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ドイツ1997年

2006-05-06 15:42:53 | 旅行記 ヨーロッパ

ドイツは何回も行っているが、これは1997年、ちょうど日記が出てきたので。いまはもう様変わりしていると思う。

5月5日(月)11時25分成田発、KLM。
14時55分、オランダ、スキポール空港着。19時発KLMでベルリンへ。バスX9でホテルベルリン前でおり、飛び込みチェックイン。予約なし。

ベルリン

5月6日(火)
ツォー駅まで歩く。ツォーとはZOO。赤と青の中国風の動物園の入り口が見える。道向こうには空襲で破壊された教会がそのまま残っている。

ひろい歩道に色の違った道がついている。
そこを歩いていたら、後ろから来た自転車にベルを鳴らされた。ここは自転車専用通路だった。

途中でバスに乗り、運転手にシャルトッテンブルクまでの行き方を教わるが、途中にシャルロッテンブルクの駅名に慌てて下りる。ところが地名はシャルロッテンブルクには違いないが、宮殿はさらに遠く、少し歩いて、またバスに乗る始末。

U_file1200206181716311 博物館の壁面には弾痕がいたいたしく残っている。
先ずは「エジプト美術館」に入る。入り口近くの1室にネフェルティティの胸像が置かれている。もっと小さなものかと思っていたら、人並みの大きさ。確かに美しい。しかも知的である。

アクエンアトンといっしょに、歴史始まって以来始めての一神教を唱え、アメン教の神官達から反発されながらも、アマルナ文化を築いた女性だから当然知的なのだろう。
アマルナから掘り出された品々がたくさんある。
アクエンアトン像を始め、他のネフェルティティの像、高度な美術品だ。1917年にドイツ隊によって発掘されたものだそうだが、土の中から現れた、汚れてるとはいえこのネフェルティティの像には、さぞかし驚いたことだろう。
 
エジプト博物館が所蔵しているピカソとその時代展が隣で行われていた。シャルロッテン宮殿を見て回り、バスでツォーへ戻り、100番に乗り換えてブランデンブルグ門を越えて、アレキサンダー広場で降り、テレビ塔に登る。
360度一望できる。ベルリンは広い。しかし美しくない町だ。旧東ドイツ側は趣のないアパート群が続く。ミンスクを連想させる。

大聖堂に入る。

博物館の島へ。ペルガモン博物館に入る。
私はエジプトをはじめ、古代文明史がすきなのだ。
ここは小アジアのヘレニズム時代に栄えた国家ペルガモンの遺跡を展示してある。恐れ入ったとはこのこと。小アジアの建造物をこれでもかとみんな持ってきてしまっているのだからすごい。まさに略奪そのもの。
アレッポの民家を買い取ってきたと言うが、輸送にしても、すごいことをするものだ。

私のお目当てはイシュタルの門。ネブカドネザル王時代のバビロンの都に入る門。両側から青レンガに動物達の浮き彫りをほどこした壁が立ち並ぶ。
さぞかし都へ入る緊張感があっただろう。よそ者には威圧感でさえあったろうと思う。
この断片は大英博物館だったか、ルーブルだったかにもある。

ブランデンブルク門、感慨ひとしお。

電車にのると、落書きがすごい。ガラスまで傷がつけられている。

ザクセンハウゼン

ベルリンのツォー駅から、途中乗り換えてSバーンで1時間弱、オラニエンブルク駅に着く。
ここから徒歩で30分余りのところに、ザクセンハウゼン強制収容所はある。

駅にはタクシーもバスもなく、しかたなく歩き始める。カメラバッグの5kgが重い。

ほどなく日本でいえば中学生の1団に追い抜かれた。多分この子たちも、ザクセンハウゼンに行くのだろうと後を追うが、彼らの足は速い。なんとか彼らの後姿が視野におさまるくらいについていく。
やはり彼らの目的地もザクセンハウゼン。ドイツでは中学生になると、ナチスが行ったドイツの忌まわしい過去をきちんと教えることになっている。

U_file1200206181827591 黒塗りの鉄柵の入り口で「入場料は?」ときくと「フライ(無料)」と守衛が答えた。
門を入ると、緑の並木道が続いている。ただ、これから待ち受けているものを感じると、緑の木立も、小鳥の声も、単純に楽しんではいられない。

突き当たりは大きな展示館。左に折れると、広場があり、2階建ての建物がある。かっての管理棟だ。解放されたときは2階に横断幕が掲げられたそうだ。管理棟の中門を出ると、広大な敷地に、ぐるりと鉄条網のついた塀がはりめぐらされ、ところどころに映画で見たような監視塔がある。とにかく広いので、監視塔ははるかかなたなのだが、
何ともいえぬ重圧感を覚える。

手前にはバラック1とかバラック2とか書かれた細長い小屋がある。以前はここに60棟のバラックが並んでいたそうだが、いまは3棟が展示室になっていて、新聞で見る当時のヨーロッパの様子や、収容所の状況が紹介されている。

先に入った中学生たちは、思い思いにバラックに入り、真剣な面持ちで、説明文を読んだり、ノートしたりしている。

塀を隔てて独房も並んでいる。ナチスの頃は勿論だが、ソ連の管理下になってからもここは政治犯の収容所として使われていた。ここで命を落とした人のだろうか、それぞれの独房には写真や経歴が掲げられ、花が手向けられている。独房近くには絞首刑に使った杭が並んでいる。

広場近くの展示館には、強制収容されたユダヤ人たちの収容所での写真や遺品が数多く展示されている。アウシュビッツの写真と同じ状態だ。生体実験室、切り取られた髪の毛の山、おびただしい靴、拷問具。薄暗い部屋でひとり見ていると、どこからかうめき声が聞えてきそうだ。

残念ながら解説はドイツ語だ。私も初級はやったのだが、解説を読むほどの読解力はない。ドイツ語は夫の領分だ。彼は解説を読みながら来るので遅い。仕方がないので、
拾い読みしながら見当をつけている。

壁のドイツの地図には、当時あった強制収容所の場所が書き込まれている。すごい数だ。やりきれない気持ちで展示館を出ると、そこは広い広場だ。ここはかってユダヤ人たちが働かされていた作業所がところせましと並んでいた。
今は何もない。ところどころに立つ大きな木が、かえって何かを訴えているかのようだ。

三々五々、中学生たちが監視塔や塀際を歩いている姿が小さく見える。

広場の中央近くに高いモニュメントが建っている。台座にはここに収容された人々の国名が刻み込まれている。そのモニュメントの前を通り過ぎると、塀際に大きな屋根だけ
ついた構築物がある。

まわりをフェンスで囲み、中には入れないが、側によって見ると、そこは浴場、すなわちガス室の跡、隣は焼却炉だ。ガス室で殺された死体は、すぐ焼却され、燃え残りの骨や灰はスロープを通って捨てられる仕組み。実に合理的な殺人工場だ。スロープも残灰捨て場も掘り起こされて、人目にふれるようになっている。
ソ連軍が入ってきたとき、ナチスは証拠隠滅を図って、この建物を焼き払ったようだ。そのままに保存されている。

管理棟近くで、ボランティアの人たちが草むしりをしていた。やわらかな日差しの中の、黄色いタンポポの花にほっとする。戻って、大きな展示館に入ると、ここには英語の説明がついていた。それによると、この収容所はナチスの後、ソ連による政治犯の収容所として使われ、1万2千人もの政治犯がここで命を落としたという。そう、この地は旧東ドイツだ。あのモニュメントも旧ソ連による犠牲者のためのものかもしれない。

些か疲れてしまったので、解説を読むのをやめ、ロビーの椅子に腰掛けて、人々の様子を眺めていた。先ほどの中学生たちがグループになって床に座り、メモを見ながらさかんに話し合っている。

日本は忌まわしい過去は隠そうとしているが、ドイツでは過去の事実はきちんと教えられている。きちんと教えられなければ、反省も進展もない。日本の子ども達が教えられないが故に歴史をしらずにふるまい、非難されるのは可哀想だ。事実は事実として教え、判断させるのが、大人たちの役目ではなかろうか。

ライプチッヒ

IC特急でライプツィヒへ。中央駅のすぐ前ノボテルに泊まる。

いそいでゲバントハウスの演奏日程を調べるが、今日は演奏会はないもよう。
ホテルの横をまっすぐにのぼると、池の向こうにオペラハウスがある。掲示板には数日後に「白鳥の湖」の上演が貼ってあった。残念だな、ライプツィヒ・ゲバントハウス演奏のチャイコフスキーかなにかレコードを持っていたはず。

ライプツィヒとはもともと「菩提樹」をさす言葉から出来たようだ。

ライプツィヒ大学に行った。本型のこの建物が出来たとき、テレビで見ていたが、間近で見ると、ちっともよくない。あら捜しをすると、あちこちサビが出ている。
大学の別棟の入り口には、過去の遺物のレーニンやかつてもお偉方の像が並んでいる。

裏に回ると、手入れの行き届いた庭があり、なだらかな傾斜面にほそい散歩道がその間をぬうようについている。芝生のところどころに胸像や記念碑が建っている。
クララ・シューマンの碑もあった。

U_file1200206181826231 マルクト広場から、敬意を表してバッハの眠るトーマス教会へ行くと、正面に人が大勢出ている。ミサ(プロテスタントはミサという言葉を使わないのだが、何と言ったか思い出せない)と思ったら、みんな入場券を持っている。なんとJSバッハの演奏会だったのだ。
しかも演奏者はゲバントハウスの面々。
ついてる!

