段を難儀そうに上がっていた。あのころから病気は進行していたのだろう。だれもがいつかはかならず行くところだが、残された者の方がさびしい。冥福を祈るのみ。

ポーラ美術館の前でみんなで記念撮影をした。誰のカメラで撮ったかは忘れてしまったが、「葬式用写真だ」と冗談を言い合いながら、写真におさまった。もっともその葬式用写真、まだ私の手元には届いていない。

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