南の島へ
「南」という漢字は好きではないが、「南」という響きにはなにかわくわくするような感じを受ける。体の中に流れる血の半分に南の血が流れている所以だろう。とはいえ、人生のほとんど全部を温帯で過ごしているから、暑さは苦手だ。それでもこの時期、北へ行くよりははるかにうれしい。
私の血の半分、父は鹿児島県、母は静岡県の産である。そして私たちが生まれたのは静岡県は熱海。両親の墓は熱海にある。母が亡くなって10年になる。そこで姉妹と沖永良部に祖先の墓参りをかね、沖永良部にいる従姉妹に会ってこようということになった。三姉妹と連れ合いや子ども、孫を合わせて総勢7人の旅となった。
羽田発9時半の鹿児島行きだ。私は早起きが苦手。宵っ張りならいくらでもつき合えるけど、早起きとなると。でも、今回は前泊するわけにも行かないし、仕方がない、なんとか努力しよう。
5時に起こされた。6時前に家をでた。6時14分発。電車はお見合い車両だ。山側に座って相模湾にのぼる日の出を見ていく。まだ輝かない真っ赤な日輪が海の上に昇っていく。海は穏やかな銀色で、まさに日本画の世界だ。早起きしたご褒美だ、と喜んでいる。やがて日は輝き始める。朝日って本当に美しい。しかし車両は、下から暖房が出ているとはいえ、まだ空いているので温まらないのか、寒い。
ラッシュで新橋で下りれるかどうか心配した。幸いなことに日頃ラッシュなんて体験することがない。強引に人ごみにもぐりこんで外に出る。そして浜松町までまたラッシュ。通勤に混じってどうやらモノレールに乗る。ここからはずいぶんとラクになった。
8時半過ぎに到着。チェックインを始めると他の一行が、8時前にはみな着いていたと言って合流した。姪の息子の3歳のS君に始めて会う。かわいい子だ。
真鶴岬
右窓際に座る。飛行機から、真鶴岬がよく見えた。浜名湖あたりからだんだん雲が出てきて下界は見えなくなった。
鹿児島から沖永良部へ。32人乗りの小さなプロペラ機。以前はYS11だったと思うんだが。沖永良部まで1時間20分かかった。
こんな折だから、ざっと沖永良部を紹介してみよう。
沖永良部島は鹿児島県大島郡。鹿児島から南西諸島まで飛び石状につながる島々の中間あたりにある。鹿児島県としては最後が与論島、その手前が沖永良部島。与論島の向こうは沖縄本島である。
島の地形は頂点の長い二等辺三角形に似ている。最高の山は245m、平べったい、面積94.5平方キロの島である。ハブはいない。気候は多湿・亜熱帯性で、夏から秋にかけては台風銀座となる。
歴史的には小さな島なので、人口もさしたることもなく、支配権者が出現することはなかったし、鹿児島や沖縄の支配にも対抗する力もなかった。
沖永良部島のみならず、奄美の古代史は資料も少なく、解明されていないことが多い。島の先祖たちがいつごろ、どこから来てどういう暮らしをしていたかもまだわかっていない。
沖永良部島には和泊町と知名町の二つの町がある。和泊の町史を以前買って来たので、それでみると、沖縄・北山の一員である世の主が島の主になったのは1395年。そして1416年に北山が滅亡し、琉球を統一した尚氏に支配を受けることになる。琉球史では村落共同協力社会が崩壊して、支配・被支配に交代していくことになる。1609年には鹿児島・薩摩藩が琉球をくだし、奄美大島諸島を直轄地とする。薩摩藩の支配は琉球及び諸島にとっては搾取そのもの。特に砂糖地獄はすごすぎる。
島に自生するユリの栽培を始めたのは1909年(明治40年)、太平洋戦争の時、ユリは日本軍から廃棄処分という迫害を受けた、が、島のリーダーが、いずれユリが島を救う、とユリの球根をソテツの根元に隠して守った。果たしてそのユリがいまや島の基幹産業のひとつになっている。
敗戦とともに島は鹿児島県から分離され、米軍の統治下におかれる。日本に復帰したのは1953年。沖縄県が日本に復帰するのはさらに遅れ1972年。