トーマス教会も修復の途中。きっとこの演奏会は修復の募金稼ぎではなかろうか。しかし内容は素晴らしいかった。教会の中で祈りのあるメサイアを聞けるなんて最高。これはここならではの体験だ。休憩なしのみっちり2時間の演奏。聴衆は静かにき入っている。演奏が終了してもだれも拍手をしない。そして静かに席を立っていく。これは初めての経験。

シュトットガルトのマーンさんに聞いたら、教会での演奏会は通常拍手はしないものだと教えてくれた。
でも、ロンドンのSt.Martin-in-the-fields 教会で行われている2時からの演奏会(私はここが好き)では、拍手はしている。

バッハ関連ではバッハ博物館や楽器博物館がある。
私たちには日本語の説明書を貸してくれた。
ここはたのしい。
 
ライブチッヒの町は今建設ラッシュ。空をたくさんのクレーンが隠している。一方で今にも崩れ落ちそうな家並みも残っている。これは私の被写体。

旧市庁舎の横も工事中。私たちのお目当てはカフェ・アウエルバッハ・ケラー。ファウストが悪魔メフィストフェレスに連れられてやってくる酒場だ。壁のあちこちにファウストの場面がえがかれている。そしてシューマンやクララ、ワーグナーなども集った場所だ。
旧証券取引所前のゲーテの像にも敬意を表する。

ヴァイマール

ワイマールはゲーテが築いた町と言ってもいい。
ゲーテ追っかけには欠かせない町。カール・アウグスト大公が「若きウェルテルの悩み」を発表して人気作家になっていたゲーテを招いたのは1775年、ゲーテ26歳のとき。はじめは文学者として招かれたのだが、すっかりここが気に入ったゲーテは生涯をここで過ごし、宰相としてワーマールを一級の町にするための努力をおしまなかった。文化行政には傑出した腕をふるった。

ゲーテはナポレオンともここで会っている。
ナポレオンが「若きウェルテル」について論争を挑んだことも語り継がれている。ナポレオンもウェルテルを読んでいたことがうかがえてほほえましい。

またここはシラーもいる。
ゲーテとシラーはお互いに啓発しあっている。
国民劇場の前にはゲーテとシラーの像が立っている。

U_file1200206181826461 ゲーテ博物館、ゲーテハウス。シラーの家(ここでウィリアム・テルを書く)エッカーマンの家、リストの家、クラナッハの絵のある教会、美術館となっている城、と見るべきところはたくさんある。クラナッハ展もやっていた。足を棒にしてあるきまわった。

マルクト広場にあるホテル「エレファント」に泊まろうとしたのだが、あいにくいっぱい。広場は人であふれている。今日はキリスト昇天祭でお休みなのだそうだ。
そこで駅まで引き返し、駅の近くのホテルに泊まり、
ワイマールカード(交通機関・博物館等有効)を買った。私たちにはワイマール憲法としてもお馴染みの町。

でも町は荒れ果てている。お世辞にも美しい町とはいえない。ワーマールは戦災を免れたはずなのに。共産党政権は徹底した中央集権をしいた。東ベルリンにすべてのものが集められ、地方都市はなおざりにされたのだ。
ワイマールも例外ではなかったようだ。この古都はドイツ人の精神のよりどころではなかったのか。

私は壊れかけた家とか、廃墟が好きなのだが、それにしてもこの惨状をゲーテが見たら、さぞかし嘆くだろう。
1999年までに復興予定と書かれた看板が立って工事が行われていた。

ワイマールカード(交通機関・博物館等有効)のおかげでバスも電車も乗り放題、は良かったのだが、行き先を間違えて反対路線に乗ってしまった。
ひとたび市街を離れると、いまにも崩れ落ちそうな家々が並んでいる。人がすんでいないのかと思ったが、屋根にはテレビのアンテナが乱立しているし、車も見えるので人は住んでいるようだ。

これに味を占めて、バス路線をやたらと乗ってみた。
7番の終点まで行くと四角い住宅群。旧ソ連の影響の家並み。通りの名もモスクワ通り、ワルシャワ通り。
中央のゲーテプラッツで2番に乗り換え、終点までいく。今度は古いがいかにもドイツらしい古い家並みの通りを通って行く。終点の名はシェイクスピア通り。

町はずれのゲーテとシラーが眠っている墓地に行った。
広い墓地を二人の墓を探したがなかなか見つからない。
行き会ったドイツ人に訊ねると自分も探しているのだと言う。
ほどなく、その人が大きな声で私たちを呼んだ。
墓地の中にある建物(何回もそばを通ったのだが)の地下に安置所があり、そこは有料だった。
木製の二つの棺は並んで安置されていた。

ワイマールに近くにも強制収容所があったが、ザクセンハウゼンでかなりショックをうけていたので、今回はパスすることにした。

復興なったワイマールをもう一度訪ねてみようと思っている。

アイゼナッハ

ホテル・カイザーホフに宿を取る。荷物を置いて散歩にでる。マルクト広場には市が立っていた。出店がいっぱいでにぎやか。そこで料理に使えそうな木製のヘラとハサミを買った。
 
中央にはゲオルク教会がある。バッハが洗礼を受けた教会だ。

教会の奥に、きれいな木組みの家がある。近づくと、マルチン・ルターの家。ルターが学生時代ここに住んでいた。中に入ると、宗教改革の足跡が説明されている。
それを見ると、この地方と言えども、宗教改革はかなり難航しながら、徐々に広がっていったことが分かる。

帰ろうとすると雨が降ってきたので、近くの店に入って、ハムなど買って、食べている。

ホテルのレストランで食事。旧西ドイツで食事をすると、量の多さに拷問に近いものを覚えるが、
旧東ドイツの方は量が少なくて日本人向きだ。

U_file1200206182207211 翌朝、タクシーを頼み、9時前にはタンホイザーのモデルになったヴァルトブルク城に着く。もうかなり人が来ている。この城は宿泊施設があるから、そこに泊まった人たちかなと思うが、そうでもないようだ。

チケットを買って、並んでいると開門。必ずガイドがつく。勝手に移動できない仕組み。だから10時前には行くようにガイドブックには書いてあった。でないと待ち時間が多くなってしまうからと。説明はドイツ語。

本を読むと、ここはけっこういい加減な領地占有から建てられた城のようだ。しかし、歌合戦やルターが新約聖書をドイツ語に翻訳した城として有名になった。

歌合戦の大広間には「タンホイザー」のシ-ンが描かれている。実際にこの城では歌合戦が行われ、敗者は処刑されていた。文字通り命を懸けた歌合戦だったのである。

ある騎士が歌合戦でオーストリア賛歌を歌い、顰蹙をかった。そこで敗者にされた騎士は、王妃の慈悲にすがって、命乞いをし、一年後もう一度チャンスを与えられたという史実がある。これをモデルとしてワグナーがオペラ「タンホイザー」を書いた。
その中で登場するエリザベートは、ここの王女でマールブルク教会に足跡を残す聖女エリザベートがモデルである。

この城の一角、ほんと粗末な部屋で、マルチン・ルターは新約聖書を10ケ月でドイツ語に訳した。
ゲーテもここを訪れている。

余談だが、ジャガイモと言うとドイツを連想するが、
ルターの時代、まだじゃがいもはドイツに入っていなかった。だから、ルターはじゃがいもの味を知らないのである。

帰り、バスを待っていると、ホテルバスが来て乗せてくれた。しかも、バッハ・ハウスまで回り道をしてくれた。バッハ・ハウスの入り口にもバッハの銅像が立っている。バッハ・ハウスではクラヴィコードや小さなパイプオルガンの生演奏をきかせてくれた。
バッハは大好きである。やはりバッハの音楽は魂にしみる。

FRANKFURT AM MAIN

アイゼナッハからフランクフルトまでIR急行で2時間。旅行記などを見ると、フランクフルトからアイゼナッハに近づくにつれ、家々の様子が貧しくなると書いてあった。たしかにまだ旧東ドイツの住宅は古びたままだ。しかし、逆にアイゼナッハからフランクフルトに近づくにつれ、四角い高層建築が建ち並び、私にはちっとも美しくない。フランクフルトからでなく、ベルリンからはじめた旅のねらいも実は西側の先入観にとらわれないようにするためだった。

フランクフルトは金融の町である。ヨーロッパ中央銀行の所在地でもある。
人はニューヨークのマンハッタンをもじってフランクフルトをマインハッタンと呼ぶ。
フランクフルトの正式名はフランクフルト アム マイン。マイン川沿いのフランクフルトという意味である。
だから合成してマインハッタンともじっているのだ。

大富豪として有名なロスチャイルド家もここに始まる。
フランクフルトのユダヤ人居住区で、ささやかな両替商から発展してロスチャイルド銀行を設立したのが1810年。ヨーロッパはおろか、アメリカ独立戦争にもからんだりして、次第に巨万の富を獲得した。

フランクフルト アム マインはこれで2度目。はじめは空路で。マイン川と大きな発電所が良く見えた。

駅前のICホテルに泊まる。夜だけだとはいえ、ここの部屋は外からの騒音がやかましく、早々にチェックアウトする。駅前の雑踏、さすが大都会らしく行き交う人々も国際色豊かである。そしてホームレスがたむろしている。ドイツは東西の統一で、今は大変な時代であることはわかるが、人々の表情はけっしてよくない。日本人も然りだが。

先ず、ゲーテの家とゲーテ博物館に行く。ゲーテは1749年8月28日、12時の鐘と共にここで産声をあげる。
18世紀、ゲーテの家はフランクフルトでも名家であった。この生家は、第二次世界大戦のよって、完全に破壊され、現在あるのは戦後修復されたものである。とはいえ、忠実に復元され、ドイツ修復技術の傑作のひとつにあげられている。もっとも、調度品や記念品は疎開させてあったので、破壊を免れた。
各部屋には陶製の大きな暖炉。中庭には花々がさいていた。この家はゆっくりとたのしめる。

夕食は韓国料理へ行った。
ナムル、ビビンバ、言葉の知っているものを頼んだ。
韓国人旅行者が大勢寄って、韓国語がとびかっていた。
自分の国の料理が食べたくなるのか、それとも同胞意識なのだろうか。
と考えると、外国でも和食を食べるのは応援にもなるのだろうが、海外で和食を食べたいとは思わない。
帰りの機内でも、連れ合いは和食をもらっても、私は食べない。

ボン・ケルン

時51分発ICでボンへ。
車窓からライン川の流れが見える。ローレライの岩もよく見える。なんのことはない、単なる崖。
頂上には旗が立って、下にはLORELEYの文字が見える。
しかし、連れ合いは待望のローレライに感激している。

9時にはボンに着く。日曜日の朝だ。静かな町だ。
ベートーベンハウスに向かう途中、ミュンスター教会の礼拝に出席していく。ボンもローマ時代までさかのぼれる歴史のある町だが、旧市街は爆撃でほぼ壊滅している。かなり念入りに古いものを復元しているとは聞いているが。
途中、広場には大きなベートーベンの銅像がある。

