「女たちの合成洗剤追放運動 1960年代~1970年代を振り返って」
連絡先 山口泰子 横浜市港北区篠原台町3-16-104
山口泰子さんから「女たちの合成洗剤追放運動・・・」という冊子を頂いた。座談会の形をとっている。座談会の出席者はよく知っている人たち、合成洗剤追放を取っ掛かりに食品の安全性、公害問題、生存権、文明論まで視野を広げ活躍した人たちである。いや、いまなお活動し続けている。私にとっても運動の先輩たちである。もっとも座談会の出席者たちもかなり故人になってしまってはいる。主婦たちの運動を学問的にサポートしてくださった学者の先生方も故人になられた方々が多い。もちろん後を引き継ぎ、サポートして下さっている学者たちは健在している。
私が「まなづる生活学校」を始めたのが1973年、合成洗剤追放にはもう少し前から関わっていたから、本の内容の、彼女たちの運動とは重なっている。私は実際に自分の手荒れに苦しんで何軒も皮膚科に行ったが治らなかった。熱海の青木クリニックで、一目見て先生が「合成洗剤のせいだから、使うのをやめなさい」と言った。そこで合成洗剤の使用をやめたら1ケ月で、嘘のように手あれが消えてしまった。以後、洗濯にも台所にもシャンプーにも歯磨きにも、クレンザーにも、合成洗剤を使うことはない。
(註:生活学校は総務省関係の「あしたの日本を創る協会」が組織した全国組織。いまなお活動は続いている。まなづる生活学校はいまはその傘下にはないが名前だけは引き続き使っている)
合成洗剤についての勉強を始め、その危険性の大きさに驚いた。知らずに使っている人たちにも知ってもらいたい。できれば合成洗剤を追放したい。運動している人たちとも連携して、合成洗剤追放運動を始めたのだった。ただ、当時洗濯用石鹸は売っていなくて、手に入れるのに苦労した。で、共同購入が始まったのである。私たちが共同購入を始めると、手荒れに悩む町の人が分けてくれと訪れるようになった。まわりにも手荒れに苦しんでいた人たちが多いということを実感したのだった。共同購入より、だれでが買えるように町のお店に頼んで洗濯用の粉石けん、台所用石けん、シャンプー、リンスは置いてもらった。
食品公害、農薬、農業や漁業の実態、地産地消、将来へ向けての取り組み、いまでいう環境問題、人間だけでなく地球上に生きているすべての生きものの問題へと発展し、共に生きる思想が身についたのである。いまなおその基本姿勢を保持している。真鶴での運動は、「豊かさの裏側」「限りあるもの」「平和」「食べる」「生きものの水」「青い地球よ」といったスライド作品としてまとめてある。こんどスライド作品の内容もブログに載せておこう。真鶴町の公共施設、町民センターには合成洗剤洗剤は置いてない。役場も私が出入りしていたときは、200番が置いてあったと思う。
冊子の「はじめに」を抜粋して紹介しよう。ただし本文は「です、ます」調の丁寧な言葉使いなのだが、打つのが面倒なので、「である」調にしてしまった。
「合成洗剤追放運動の最初のころを知りたい、それが現在の活動をさらに活性化することに役立つのではないか」という声に応えて、はじめのころから追放運動に関わった人たちで、合成洗剤運動がどのように始まったか、話し合ってみることにした。
活動を始めたのがなぜ女性だったのかというと、当時洗濯や炊事の大半を担っていたのは女性で、手荒れや子どものおむつかぶれを身近に経験していた。合成洗剤だけでなく食品の着色料や防腐剤などにも疑問を持つようになった。そのころの労働組合は男女分業を前提として、男性の賃金は家族を支えることを基本にしていた時代だった。したがって男性の大半は生産者側にあり、消費現場での問題を知る機会はほとんどなかった。
石油の精製過程の廃棄物を原料にした合成洗剤が日本で初めて発売されたのが、1951年。以来合成洗剤は洗濯機の普及と、テレビでの野菜や果物まで洗剤で洗うことが文化的であるかのような宣伝のもと、急速に市場に出回った。ところが、1960年になって、当時東京都衛生研究所にいた柳沢文正さんが溶血性の実験などから「合成洗剤は無害ではない」という発表をした。
また下水処理に悪影響を及ぼすという山越邦彦さんの研究や、柳沢文徳さんの研究などでもその問題点が明らかになった。それがマスコミに取り上げられると、この3人が国会に参考人として招かれるなど、社会的な問題となり、政府はそれを受けて、1963年科学技術庁による合成洗剤の安全性について調査研究を実施した。しかしその結論は「通常の使用なら安全」というものだった。一方、消費者のなかには、家庭排水が流れ込んで洗剤のアワが盛り上がる川や、ひどい手荒れに悩む人たちが増えるのを目のあたりにして、研究者の警告に耳を傾ける人たちが出てきた。それが全国的な合成洗剤追放という大きなうねりとなっていった。にもかかわらず合成洗剤メーカーは、政府の「通常の使用なら安全」との見解をバックに、石油工業と連動して、大きな利益を上げながら、必死に宣伝を続けた。
社会全体では公害先進国と言われたように、四日市喘息や水俣病などが発生し、公害による多数の被害者が生まれた。そうした状況のなかで、合成洗剤追放の運動は、石油文明の発達を契機とする豊かで、便利な生活の影にある環境汚染や生物への悪影響に目を向け、自分が加害者になりたくないという思いと共に、社会全体の在り方を考え直すことにもつながっていった。
現在合成洗剤の問題に取り組んでいる人たちに、1960年~70年にかけて全国各地に野火のように広がった追放運動についての経過や思いを分かっていただければ幸いである。
なお、この座談会は2000年に滋賀県で開いたもの。」
繰り返すが、私の運動は彼女たちの運動と重なっている。私も30代から関わったから、運動の歴史は長い。だから冊子を読んでいて、そうだった、と同感することも多いが、一方では苦い思い出も多々ある。
ぜひ、この冊子を多くの人に読んでもらいたい。
上記、山口さんに連絡すれば購入できる。1冊700円。