沖永良部は高曇り。まずはタクシーで従姉妹のM子さんの家へ。M子さんと再会を喜ぶ。それからM子さんを乗せて、先祖の墓参りに行く。この墓の作りは気に入っている。道路に面した入り口にちょっとした平地があり、野辺の送りに来た人たちはそこで別れを告げ、奥の墓所には親族だけが行くのだそうだ。葬儀は神式。
少し坂を上がると、内地と同じような墓石の立っている墓所がある。ただしここには遺骨は何にも入っていない。墓石を立てるのは内地からの指令があってのことのようだ。
この墓石の後ろに珊瑚でできているような壁があり、真ん中に門がある。その門を入ると、広い芝生のような庭があり、さらに同じような門がついた壁がある。
そこをぬけると、ちょっと空間があって、墓所に到着となる。岩壁を背に竜宮城みたいな形の屋根のある建物だ。
中央の戸を開けると、中には祖先たちの遺骨が納められた骨壷が整然と並んでいる。
今では島も火葬になっているが、かつては沖縄と同様、風葬にして、骨になってからきれいに洗骨して骨壷に収めていた。明治になって風葬が禁止されている。この墓に参るのは3回目だが、初めてこの墓所を見たときは、この広さ、ただずまいにびっくりした。広さは200坪を下らないだろう。
親戚の人の話だと、琉球王朝に支配されていた時代、沖縄から職人を招いて、この墓を作らせたが、民間人の墓を王家のものより立派に作ったといって、職人は死罪にされたという。なんとも理不尽な話ではある。
繰り返すが、当時の島の支配者は北山の息子の世の主であった。沖縄に南山、中山、北山と三山が割拠していた時代がある。それを統一したのが中山王の尚家である。沖永良部は北山に属していた。北山は「今帰仁遺跡」(なきじん)に名残をとどめている。
山の上に世の主が祀られている世の主神社がある。世の主の墓は下にある。世の主は北山王が自害し、中山王の船が近づいたのを見るや勝ち目なしと判断して自害して果てたという。実は中山王は和睦を求めてやってきたのだったが、早とちりをしてしまったらしい。これが15世紀、室町の頃のことである。
そして1609年、江戸時代、琉球は薩摩藩に併合されてしまう。沖永良部も薩摩藩の直轄地となる。
これは本家の主から聞いた話だが、4年ごとに鹿児島から薩摩の役人が島に赴任してきた。そのつど、少しでも島によくしてもらいたいがために、役人に女性を差し出していた。そのお手つき女性は島人みんなで生涯面倒をみたそうだ。下田のお吉の話とはずいぶん違う島人の心根だ。
琉球王朝には帯刀の習慣はなかったが、本家の見せてくれた宝に簪があった。お宝は門外不出、一般には見せないのだが、一族につながる者だからと勿体をつけて見せてもらったものだ。その簪の先端は鋭くとがっていた。それは何かあった場合、自らの喉をついて自決するためだったという。
世の主の墓の入口
世の主の墓へ行った。娘や姪たちに二つの墓を比較させたかったからである。
そして半崎へ行った。断崖だ、波が荒々しく打ち寄せて砕けている。カモメたちがまるでイルミネーションのように並んでいる。
ソテツの林に行き、家に戻る。
3歳のSちゃんに、バナナが成っているから見せてあげると庭に出た。冬だと言うのに、紅いもの花、亜熱帯の花々がところせましと咲いている。
とそこでクモの巣に気がついた。
チブサトゲグモ
どれもこれもチブサトゲグモ。わんさといる。写真で見ているトゲグモは背中だけで仮面みたいだが、頭が出ているので、まるで仮面が餌を捕まえたように見える。そこで何度もクモに触ってみて、仮面だけでなく頭もあるのがわかった。チブサトゲグモに会うのはひとつの目的だったから大喜びだ。
先ずは着替え。暑い暑い。半袖になる。長袖は帰る日までバッグの荷物になった。
一人暮らしの従姉妹に忙しい思いをさせてはいけないと、夕食は持ち込んだ。ただ私の好きな「あおさ汁」だけは頼んでおいた。でも従姉妹は豚味噌も作ってくれた。台所でみんなでわいわい準備をしていると、ガラス戸にヤモリもまた集まってきた。このヤモリ、大きな声で鳴いた。へぇ~、ここではヤモリも鳴くんだ。スリランカやタイで鳴き声は聞いたことがあるが、日本では初めてだ。それもそうだ、ここは日本といっても亜熱帯なんだ。