ボンのような小都市が、旧西ドイツの首都であったのは、あくまでも暫定という意味があったときいている。
首都がフランクフルトのような大都市になったら、いつか東西統一したとき、ベルリンに首都が戻らなくなると言う恐れがあったのだという。

ベートーベンハウスに着くと、鍵が故障しているとかで、入れない。気短な私は帰ろうというが、ぜひ見たいと連れ合いが言うので待っている。結局1時間も待たされた。
ベートーベンもまたバッハ同様大好きな作曲家である。
まぁ、ベートーベンに敬意を表して我慢しよう。

ベートーベンは1770年ここで生まれた。自筆の楽譜、ピアノ、オルガン、大きな補聴器、デスマスクなど遺品が展示されている。興味を引いたのは愛用していた最後のピアノ。象牙の鍵盤がすりへっている。しかも引っ掻いたような後すら見える。
これを見たときは胸が痛くなった。
練習もさることながら、難聴のために、ピアノを引っ掻くようにして弾いたのだろうか。

ボンからケルンへ。
駅前にでんとそびえる大聖堂。聞きしに勝る大聖堂だ。
右上部の修復が行われていた。600年かけて建設されたときいているが、確かにそれだけの値打ちはある。
しかし毎年の保守も大変なようだ。忘れてしまったが、風化と酸性雨の年間の修復費だけでも、かなりの額だった。

ちょうど礼拝の始まるところだったが、あまりにも観光客が多いので、教会内部ががたがたしていたので、早々に出て、聖堂近くの中華飯店から大聖堂を眺めていた。

ベルンカステルクース

コブレンツまでIRで戻り、9番線に乗り換えてヴィットリヒへ。電車はモーゼル川沿いにブドウ畑の傍らを走る。ヴィットリヒからバスでベルンカステルクースへ行く。川のたもとのホテル・ドライ・ケーニッヒに宿を取る。

このホテルは主の趣味なのか、やたらと油絵がかかっている。それも大きい。絵の洪水。しかもあんまりいただけない。ホテルの庭先はモーゼル川だ。窓から行き交う船が眺められる。川はかなり広く、荷物を積んだ船がけっこう往来している。

対岸は市街。正面にラートハウス(役所)が見える。
ちょっと趣のある建物だ。南斜面にはブドウ畑。
その中を通って、丘の上の城まで道が続いている。

U_file1200206181717061 荷物を置いて、日差しのあるウチに町に行き、お目当ての木組みの家々を写真に撮ってまわる。ほんときれいな町並みだ。
ブドウ畑まで行ってみたが、ブドウはまだ芽をだしたばかり。被写体にはならない。

ストゥーブで夕食をとり、モーゼルワインをいっぱい飲んで、ご機嫌でローレライを歌いながら、橋を渡り、ホテルに戻る。夕日に染まる川面を写そうと待っていたのだが、9時過ぎてもなかなか日は沈まない。

日が沈むと、対岸のラートハウス(役所)がライトアップされた。窓にカメラをおき、夜景を撮っている。
おかげですぐ寝るはめになる。

翌朝、早起きした連れ合いが対岸の丘の上の城まで登っていく姿が小さく見える。手を振る。見えたらしく振り返している。
私は橋を渡って、もう一度朝の光の中の木組みの家々の写真を撮りに行く。

モーゼル川の上流はルクセンブルクだ。あそこもよかったなぁ。

ビンゲン

コブレンツ11時発の船に間に合うように逆算して、
バスで間にあわないといけないからとタクシーでヴィットリヒまで行くが、電車が30分以上遅れ、結局11時過ぎにコブレンツに着く。
駅から船着場まで歩いて10分。次の船は2時までない。
2時間以上待って、その上船で5時間も船に乗ることはないだろうと、私は言うが、連れ合いのたっての願いで、ライン川を溯ることにする。

街中に引き返し、ぶらぶらして時を過ごす。売店に「ライン川」という日本語の小冊子があったので買って読んでいる。日本人客が多いんだろう、こんな冊子があるんだから。

コブレンツはライン川とモーゼル川が合流するところである。コブレンツの名の由来も「合流」にちなんでいる。

船が動き出した。川の流れもゆったりだが、さかのぼる船もまたゆったり。乗客たちは甲板でのんびり風にふかれている。
岸辺を走る自転車と同じ速度だ。手を振ると、自転車も手を振り返す。のどか。
待っている間、河畔のホテルでワインを飲んだので、
いささか効いてきたみたいだ。

念願の筈の連れ合いは居眠りをしている。眠気覚ましに、ワープロをあけて、これを打っている。
乗務員が覗き込み、「日本語か?」ときく。彼らには珍しい文字なのだろう。

船の中には食堂もあり、飲んだり食べたりもできる。
ひとまわしてみたが、船内に日本人らしき姿はなかった。
普通はね、川を下るんだよねぇ。
速度が遅いから写真を撮るのは好都合。
甲板を歩き回って、写真を撮っている。

ローレライにさしかかった。
スピーカーからローレライの歌が流れる。
私たちもいっしょになって、ローレライを歌う。
でも、他の乗客はまったく反応しない。
日本では音楽の教科書にも載って愛唱されていたのだが、こっちではそうではなかったのかなぁ。

このあたりは渓谷も深く、両側に城や城址が見える。
ライン川でも景勝の場所。
しかし、この城の目的は川を行く船から税金の取立るためだった。
ローレライよりもう少し上、ビンゲンにちかい中州に「ネズミ塔」と呼ばれている建物がある。
これも関税塔。通行税のことを方言で「マウト」という。ビンゲンのところで書くが、地元民達はマウトをマウスに読み替えたのだという。

リューデスハイムに泊まるつもりだったが、鉄道の便もこっちの方がよさそうだと、思いつきでビンゲンで下りてしまった。
ホテルを探していると、向こうから来たおやじさんが私たちに声をかけた。おやじさんはホテルの主、といっても夫婦ふたりでやっている小さなガルニ。
ご縁だからここに泊まる。でも、二人が一生懸命もてなしてくれた。

船が着いたのが、7時過ぎ、ちょっと町に出たが、
「眠い」と戻ってきてシャワーをあび、そのまま寝てしまう。

朝食のとき、おやじさんがコーヒー豆をひいて、コーヒーをいれてくれた。連れ合いが「美味しい」というとうれしそうに豆の説明をしていた。
「今日はどこへ行くのか」と聞くのでハイデルベルクだと答えると、「自分もここに来る前はハイデルベルクに住んでいた。ハイデルベルクは良い町だ。きっと気に入るだろう」と言った。

荷物を置いたまま、城まで登っていった。城からのラインの眺めはなかなかのもの。城への道には赤いネズミの立て札が、あちこちに立っている。

冊子によると、マインツの大司教はとても強欲な人だった。住民に高い税金をかけ、中洲に関税塔をたて、通る船からは通行税をかならず取り立て、贅沢に暮らしていた。
あるとき、不作で食べ物がなくなって飢え死にする人たちも出てきた。ひもじさにたえかねて、住民が司祭に納屋の穀物を分けてくれと頼んだ。司祭は承知し、住民達を納屋にいざなった。小躍りして住民が納屋に入ると、司祭は戸を閉め、火を放ち、納屋ごと焼いてしまった。

このような残虐行為を神は許しておかなかった。
燃えつきた灰の中から、ネズミの大群が現れ、大司教めがけて襲い掛かった。

身の危険を感じた大司教は小船を用意させ、中洲にある関税塔(ネズミ塔)へ避難した。それでもネズミたちは大司教を見つけ出し、食い殺してしまった。
そしてネズミは一匹の残らず姿を消してしまった、と。

ひどい坊主もいたもんだ、しかし神の名でネズミにしかえしさせるところがなんとも。

ハイデルベルク

今日もいい天気だ。ビンゲンにローカル電車が止まるのは1時間に1本。マインツまで30分、4番線からハイデルベルク行きのIRに乗るつもりだったが、50分も遅れている。その後のECが先に来て、これに乗る。マンハイムの次がハイデルベルク。ここで2泊することにする。
ホテルはゴールデン・ローズ。ビスマルク広場から大学側に入った静かなところにある。

U_file1200206182155311 大学へのにぎやかな通りを通っていく。出店がいっぱい。ハイデルベルクといえば「アルト ハイデルベルク」を思い出す。ゲーテもここで恋をしている。

学生牢が有名だというので、落書きだらけの牢をのぞきにいく。もっとも当時の落書きが、現在のこころない人々の落書きで消えうせていく、ときいている。

ラートハウス(市庁舎)の前で一休みして、ハイデルベルク城まで登る。けっこうこの坂はきつい。汗びっしょりになってのぼる。上に行くと、次から次へと観光客が絶えない。日本人観光客にもここでぶつかる。
いままでの旅で、日本人に会わなかったのが不思議なくらいだ。ツアー客は、私より年配の人たちも多い。
えらいものだ、この坂を登ってきたとは。

城から見るハイデルベルクの家々の赤がわらがとてもきれいだ。緑の丘とネッカー川も雰囲気を盛り上げている。城には薬事博物館もあり、ちょっとたのしい。
噴水の側で一休みし、一杯飲んで元気をつけてまた歩き出す。

他の門から帰ろうとすると、そこにはケーブルもあり、
バスも来ている。なーんだ。みんなバスで来ていたんだ。気がつかないで損した。
ケーブルでそのまま上に行くと、途中乗り換えて山の頂上まで行くことが出来る。乗り換えたケーブルは木製、揺れるとキュ、キュっとなく。
頂上は公園になっていて、テレビ塔が建っている。
2DM払ってエレベーターに乗る。下の町は360度一望にできる。

哲学の道を通って帰る。空は高いのに、いきなり雨がふりだした。それもかなり強い。通り過ごすために、のんびりお茶を飲んで外に出ると、まだ降っていた。
ホテルは近い、濡れて行こう!


シュトゥットガルトのマーンさんに電話をかける。
チュ-ビンゲンへ行くつもりなので、駅でお目にかかれればうれしい、と。
10時06分のECでシュトゥットガルトに行く。
マーンさんが駅に出迎えてくれた。
「チュ-ビンゲンはハイデルベルクと同じような大学の町ですよ。前以て知らせていただければ、おふたりをホーエンツォルレン城へぜひご案内したいんです」と説得されて、車でお宅へ行く。緑いっぱいの環境のいい住まいだ。ご主人はベイルートへ出張中。

たまたま見えていた、ご主人のお母さんにお目にかかる。この方が、と私は思う。向こうはしらない。でも、感じのいい人だ。

玄関を入るとすぐホールになっていて、グランドピアノが置いてある。彼女はピアニストである。ここで仲間達と室内楽をしているのだそうだ。

森の中のレストランでお昼をご馳走になった。
もう一度家に戻り子ども達にさよならを言うと
「もう帰っちゃうの」と可愛いことを言われてしまった。

ここでマーンさんを紹介しよう。
彼女は日本人、川口マーン恵美さんという。
ピアノの勉強にドイツに留学し、ご主人と知り合い、結婚して、ドイツで暮らしてもう20年になる、きれいな、文才のある女性である。

知り合ったのは、県主催の環境視察のとき、彼女の著書「ドイツからの報告」がテキストとして使われた。
シュトゥットガルトでは講師兼通訳、ガイドとフルに働いてもらった。
そんな付き合いから、日本へ来るたびに子ども達をつれて我が家に訪ねて来るようになり、親しくしている。

彼女の著書のひとつ「あるドイツ女性の20世紀」(草思社)は読ませる本だ。
彼女の連れ合いの祖母の生涯を書いたノンフィクションである。ズデーテン地方から引き上げるドイツ人たちの悲惨さはなんともかなしい。
そして一人家族と離れ離れになって、苦労してなんとか家族のもとに戻ってきたのが、彼女の連れ合いの実母、さっきお目にかかった女性である。

チュ-ビンゲンを諦め、ハイデルベルクに戻る。
暑いくらいだ。町を歩いて、昨日のケーキ屋でアイスを食べ、デパートの2階の美容室で二人して髪を切ってもらう。男も女も区別がない。手早くて、切りっぱなしで、不精の私にはラクだった。首から胸に髪の毛が入りちくちく痛い。やむなくホテルに戻り、風呂に入り
洗髪する。8時過ぎ、近くの中華飯店に行く。美味しくなかった。ケルンの方が美味しかった。

フュッセン

9時6分のICでミュンヘンへ向かう。
ミュンヘンは来たことがあるので、今回はパス。
12時12分着。乗り換えて12時57分発でフュッセン行きに乗る。

この路線はローカルでいい。牧草の緑の中にタンポポの黄色が目立つ。遠くに雪の山々が見える。とってもきれいな景色だ。窓を開けて、写真を撮っている。

14時59分フュッセン着。行き止まりの小さな駅。
インフォメイションで宿を紹介してもらう。
ガルニ・エリザベス。シャワー・トイレつきのきれいな部屋をくれた。他は共同シャワー・トイレしかない。

U_file1200206192340521 タクシーでシュバンガウまで行き、馬車でノイシュバンシュタインまでのぼる。

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チェルノブイリ

2006-04-26 21:05:18 | 旅行記 ヨーロッパ

251 桐の花

          

  

        

26クビキリギリス      

             

                                             チェルノブイリ原発事故から20年が経過した。

20年前、原発事故が起こったようだと言うニュースを放射能汚染につながらなければいいが、と心配しながら見ていた。はじめは正確にはわからなかった。次々と少しずつだが、被害状況も報道されるようになった。放射能汚染は拡大し、状況は極めて悪い。それを暗い気持ちで聞いていた。一番気になったのは、放射能汚染された国民の子孫のことだった。テレビの画面でしか知らなかったウクライナやベラルーシが自分の生活とつながってくるとは夢にだに思わなかった。むしろ当時はウクライナやベラルーシよりパレスチナに関心があった。

ベラルーシの子ども達を預かったのは1993年の4月。ほぼ1ケ月。

                                  

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ベラルーシ

2006-03-20 12:25:08 | 旅行記 ヨーロッパ

昨日のNHKテレビでベラルーシの大統領選挙が特集されていた。たぶん、ルカシェンコ現大統領が再選されるだろう。

西側からルカシェンコ大統領は、「独裁者」というレッテルが貼られている。大統領退陣を求めて、ベラルーシ始まって以来の大規模デモだと、デモをする人達が映し出されていた。デモをする人達が持っている旗に目が行った。白と赤の、あれは旧国旗だ。

今日の新聞で、ルカシェンコが圧勝したと報道されていた。反政府側の集会では選挙は茶番だ、不正がある、認められないとコメントしている。

私達が2度目にベラルーシを訪れたときはちょうど大統領選挙だった。投票所にも行って写真を撮ってきた。その時選ばれたのがルカシェンコである。ルカシェンコ政権はあれから12年経ったということになる。次に行ったときはこの現大統領が国旗と紋章を変更すると国民投票を行うべく、国民に同意を呼びかけていた。テレビは終日、国民の疑問に答える大統領の様子がこれでもか、これでもかと放映されていた。一見民主的なように見えた。しかし、それは反対意見を封じ込める手段でもあった。その後の大統領のやったことを見ていると、決して民主的ではない。西側が「独裁者」というのは納得できないわけではない。私個人としてもルカシェンコは好きではない。しかし、だからといって西側の論理で独裁者=悪とかたづけてしまっていいものか疑問に思っている。まして、イラクやアフガンの二の舞になっては困る。

国民投票のとき、市民からこんな意見を聞いた。「ベラルーシ国民は長い中央政権に慣らされてしまっているので、民主主義がわからないのだ」と。

ルカシェンコ政権は旧ソ連のようなシステムを復帰させたいのだろう。ソ連崩壊で目減りしてしまった年金なども復活させているようだ。その反面、人権侵害。反対派は押さえ込んでいるようだ。そういうやり方が独裁者と言われる所以でもある。なんか旧ソ連時代の暗部を連想させられて気持ちが悪い。

とはいえ民主化路線をすすめるロシアとは、これから上手くいくとは思わないんだが。今のところベラルーシは西側との水際にあるから、ウクライナ同様切り離すわけにはは行かないロシアの後押しはあるとしてもだ。

ベラルーシの民主化の旗を振るNGOには、裏でアメリカ政府が出資しているそうだ。代理戦争になりかねない臭いもする。7月ベラルーシを訪問する予定だった。ベリキボールのエレーナのパパとママの病気を見舞いたいと思っていたが、やめにしよう。待ってくれている人達には申し訳ないが。

記事から:

旧ソ連に属していたが、1991年8月に独立宣言。同12月に独立国家共同体(CIS)創設協定を締結した。ルカシェンコ氏が94年、ロシアとの関係強化を掲げ大統領に初当選。96年、大統領の任期を延長し、2001年に再選された。野党指導者や民主化デモの厳しい弾圧で「欧州最後の独裁政権」と呼ばれる。04年10月には国民投票により憲法の3選禁止規定を削除。しかし、欧州安保協力機構(OSCE)の監視団は01年選挙と04年の国民投票を不公正と批判している。(共同)

【ブリュッセル20日時事】欧州連合(EU)は20日の外相理事会で、前日行われたベラルーシ大統領選に関して国際監視団が不正を指摘したのを受け、同国に対する制裁措置の拡大について検討を開始した。
 この日は、監視団を派遣した欧州安保協力機構(OSCE)からの暫定報告に基づき、議長国オーストリアが「ベラルーシ当局の孤立政策」に遺憾の意を表明。現在実施している一部当局者への渡航禁止の対象拡大などについて検討に入った。 
(時事通信) - 3月21日7時1分更新

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オーストリア・チェコ

2005-05-18 16:42:10 | 旅行記 ヨーロッパ

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プラハの街角で

2003年9月22日(月)

午後から成田へ出かけていく。ここ10年ぐらい、お昼ぐらいのフライトなら朝が苦手の私としては、成田でホテルに泊まることにしている。今回はフライトが10時10分だから、papasanの希望の窓際の席をとるためには8時10分までには行かなければならない。家からとなると、とても起きられない。

道路状態もよく、比較的早くついてしまった。半袖シャツで来たので、ここで着替えて車においていく。

食事の前に最上階にあるバーへ行った。食事は和食で日本酒を飲むから、カクテルはそうは飲めない。軽くジンフィズを飲みながら夕日の飛行場を眺めていた。毎度のことながらマッサージをしてもらい、眠りに着く。

9月23日(火)
起床5時半。支度をして車に残していく荷物をしまい、6時過ぎ朝食に行く。

7時前にチェックアウトに行くと空いていて6時55分の空港行きのバスに間に合ってしまう。15分ぐらいで第二ターミナルにつく。まだ係りは来てていない。私はふらふら歩いている。ウィンドサイドの席を確保するためにpapasanは並んでいる。オーストリア航空の座席は2,4,2だからウィンドサイドだと気はラク。

係りが来た。ウィンドサイドはいいところはほとんど他の会社の団体に占拠されているという。でも翼の近くがあったので、ひとますはほっと。ところがその後がいけない。機材搬入遅れだとかで、飛行機がウィーンを発つのが大幅に遅れ、その影響でこちらにつくのが午後、出発は13時10分になるといって、千円の昼食券をくれた。papasanはこんなこと初めてだが、私はネパールへ行くとき7時間も遅れた経験がある。

忘れたものはかなりある。なんとトーマスクックを入れ忘れた。成田で泊まったときに整理すればいいといいながらガイドブックは数冊入れたら、papasanが今回はドイツはやめようと言い出した。「35日フランスにいたけど回れたのはあの程度だったから、ドイツも30日くらいかけてドイツの田舎だけ回ろうよ、ドイツは春がいいね」Chopinさんやらじさんのドライブを吹聴した効果があって、papasan、車でまわる気になっている。もともとヴァイマールがどうなったか見たいから、またヴァイマールに行こうと言い出したのはpapasanだ。「いいよ、ほんとは2週間じゃぁ、チェコとオーストリアだけで手いっぱいだよ」
そこで今回は数箇所で、のんびりしようと言うことになった。だからドイツのガイドブックは着替えの中に入れて車に残してきた。

いつもカメラバッグに入っているので安心してたが、靴べらもない。おや折り紙もない。そこで二階へ買いに行く。トーマスクックは本屋にあった。私がミスしたので私が買う。時間があるので、ユーロを少し買った。バス代が必要だからと。