楽しい夕べだった。
静かな夜。暑いのに虫の声すらしない静かな夜。しかし、夜更までおしゃべりが絶えることはなかった。窓をあけっぱなして寝たが暑いくらいだった。
11月9日
6時起床。みんなそろって散歩に出かける。私だけが朝日を見に行くのだと勘違いをしてカメラを肩にかけていく。海から日が昇りはじめる。でも日の出とは違う方角に歩いていく。そこでやっと朝日を見に行くのではなく散歩だと気がつく。朝からこんなに歩いたことがない。ぶすぶす言い始めた。アヒルがいる。ヤギがいる。さらにクモはたくさんいるし、花もきれいだ。こんなときは写真を撮るに限る。そうすれば文句は言わない。でも、みんなからは遅れてしまった。
帰ってきて朝食を食べて、空港へ。10時15分発なのに昨日のタクシーに迎えを9時にPapasanが頼んでおいたのだ。渋滞するといけないからと。車通りなんてほとんどない島で何が渋滞だと大笑いする。M子さんともお別れ。また会えるだろうか。
さぁ、南へ八重山への旅の始まりだ。一行は妹と娘と私たち夫婦の4人。後の3人はここに残る。
1便なので今度は昨日よりは大きい飛行機だ。そのせいか鹿児島まで1時間。下界の見通しはよくなかったが、それでも雲の切れ間から徳之島や奄美大島、遠くに屋久島、種子島を見ることが出来た。うっすらと見える種子島の前に小さな島が見える。あれが馬毛島だろう。行ったことはないが、馬毛島の自然保護にいささかもカンパをしている。馬毛島は無人島で、馬毛シカなど貴重な生物が生息している。それが現在開発で、環境破壊の憂き目にあっているのだ。屋久島は霧が沸き起こるような感じで、ムードがある。
沖縄に行くのにもういちど鹿児島まで戻るのは大いなるロスだ。いろいろ手段を調べたが、連絡が悪くてそのまま南に進めない。鹿児島での乗り継ぎは30分しかないので急いだが、飛行機は遅れて出発。
飛行機の中で貰ってきたおむすびを食べた。おつまみつきでビール、ちゅうはい、ワインがひとつ500円で売っていた。もちろんpapasanはビールを買っている。那覇到着、そのままの場所で乗りついで石垣島へ。2時半ごろ石垣に着いた。日はまだ高い。タクシーでそのまま観光へ。
石垣島マップ
石垣島は八重山諸島の中心的な島、大きさは西表島よりは小さい。
八重山と言う名は、海のかなたから眺めたとき、山並みが八重に重なるところからこういう名ができたのだという。
ちなみに石垣島は周囲139.2km。面積は228.6平方キロ。人口45,596人(H17年2月現在)。石垣島は合併して一島一市、石垣市である。
タクシーの運転手さんは石垣生まれの石垣育ち、私たちとは歳も近いから話が合う。昔の様子をいろいろ聞かせてもらった。先ずはバンナ公園に連れて行ってくれた。まわりの植生が違って目にたのしい。バンナ公園展望台から島や海岸線、竹富、西表、など島々を見晴らしている、となにやら鳴く声。その方を向くと偽木に小さなトカゲがいる。
キノボリトカゲの子どもらしい
「トカゲがないたの?」「まさか?」すると運転手さんが「それはセミの声」そうだろうねぇ。でも、今頃セミがないているなんて。まだ頭から内地が抜けていない。
そうだ、機内の新聞で読んだばかり。アンバル湿地帯がラムサール条約に登録された。そのアンバルを見た。マングローブの林だ。
島では子牛を育てている。ここで7ケ月育てられた牛が引き取られ、2年間育てられて神戸牛や松坂牛になるのだそうだ。
川平湾
ここは私のお勧めの場所。グラスボートに乗り、海底のサンゴをみる。海底を見るには引き潮の時は水がにごって見えにくいときいた。
夕日が海に落ちていく。きれいな夕日だ。
スリープ インは10月にオープンしたばかりのホテルだ。中はきれい。ホテルにはLANがあるのでパソコンにLANケーブルを接続すれば使えると一応LANケーブルを買って来たが、差し込んでも接続できない。何回も試みたがダメ。