9時から11時まで、出発の入り口は列が幾重にも出来、まるで最終日の展覧会場みたいに混雑している。何回も空港に来ているがこんな情景は初めてだ。11時になれば行列も空くと言うので、椅子に座って待っている。私はふらふら歩き、どこかにPCがないかと探している。宣伝のスクリーンで1階の到着ロビーにPCがおいてあると見たので探しに行く。あった、あった、2台。一台は外国人女性が使っている。横文字が並んでいるのが見える。となり座って、100円を入れ、文字のツールバーがどこを探しても現れない。教えてもらおうときょろきょろしたが、まわりに人がいない。まさか隣の外人さんに聞くわけにもいかないし。あちこちいじったが見つからないのでしかたなく、英文で数行うちこむともう10分経ってしまった。
中に入れば、きっと日本語の出来る機種があるだろう。やれやれ。出発の成田からもう躓いている。

お腹はすいていないがもらった食券で、二階で軽くザルソバを食べた。東京駅の地下にあるそじ坊がここに入っている。だから期待したんだが、期待は裏切られた。この店はどこも生わさびをつけているが、それはここにもあった。papasanがすりおろして鉄火につけてよろこんでいる。

ようやくチェックを受ける。シールバッグに入ったフィルムを2袋、トレイに載せる。フィルムは例によってひとつずつふたを開けて全部調べられる。係りに「ひとつひとつご苦労さま、でも、こんなことするの日本だけですよ」っていうと「そうなんですか」と若い係員がびっくりしたように言う。「別に協力は惜しみませんけどね」とは言ったものの、シールバッグの中にきちんと並べてあったフィルムはぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃでもいいんだけど、バッグに入れるときかさばってしまうんだなぁ。

B71,待合室のコーナーにノートパソコンが一台置いてある。使っていいものらしいが、外国人女性がずっと使っているので試せない。トイレに行って戻ってくると、今度は外国人男性が。とても割り込めない。先回アリタリアの搭乗口近くに10分100円のPCが数台あったから、どこかにあるのではないかと探しに行くが見つからなかった。だったら、あそこでもう少し遊んでくるんだったな。

今回から綿シャツの上に網製のポケットがたくさんついたベストを着込んだ。中村さんからのプレゼントである。ノート、文庫本、めがね、お腹に入れるものをやたらと入れてある。阿刀田高の「新約聖書を知っていますか」を読み始める。実におもしろい。

12時すぎ、見覚えのある機体が入ってくるのが見えた。「ああ、来た、来た。これでどうやら出発できる」と騒いでいる。

席は31のJK。翼のすぐ後ろ。なんとか地上は見える。いつものようにウィンドサイドはpapasan。だから私は外を見ようともしないが、ときどきここはどこだと言う声に外を見る。沿海州からハバロフスクをぬけていく。高い山々は粉砂糖をまぶしたようにうっすらな雪を被っている。きびしい冬の到来が近づいている。シベリヤの内陸部は一面カバ色。光をうけて、もそもそと土くれが重なり合っているように見える。その中をうねるように蛇行する川の流れ。あの色なに?と驚いたが、きっと木々の葉が褐色に変わっているんだろう。ここらへんはタイガだと思っていたけど、落葉樹も多いんだ。

papasanはトイレに行く、散歩に行く、と言っては何回も席を立つ。そのたびにどかされるので、ウィンドサイドを私が取る。
ウィンドサイドの方が風が通って寒い。

ほとんど厚い雲に覆われて下界は見えなかったが、大きな川を見た。白い旅客船も何隻も見える。ここらへんで大きな川、ボルガかな、とするとあの大きな市はモスクワかな、などといいながらのぞいている。たぶん、あれはソ連式のアパート群だと思うが同じような長方形の建物が並んでいる。ミンスクのデニスの団地を思い出し、みんなどうしているかと話し合っている。来年こそはまた訪ねてみよう。

あっ、ドナウ川だ。この畑のさま。なつかしのウィーンだ。おや、風力発電が増えたなァ。ヨーロッパは二酸化炭素対策を確実にすすめているようだ。17時50分、ウィーン到着。イミグレイションでパスポートを出すと、ガチャンとスタンプを押したような音。あれ、スタンプ押してくれたのかな。

シティターミナルまでのシャトルバスがちょうどあった。2人で12ユーロ。夕暮れ迫るウィーンをきょろきょろしながら行く。
シティターミナルはヒルトンホテルの横。ヒルトンは改築中。

橋を渡ってリンクを抜けて、ステファンドームの横を通って、ホテルを探しにステファンスプラッツへ。広場にはいつになく大勢人が出ている、大道芸もやっている。あたりはすっかり暗い。でもウィーンには隣町に来たような安心感がある。ペストの記念碑の近くグラーベンに「ホテル グラーベン」がある。「部屋は狭いけど、ここでいいよ」ここに泊まるのは何度目だろう。
部屋はあった。1泊170ユーロ。高いけど、しかたないね、とチェックインする。同じ飛行機の日本人の二人連れも。その後、前の席にいたお兄さんもここに来た。部屋は34号室。狭いと思っていたら、広い部屋だ。グランドピアノもある。だから高かったのかな。こんなものいらないのに。ピアノを弾くと、鼻づまりの音がした。
1
ペストの碑

カメラを持って、なにか飲んでこようと外に出る。目の前がペストの碑だからにぎやかだ。修理中のステファンドームの写真を撮ると雨粒がぼつり。おや、雨だ。言ってる間に降る量が増える。こりゃいかんとホテルに引きし、ホテルのトラットリアでワインを飲む。
1
グラーベンのショーウィンドー

9月24日(水)
1
夜のシュテファンダム

早く寝たので夜が長い。何回も目を覚ます。しかし、起き上がって何かしよういう気力はない。6時ベッドを抜け出し、日記を書き始める。まだ外は暗い。「7時だよ、朝食にいこう」といわれ、あれ、もうそんな時間なんだと気がつく。

朝食後8時すぎ、カメラだけ持て町に出る。小雨が降っている。半袖の下着に綿のブラウス、網のベスト、いつもの裏つきのゴルフジャケット。レインハット。papasanは綿の下着に綿の半袖のシャツ。薄手の防水のジャケット。羊毛のハンチング。ケルントナー通りをオペラ座に向かう。記憶がよみがえる。けっこういろいろ覚えてるもんだ。オペラ座でスケジュールを調べる。27日にトスカがある。29日はフェードラだ。チケットを買ってもいいんだけど、帰ってこれるかな。27日どこにいるかわからないが、そのために帰るのは面倒だ。

いつもウィーンでの事始はリンクを回るトラムに乗ることだ。一周して来て、モーツァルトの像の前で降りる。寒い。セーターを着てこよう。公園の中を歩いてホテルに向かう。ハトがいる。池にはアヒルもいる。ポケットからパンを出してちぎって与える。雨はぽつぽつ。戻るともう部屋の掃除は済んでいた。

フロントでプラハへの行き方を聞くと、南駅発で直接プラハへ行く電車があると教えてくれた。そこで南駅まで明日のチケットを買いに行く。今度はデメルの前を通って。papasanが「デメルはこっちじゃないの」と反対方向を指差す。「いいえ、こっち。方向音痴だけど、この町だけは任しといて。ほらね」「おそれいりました」でも、デメルはまだ開いていない。この頃はそんなにデメルで食べたいとは思わない。カフェ・モーツァルトもザッハーも素通り。

途中、演劇の広告で今夜アンティゴネーがフォルクス劇場であることを知る。チケットを買いに入るとキャッシュ・オンリー。一人42ユーロ。キャッシュの持ち合わせは45ユーロしかない。ATMを教えてもらい、そちらの方向に歩き出す。ところが道を間違えたらしく、教えられたところにはない。しかないないのでアンティゴネは止めにする。しばらくしてバンクを見つけキャッシュを下ろすことが出来た。

「まかしといて」と言っていたのが、ここでミス。こっちだと頑張ったら、元に戻ってしまった。あぁ、ぼろが出ちゃった。でもステファンドームがあるから、迷子にはならないね。ムジーク・フェラインの予定も見てこよう、と再び歩き出す。途中、インペリアルでお茶とアプフェル・シュトドゥーデルを食べた。以前はケーキを何種類もとって、My mainなんてしゃれてたけど、もうそんなには食べられない。ここの紅茶もティーバッグ。アプフェル・シュトドーデル、うん、いまいちだ。パラチンケンにすればよかったかな。

歩くと暑い。ここでセーターを脱いでしまう。余計な荷物になった。ムジーク・フェラインはすぐ隣。今夜の演奏はない。27,28日にムッテイ指揮があるが売り切れの表示。ウィーンに来る楽しみは音楽会なんだけどなぁと残念がっている。ついでにセセッションでベートーベンフリーズを見る。クリムトがベートーベンの第9、歓喜の歌を象徴したものだ。

南駅へ明日の10時25分発プラハ行きのチケットを買いに行く。南駅まではオペラ座前からトラムDで。途中べルベデーレを通る路線。かえりDがどこまで行くのか乗ってみることにする。行き先はNussdorf。おや、フンデルトワッサーのごみ処理場だ。行き先を読んでいたpapasanが「ベートーベンガンク(ベートーベンの小道)って書いてあるよ」という。外を見るとなじみのある風景。「ここはハイリゲンシュタットだよ。ベートーベンガンクがあって当然だ」今日は天気が悪そうだから郊外へ出るのを止めていたんだけど、雨は上がり日も射し始めた。おやまぁ、いつも乗ってたのはDじゃなかったと思うけど、また来ちゃった、ご縁があるね。

終点で降りてベートーベンガンクを歩き始める。趣のない小川沿いの道。コンクリートで固めた川だ。もうすこし環境を整えればいいのに。日本人のご夫妻はそっちへ向かうが、途中で私たちはエロイカガッセに向きを変える。思い出した、この道。この家、前はこっちから上ってきたんだ。あっ、このレストランで食事をしたんだ。じゃぁここで食べようよ。入ろうとすると、レストランは閉まっている。休みなのか、閉店してしまったのか、人の気配はまったくない。

レストランをすぎ、坂を下ると、ベートーベンの絵が描いてあるレストラン、この前もここで写真を撮ったよ。入ろうかと、のぞくと開店は18時から。幼稚園の横をのぼり、セントミカエル教会で思い出したように中に入って、マリア様にお天気をお願いをする。

EINBARNの標識を追ってやっと38番の電車に出会う。「この電車、町まで行く?」と車掌に聞くと「ヤー」フンデルトワッサーのゴミ処理場を左に移動して、リンク傍の二つの塔のあるヴォーティーフ教会まで来る。うん、来た来た、と、電車はターンして、いつしか中心から離れて行く感じ。私はこの電車が南駅に行くものだと信じているから、なんの不安もない。「ウィーンってには、なんか隣町に来たような安心感がある」なんて言っていたら、電車はまたフンデルワッサーのゴミ処理場の方へ来た。あれ~、また、間違えた。やっぱり、7年ぶりはおのぼりさんだ。あわてて降りて引き返し、教会近くで下り、リンク2に乗って戻る。
「フンデルトワッサーのゴミ処理場、見学出来るんだよ。ウィーンに戻ったら行ってみようよ」

夕べにつづいてトラットリアへいく。このホテルはイタリア系だから、レストランはイタリア料理。キャンティを1本取って、私はスパゲティ・ポモドーロを頼む。papasanはピザ。ソースは美味しかったが、パスタは柔らか。以前はそんなことなかったのに。「ソースは美味しい」というと「サンキュー」というから「でも、パスタがアルデンテでないよ。私はアルデンテが好きなの」うるさい客だ。

9月25日(木)
雲ひとつない快晴。マリア様の霊験はあらたかだ。7時過ぎ食事を済ませ、時間があったのでステファンドームに行ってマリア様に感謝し、またまた今日のお天気を願う。

9時過ぎグラーベンを出て、オペラ座に向かう。オペラ座からトラムDで南駅へ。電車で1駅分のチケットを買おうとしたが、紙幣しかない。紙幣はダメとのことで、南駅でおりて急いで売店で買ってもって行くが、運転手が代わってしまってわからないという。また帰って来てから使えると、そのまま貰っておくことにする。

10時25分ブルノ経由ハンブルク行きのEC,ファーストクラスだ。コンパートメントには私たちしかいない。ピーと言うホイッスルと共に発車。めずらしい、こんなホイッスルを聞くのは。車窓から広がる麦や牧草地を眺めている。ブドウ畑もある。道に沿うはポプラの並木。並木道に背の高い木を植えたのは日陰が出来ることもあるが、目印にもなったのだろう。ヨーロッパの風景だ。刈り取られた麦畑ではたくさんのハトがなにかさかんに拾っている。ハトの落穂拾いだ。畑の上を舞うのは小さなタカ。ネズミや小動物がいるのだろう。あれ、ウサギだ。茶色の野ウサギが向こうを見ている。

ほどなく二人連れがパスポートチェックに来た。オーストリアのチェックだ。電車マークのスタンプを押してくれた。そしてチケットの検札。続いてまたパスポートチェック。まだオーストリア領内なのに、今度はチェコ リパブリックのチェックだ。チェコに入ってまたチェコの車掌のチケットの検札。もうこれでいいだろう。すると今度は女性が入り口に立っている。「何ですか?」ときくと「マネーチェンジ」に来たのだという。ちょっと危ぶんだが、駅にATMがないと電車代に困るので、50ユーロ両替してもらう。率は悪かったかもしれないが、これが大いに役に立った。

チェコに入ってから列車のスピードがぐ~んと落ちた。広軌は同じなんだが、なんでだろう。チェコに入ってからは日本みたいに山と言うか切通しを縫って走る、そのせいかも。プラハ近くなってまたスピードが出た。

papasanは持参のウィスキーを飲み干して酔っ払って寝てしまった。時間あるから大丈夫だと言って。成田で買ったときから心配していたのだが、まったく困ったことだ。プラハ14時59分。到着1分前にトイレに行ったきり戻って来ない。到着してみんなが下りはじめたので、荷物を全部持ってひとりで降りる。荷物をおいて探しに行くわけにいかず「papasan!」と大声で呼んでいる。ようやく、姿が見えた。「終点じゃないの?」と言いながらやっと降りてきた。「次はドレスデン。ベルリン、ハンブルクまで行っちゃうよ」と怒鳴っている。

駅は本駅ではなくホロショビッツ駅だ。そっと寝かしておいたのだが、ウィスキーを半分開けたのだから無理はないが、酔っ払いは回復していない。歩くのもやっと、ふらふら千鳥足。仕方がないので、大きなバッグは私が持つ。本当なら地下鉄で行くところだが、タクシーでヴァーツラフ広場まで来る。500コルナ。1コルナ、約4円。ボラれてるかもしれないが、酔っ払いがいてはしかたがない。

ヴァーツラフ広場は、なにこれ!というくらい人、人、人。まるで革命の日みたいだ。ホテルを1軒ずつ当たるがどこも満杯。
一日なら部屋があると言うが一日ではと困ると捜し歩く。かなり歩き回った。一軒の小さなホテルで、ここはないが他を探して、地図を書いてくれた。聞き聞き歩いたのだがそのホテルはとうとう見つけられなかった。
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途中で見かけたホテルROTTできくと3晩はダメだが、2晩ならいいというのでそこにチェックインする。部屋は1泊240ユーロ。シーズン料金で高いが、しかたがない。チェックインにいらいらするほど待たされる。やっと部屋のカードを貰い、エレヴェーターで3階に上がる。エレヴェーターもカードを差し込まないと乗れない。これはオスロで経験済み。省エネで廊下には明かりはない。小さな電灯を押すと廊下の電気はつくようになっている。フランスでこういうスタイルに出会っている。

部屋はきれいだが、バスタブはなくシャワーだけ。テレビでインターネットが出来るようだが、どうすればいいのかわからない。自分のPCが接続できるように差込口もある。設定の仕方も書いてはあるが、説明はチェコ語だから全く読めない。残念だが私はまだ使えない。先ずはカメラを持って散歩に出る。tean
ティーン教会

ホテルは旧市街広場の近く。うん、こっちの方がむしろ観光には便がいい。旧市街広場には屋台が並び、仮設舞台がつくられ、そこで若いミュージシャンたちがうるさいくらいのボリュームで騒音を流している。黒山の人だかり。2頭立ての馬車に乗った。700コルナ。川岸の市民会館の前まで行って、ベツレヘム礼拝堂の前を通ってきただけ。な~んのこっちゃ。高いなァ。広場の入り口には旧市庁舎。人形が出てくるらしくみんながたかっている。5時10分過ぎ。人形を見るにはまだ時間がある。市庁舎の上に上れるみたいなので、インフォメイションに行くと、5時で終わりだと言う。9時から5時までとのこと。
広場の正面には双塔のティーン教会。広場も通りも、なんせすごい人ごみ。人の流れに沿って歩いていくと火薬塔に着いた。そこを抜けると、きれいな建物にぶつかった。ガイドがさかんに団体客に説明している。私も写真を撮っている。

とその建物の前に明晩のコンサートの案内。演目はモーツァルトとベートーベンだ。二人で話していると、男性が「いかがですか」と声をかけた。「どこでやるの?」ときくと、今写真を撮っていたこのきれいな建築物だと言う。「ここコンサートホールなの?」男性はにこやかに「イエス」。「チケットはどこで買うの?」「ここです」といって私たちを建物の中に誘った。チケット売り場がある。会場写真をみせ、どこがいいかという。舞台の前が1300コルナ。両サイドが1000コルナ。センターが800コルナ。センターのベストサウンドの席がいいと買うと800コルナの席だった。VISAもOKだったがちょうど1600コルナ持っていたのでキャッシュで払う。明日が楽しみだ。
ATMを見つけお金を下ろすと2千まで。やっと3千下ろした。やだなぁ。両替はたくさんある。日本円もある。しかたがなければ日本円を両替すればいい。
squire
旧市街広場

食事をしたいが、旧市街広場のまわりはうるさくてイヤだ。ホテルの隣がレストラン。Traditionalと書いてある。入ってみた。
「予約は?」「いいえ」というと地下の穴倉のようなつくりの部屋に連れて行かれた。メニューには日本語もある。ということは日本人客も大勢来るのだろう。隣の部屋でショーがあるのだろう。民族衣装に着替えた男女が待っている。ショーは予約じゃなければ見れないのかも。シェフお勧めのメニュー。牛肉のピリカラ。と骨つきポーク。ピリカラはビーフを小さく切ってトマトソースと唐辛子で煮込んだもの。それを大きなパンの中に入れて出てきた。その大きさに先ずはうんざり。付け合せにピクルス。紫キャベツの酢漬け、サニーレタス、パプリカ、これもたっぷり。さらにびっくりは骨付きポーク。一本そのまま上にナイフとフォークを刺して皿にのっている。見た目も山賊料理みたい。味はなんだろう、ナイフで一口そいで、ポークの味にうんざり。papasanと取り替えてもらう。小さなパンがいくも出たので、それにビーフを載せてたべている。キャベツの酢漬けはいける。papasanはビール、私はワイン。Traditionalはもうパス。二人ともほとんど食べられない。なにか舌にあうもん見つけなければ。上はガラス製品のお店。お土産にボヘミアングラスを買って帰ろうと思ったが、すこぶる高い。

9月26日(金)
7時朝食へ行く。昨日のことがあったので、期待していなかったがここの朝食も美味しい。ハム類の味は悪くない。小さなパンも美味しい。パンをひとつハトのためにポケットに入れる。8時前にはホテルを出て、昨日見つけた建物の写真を撮りに行く。なんせ今回の目的はバロックやロマネスク、アールヌボー様式とりどりのプラハの建築物をみることだから。カレル橋のひとつ上の橋を渡って遠くからカレル橋を写す。朝のせいか観光客はまだ少ない。モルダウの流れがきれいだ。

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プラハ城から

プラハ城に向かって坂を上っていく。結構距離がある。タクシーで上って歩いて降りてこようといったのだが、歩かされる羽目になってしまった。城に入ろうとするとちょうど衛兵の交代式。ミーハーになって写真を撮りながら交代式を見ている。
交代式はあっちこっちでよく見るなァ。ここの一室でハベル大統領が執務していると「プラハを歩く」に書いてあったけど、
どこかなぁ、ときょろきょろしながら入る。まずはヴィート大聖堂へ。ここで城内の見学場所の共通券を買う。チケットを示すと、はさみを入れてくれる仕組み。一人220K。ステンドグラスがきれいだ。聖堂でマリア様にお礼と更なるお天気のお願いをする。聖堂の奥はさっきの共通券が通用する。次はバッロック様式の聖イジー修道院。そんなに大きくないが、シンプルでやさしくってとてもいい。板張りの天井もいい。