夕食にハポイヤというレストランで石垣牛のステーキをたべた。もちろん赤ワインも。美味しかった。前菜のひとつにゴーヤのピクルスが出た。これが美味しかった。来年つくってみよう。
フロントでPCがネットに接続できないと言うと、LANケーブルを貸してくれた。買ってきたのと同じようなものだったが、これでやったがやっぱりダメ。疲れたので、洗濯をし、マッサージを頼み、そのまま寝てしまった。
11月10日
起床7時。7時半、支度をして食事に行く。そこで1FにOAコーナーがあることに気がついた。一足先に下におり、ちょっとのぞきに行く。
9時空港へ向かう。荷物を預けようとしてPapasanが荷物を持っていないことに気がつく。荷物といってもバッグひとつなのだが、それでもパソコンもフィルムが入っている。あわててとりに戻る。なんと部屋に忘れていた。タクシーに待っていてもらい、受け取って再び空港へ。
「ふ~ん、早発ちするのはこういうためなんだ」とさんざんからかう。
与那国島マップ
10;30 与那国島行き。晴れていたので、西表、鳩間、宮古ときれいな島々を眼下に見ることが出来た。与那国島まで25分、ほんのひとっとびだ。空港にホンダのレンタカーがシビックを用意して待っていてくれた。
与那国は方言でドナンという。周囲27.49km。面積28.88平方キロ。
人口1,854人(H17)。与那国島は与那国町である。
与那国は暑い。日差しも強い。サングラスをかけた。
アヤミハビル館
まずはアヤミハビル館へ行く。宇良部岳の途中にある町営の展示館である。生きているヨナクニサンを見たかったのだが、ヨナクニサンは5月から10月までしか見ることは出来ないとのことだった。
ヨナクニサンは世界最大の蛾だ。いまは保護条例で採集が禁止されているが、以前は売買の対象として乱獲され、その数を減らしてしまった。沖縄県の天然記念物に指定され、保護増殖事業が行われているとのことだ。
ビデオが上映されるので、それでヨナクニサンの一生を見ることができる。
入口に置かれたヨナクニサンの繭の抜け殻
格子に編まれた網にぶら下がっているさなぎの抜け殻だけは見ることができた。それでも大きい。ヨナクニサンは現地ではアヤミハビルという。「アヤミ」とは「模様のある」、「ハビル」は「蝶、蛾」の意味だ。蝶の標本はたくさんあった。生きているものはトカゲ、ナナフシ、カメ、ヘビ(ヨナクニシューダ)、魚、リュウキュウコノハズク、などがいた。
ひとまず祖納(そない)まで戻って食事をすることにした。与那国はカジキマグロや車えびで有名である。と海の幸を食べさせてもらえるところを探したが、あいにく多くが定休日。ツイてない。そこで食堂に入って長命草そばを食べる。長命草ってイタリアンパセリみたいな草だ。でもそばに打ち込んでしまうと色だけは鮮やかだが、香りも味も感じられない。そばに刺身もついていた。
東崎(あがりざき)につく。展望台の下には与那国馬が草をはんでいる。やせている。野生馬なんだろうか。
風力発電が2基まわっている。こんなにすぐ傍でみたのは初めてだ。
遠くに島影が見える。
「台湾じゃない?」
「台湾は方角が違うよ」
「西表かぁ。そんな簡単に台湾が見えるはずないよね」
「台風が近づいているとき台湾が見えるんだって」
「じゃぁ、見えない方がいいんだね」(ちょっと負け惜しみっぽい)
車で磯までいける。上から透けて見える磯の色が実に美しい。
近く与那国マラソンが予定されていて、あちこちに何キロ地点という立て札が見られた。
道なりに「さんにヌだい」展望台へ行く。偽木で作られた遊歩道を下ると、まず目に飛び込んで来るのは軍艦岩だ。さらに進むと断崖の下は岩の千畳敷。
海をバックにコンサートや薪能ができそうだ。
立神岩
続いて立神石展望台、海の色が実に美しい。立神石は与那国島のシンボル的存在だ。なるほど、巨石がぬっと海中から突き出ている。しかし午後の光は逆行になってしまって岩は黒く見えるだけ。ちょっと残念。
花塩
比川浜で花塩を買った。黒潮の源流に近い与那国で手作りで作られているこの花塩のことは知っていた。妹はこの塩を使ってい