黄金のの小道、ここは小さな工房が並んでいる小道。織物、ガラス、陶器、人形、楽器などなど、ここの生産物はギャラリーで売っている。この小道は絵になると言いながら写真を撮っている。またまた聖堂近くまで上り、旧王室や天文などの資料の入っている塔をみてまわる。疲れた、足が痛い。なんてたって、石畳の道だ。足には優しくない。

下に降りて電車でさっきの上り口まで戻り、カレル橋をわたる。橋の両欄干には彫像がいっぱい立っている。売店もいっぱいある。なんともひどい絵を売っている。写真も並べてある。名所だから仕方がないが、人、人、人。モルダウの流れをのぞくとカモたちが流木よけの木組みの上で眠っている。ポケットにあるパンを投げると、目ざとく見つけたユリカモメが取りに来た。そうだ、そうだ、今朝のパンもある。全部やってしまった。

川沿いのスメタナ記念館を探す。テラスにはスメタナの像があるが、まわりはレストランだ。まずはお茶を飲む。papasanはビールだ。記念館はこのレストランの2階。下でチケットを買う。ひとり50k。上に行くとカメラ代が必要だと言うが、写真は撮らないといカメラのメイン・スウィッチをきる。資料と言ってもさほどのものがあるわけじゃない。自筆のスコアのコピー。
両親の写真などなど。音楽は流れていない。音楽家の記念館なら、先ずは静かに作品を流すべきだよ、文化がないね、
と文句を言っている。言葉(英語)が通じたらきっと文句を言ったろう。スメタナやドボルザークはチェコを代表する作曲家、プラハの春の音楽祭にも大々的に使われているが、それにしてはこの記念館はお粗末だ。スメタナ記念館がこんなていたらくじゃ、ドボルザーク記念館も、今夜の音楽会も期待薄だ。
plahacasle
プラハ城を臨む

本駅の方に歩いていき、ミュシャ美術館を探す。ヴァーツラフ広場のもうひとつ向こうのとおりを戻ったところ。すぐわかった。ミュシャのデザインはよく知っている。でもこれだけそろっていると彼の世界に入れるから印象はとてもいい。この人あたりからグラフィックデザインができたんだろうとポスターを見ながらつぶやいている。有名なサラ・ベルナールのポス多ーも何枚もある。でも彼女がハムレットをやっていたのはしらなかったな。彼女が愛した別荘はベル・イルにあり、行ったことがある。

ミュシャを見て旧市街広場に戻り、インフォメイションで明日のバスターミナルを教えてもらう。隣の食堂で昼を食べる。
思い出して市庁舎の塔に上がる。一人40k。3階がチケット売り場。3回までもエレヴェーターがあったのだが、気付かずあるいてしまった。階段上りは足の弱い私には一番きつい。ぶーぶー。3回からはエレヴェーターがある。エレヴェーターのまわりを回り道ができている。スロープはゆるやか。これなら歩けそうだ。かなりの人が歩いている。

塔からの眺めはいい。足がすくむ。お尻がもぞもぞするがこらえて大好きな構図、屋根、甍の波を撮っている。正面から光が当たっているところは平面になってしまうので、ぐるっとまわりながら、光のいい場所を選んでいる。赤い屋根が重なるサマはいつもいい。

エレヴェーターで降りる。下に来て15分待って4時の市庁舎の天文時計を見る。ホテルに戻り洗濯をしシャワーを浴び、コンサートまで一休み。
whatSthis
この人たちはなに?

7時、寒くないように着込んでコンサート会場へ行く。ここに来てやっとこのコンサート会場がスメタナ音楽ホールであることにきがつく。内装のデザインはミュシャ。これはさっきのミュシャ美術館で知ったばかり。天井画は彼の作だ。会場にあわせてあるから色も飛びださず、しっくりしている。いい雰囲気だ。ミュシャで思い出した。プラハ城の大聖堂のステンドグラスもミュシャのデザインだった。

やっと演奏が始まった。ホールの反響はさすがにいい。それにしても、まぁ、なんてヴァイオリンの音のお粗末なこと!ウチにもチェコのヴァイオリンあるんだけど、チェコのヴァイオリンはいいんだけどなぁ。それにここにはヤナーチェク四重奏なんてすばらしい演奏者たちがいたのに。ヴァイオリンとビオラのデュエットもかみ合わない。ぶすぶす怒っている。演奏中、チェコの音楽家が冷遇されていた頃の映画、教会で聖歌を歌いながら前の女性のお尻を触っていたそんな場面を思い出した。劇作家のハベルが大統領だから、芸術は冷遇されていないと思うんだけど。あぁ、口直し、ならぬ、耳直しが必要だ。
プラハは2日しかなくて、却ってでよかったよ。

9月27日(土)
owl

7時食事。8時過ぎチェックアウト。タクシーは?とフロントに聞かれたが、歩くと言って、本駅まで歩く。これは失敗。ロングウェイだった。途中、道を間違えて、人に聞き聞き行った。年配の人は英語もドイツ語も通じなかった。学生はさすが、英語が通じた。駅に着いたのは8時45分。チケットを買い、5番線ホームに行く。もう列車は着いていて、コンパートメントに空きはない。ノースモーキングの、男性が一人のコンパートメントに挨拶をして入る。土曜日のせいか、客は多い。続いて女の子を二人連れた母親と女性が一人入ってきた。彼女たちは先にいた男性とおしゃべりをしているが、チェコ語はなんいもわからない。
sisters

二人の女の子は本を読んだりしているが、あきたみたい。そこで折り紙を取り出し、ツルを折ってやる。「これなんていうの」と聞くと「チャープだ」と答える。ただし、これがツルのことだか、コウノトリのことだが、定かではない。「作ってみる?」ときくとお姉ちゃんが作るというので、風船から教える。器用な子で上手に折る。そしてすぐに覚えてもう一人の女性に教えている。お母さんは折り紙を知っていて、ノートを破って、やっこさんを折って見せた。それを私が帆掛け舟や、二艘舟、はかまなどに変形させて見せる。お母さんともう一人の女性は英語を話す。お姉ちゃんの方は13歳、7年生だと言う。チャープがツルかお母さんに確認するのを忘れてしまった。

私たちがチェスキークロムロフへ行くのを知ると、自分たちもダンスの公演にチェスキークロムロフへ出かけるのだという。
そして本番は明日の11時だが、今夜6時からのダンスの練習をするから見に来るようにと誘った。それはいい、行って見よう。ノートに場所を書いて渡してくれた。隣のコンパートメントでは仲間たちがギターの伴奏で歌を歌っている。巨体の男性、ほっそりした若者、若い女性たちが4人、ダンスの先生と年配の女性、その中に割り込んで、私たちも一緒に歌う。
チェコの民謡、なにか知っているようだけど思い出せない、「気のいいガチョウ」は違ったかな、でもいい加減にあわせているだけでもたのしい。

日本の歌を歌ってくれと言われたので、何曲か歌った。papasanの声を聞いて「コーラスをやっているのか?」と聞く。
男声コーラスにいたというと、「パートは?」「バリトン」簡単な日本の曲を教えてくれと言うので「蛙の歌」を輪唱で歌わせる。何回も何回も、大笑いしながら繰り返した。向こうもなにやらたのしい歌を教えてくれた。何回もかけあいのように繰り返すので、そのときは覚えていっしょにくちずさみ、「意味はなんていうの?」ってきくと、男性は「女性が必要、必要」と歌い、女性は「男性が必要、必要」と答えるのだと言う。こんな様子だったから、この人たちは旅芸人かと思ってしまった。

あまりにもたのしそうなので、隣に座っていたおじさんまでのぞきに来た。席に戻るとそのおじさんが去年の洪水の話をしてくれた。ここら辺でも7mもの高さまで水につかったという。へぇ~、7mも。2階ぐらいまで水に浸かってしまう。大変だったのだなぁ。

チェスケーブジョビッチで下り、私たちはバスでクロムロフへ向かう。彼女たちは電車かも。バス代は中で払う。二人で55K。バスに乗り約40分。終着駅に着く。荷物を引きずりながらみんなの後をついていく。下に見える町並みは美しい。カラフルな塔を中心に赤い屋根と白壁の家々。蛇行するヴルタバ(モルダウ)川の流れ。まだ緑を残している木々。絵になる風景だ。ここは1992年に世界遺産の指定を受けている。
childdance

町に下りながらホテルがあったので聞くがフル。おやまぁ。今日は土曜日だから危ないとは思っていたけど、さっそくダメだ。次に見つけた

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北欧記

2005-05-15 17:50:57 | 旅行記 ヨーロッパ

nakaniwakara
市庁舎の中庭から

2000年7月4日
成田10時15分発KLM。いつものシベリヤルートでアムステルダム3時着。4時20分アムステルダム発。空から見るスウェーデンは森と湖がなんとも美しい。ストックホルム6時半着。まだ日は高く、しかも暑い。

空港からバスに乗ると、運転手は女性。高速道路を100キロでぶっ飛ばす。中央駅に着き、ホテル・スカンディック・コンチネンタルを尋ねると、教えてくれたが、よくわからない。中央駅の正面へ行くと目の前がホテル。すべて順調。部屋に入ると、テレビがついていて、しかも名前入りで歓迎のメッセージが入っている。フロントからのメッセージが続いて入り、明後日の乗船キップを預かっているという。急いでパパさんがもらいに行く。

cityhall
市庁舎

8時過ぎだというのに日はまだまだ高い。日本の3時ごろの太陽だ。カメラをもって外に出るが、なんとなく元気がない。時差のせいだ。ホテルの隣は高い尖塔のある大きな教会。さすがにもう門は閉まっている。もったいないが戻って寝る。
church
ホテルの隣の教会

10時目がさめて外を見ると薄明かり。次に目を覚ましたのが午前2時。薄明かり。そして5時には日が昇っていた。夜はいつきたのだろうか。

7月5日。

5時半起床。6時半、駅にスカンディックパスのヴァリデードをしてもらいに出かけていく。日本人観光客が大勢もう集まっている。「お早いですね」と声をかける。まだ売り場には係員の姿がないので出直すことにする。猫に綱をつけ、家族で出かける人に出会った。猫に「おいで」というと、よってきたので、撫でながら、主に話し掛ける。「うちには10匹猫がいる」というと、「10匹も」とうれしそう。これからバカンスに猫も連れて行くのだという。

ホテルに帰り、食事をして駅に行き、ヴァリデードをすます。7時40分のウプサラ行きでウプサラまで行く。電車は快適。外の景色もいい。ところがウプサラはひどい雨。雨具をおいてきてしまったので、外に出るわけにも行かず、駅で雨宿りしているが一向にあがりそうにない。トイレは5クローネ。電車が来たのでそのままストックホルムへ引き返す。

library

ストックホルムは曇っているが日差しももれて暑い。パパさんがストックホルムパスを買ってきたのでスカンセンへ行く。動物園やアミューズメント施設がある。あんまりおもしろくはない。そのあとSightseeing Busに乗り、一周する。そんなに大きな都市ではないから、観光は歩いてできる。ホテルに戻り、食事に近くの中華に行き、歩いて行く。
kena

旧市街に行くとケーナの音が聞こえる。近づくとインディオらしき男性がケーナを吹いている。いい音だ。そこでCDを120クローネ(約1500円)で買う。港まで下りて行き、帰りバンドゥーラの響きに足をとめ、近くでお茶を飲みながら耳を傾ける。
banndura

雨が降りそうだ。言ってる間に大雨が音を立てて降りだし、雷がなり始める。途中喫茶店で雨宿りをし、小雨になったところを急いでホテルに帰る。しかしぐしょ濡れ。急いで風呂に入り、髪を洗い、洗濯をし、衣類を乾かす。gamurastan2
パパさんはいびきをかいで寝ている。その間7枚の絵はがきを書く。雨がやんだので、絵はがきを出しながら、市庁舎まで出かけて行く。8時過ぎだというのに、まだ明るい。写真を撮る。戻ってきて隣の食堂で夕食を食べ、つかれたのでそのまま寝てしまう。12時、外を見ると空が暗い。12時ごろが真夜中で日がくれるらしい。

7月6日

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ウプサラ大学

起きると外は雨。今日はウプサラへいく予定である。この雨ではどうしようと迷ったがここにいてもしようがないし、とパパサンの決断で7時25分でウプサラに向かう。ウプサラへいくと天気はよい。雨に洗われた緑は日の光にぴかぴかと光ってとても美しい。ウプサラは緑深き町だ。
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ルーン文字の碑

聖堂を見て、ウプサラ大学の構内でルーン文字の碑を撮す。大学構内の環境はまことにいい。ウプサラ大学出身の6名がノーベル賞受賞者。大学の壁面にその人たちのプレートがはめ込まれている。
銀の聖書を見るために図書館に行く。シルバーバイブルは実にきれいだ。ゴート語に翻訳し、銀と金のインクでかいたのだそうだ。8世紀頃のものだ。説明は英語がついている。客は私たちだけ。

upsara
ウプサラ大聖堂

緑の並木を少し上がったところがウプサラ城。そこから見下ろす大聖堂の景色もいい。ウプサラ城を見て、町に下る。町の通りの屋台で果物を売っている。どこのもの?って聞くと、トルコ産だという。連れ合いはあい相変わらずイチゴ、ネクタリン、フランボワーズを買っている。しかもお釣りがなくて、どっか遠くまでくずしに行った。その間、私は屋台の側を離れるわけにも行かず、近くのウィンドウをのぞいている。連れ合いは買った果物を駅の売店で洗ってもらって食べている。
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ストックホルムに戻り、市庁舎を見学する。ここはガイドなしには見学できない。ちょうど12時のガイドに間に合った。英語のガイドに入った。1階のホールがノーベル賞授叙式に使われるところだ。パパさんは以前来たことがあるので、説明してくれる。説明はこれで十分なのだが、ガイドは自分の説明を聞いてまわるように言う。フランス語のガイドの方がさっさと行く。あっちに入ればよかったなぁ。面白くもない説明を長々と聞かされうんざりだが、自由に見歩くことができない。ヨーロッパではこういうシステムは多いが、あんまり好きではない。

駅に戻り、ホテルで預けておいた荷物をもらい、タクシーでヴァイキングラインのターミナルに行ってくれと頼むと通じない。この国ではヴィーキングラインと発音するのだそうだ。
1
ヴァイキングライン
4時乗船。MARIELLA号は大きな船。37,799トン。1985年建造。全長177m、全幅29m。速度22ノット。乗客定員2,700名。10階ぐらいの高さだ。1階から3階までがカー乗り場。4階から6階までが宿泊施設。7階が食堂。8階までエレベーターがある。その上に甲板、更に上甲板がある。甲板ではビールを売っている。部屋を取らないで、乗船している客も大勢いる。シュラフに包まって甲板で寝ている人たち。ベンチでごろ寝をしている人たち、夜っぴいて騒いでいる若者たちなど多種多様。レストランもいろいろある。免税品を売る店は大繁盛だ。

5時出航。ラグジュアリーはなかなかいい部屋だ。思いのほか振動も騒音もない。下手なホテルよりはずっといい。シャワー、トイレはついているし、冷蔵庫もテレビもある。冷蔵庫にはコンプリメントのスパークリングワインの小瓶が二本とスポーツ飲料が入っている。みやさんたちもこういう部屋で過ごしたのだろう。(註:みやさんは歴史の先生。ジェノバから黒海までのクルーズに出かけた)

白夜の海を2万以上もあるという島々の細い水路をとおって船は走る。ずっと見ていようと思ったのだが、すぐ眠くなって寝てしまう。8時ごろ目を覚まし珍しく着替えて食事に行く。めがねを忘れたので取りに戻ると、その間にパパサンがワインを注文しておいてくれた。おやまあ、マルゴーのグランクラッセだ。張りこみましたね。
marienham
マリエンハムの夕日

10時ごろ、マリエンハムンに到着。夕焼けがきれいだったのでシャッターを切ったのは覚えているが、いつのまにか寝てしまう。ほんと、よく寝る。

7月7日。

窓から差し込む日差しは暑いくらい。冷房をつけ、食事に行く。のんびり食べて10時には港につく。海から見るヘルシンキはあんまり美しい町ではない。予定では明日の一番でタリンへ行くつもりだったが、どうも朝の便はないらしい。ならば、今日、タリンへ行ってしまおう、タリンで泊まっても良い。タリン行きのシリアラインの様子を聞こうといろんな人に尋ねたが聞くたびに違うことを言われ、シリアラインのターミナルも探して、ずいぶん歩き回る。とうとうわからなくてヴィーキングラインのターミナに戻り、タクシーで「シリアラインのターミナル」というとつれて行ってくれたが、とても歩いて行ける距離ではなかった。

ここで中国人の団体に会った。台湾からの一団で、これからスウェーデンに向かうのだという。お年寄りが達者な日本語で話すのが、歴史を知る者にはひっかかる。

以前にバルト3国の歴史を読んでいたので、出来ればバルト3国に入りたいと思っていた。エストニアにはビザがいらないと知り、ソ連圏に併合され、独立までの厳しい道のりを歩んだその地に急遽足を踏み入れることにした。

シリアラインの受付は親切。そこでタリンまでのチケットを買い、高速船シーキャットに乗って1時間半、エストニアのタリンに着く。乗客の子どもたちがピカチューのぬいぐるみを持っている。「ピカチュー?」ときくと、頷いている。ピカチューも国際的になったものだ。

イミグレイションでは日本人のためか(この船には東洋人とおぼしき客は私達以外いなかった)時間がかかったが、無事入国できる。持っていたクローネを両替する。雨が激しく降っている。タリンで一泊しようと思っていたが、この雨では。やむなく荷物を預け、外に出るとタクシーが「2時間で400エストニアマルクでどうだ」と声をかけてきた。相場もわからないが、この雨ではどうしようもない。承諾して車に乗る。

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タリンの歴史的エリアはすばらしい。ナチスもこの歴史的古都は破壊しなかったのだそうだ。雨の中を外に出てシャッターをきりまくる。旧市街の佇まいはよい。きれいな町だ。
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途中、ぞろぞろと、旗をもって昔の農協さんさながらの3組の団体にあった。運転手があれはヤンキーだという。たしかにヤンキーだった。アメリカも今は景気がいいのだろう。しかし、こんな大勢の団体でやってくるとは。
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新市街の方は、まだソ連時代の影が残っている。森の中の家の前に兵士が立っている。「何してるの?」ときくと「あれは官邸だ」という。ほほう、あの程度の警備でいいなら、この国は治安はいいのかも。官邸の前はスターリンの滞在した家。私たちはクリーム色の壁をKGBカラーと言っているのだが、まさにそれ。「寄るか」と聞くので、スターリンは好きじゃないからからいいと断る。それを聞いて、運転手は笑っている。ちょっと反応はわからない。

church

そのうちに雨があがり、光も差し出す。「泊まりたくなっちゃったねえ」と言いながら、でも荷物を預けてあるので、ターミナルに戻る。運転手に約束のお金と残ったお金を全部やってしまう。運転手はよろこんでいる。

シリアラインの18時のキップを買おうと思ったら、満席で、22時の船しかないという。それでは遅い。早い船はないかと聞くと、タリンクを聞いてみれば席があるだろうという。タリンク(エストニアの船)は4時15分発。すぐ出発だ。急いで、チケットを買い、パスポートコントロールを通り、乗船する。船は十分空いていた。この船にも免税店があり、私たちの座ったところが会計の場所だったのでうるさかったけど、人々がどんなものをかうのか興味をもって見ていた。ほとんどの乗客が酒、タバコ、チョコレートを買う。どういう状況なのか図り知れずにいる。

港にもホテルはあったが、ラマダ・プレジデントが駅の近くなので泊まる。フィンランドの価格は安い。日本人ツアーも多い。食事前に白夜を利用して市内一周の電車に乗る。あーあ、タリンに泊まるべきだった。どうも海から見た第一印象がわるかったらしい。ということは、都市づくりには第一印象も大事ということになる。フィンランディア、シベリウスのイメージに憧れてはいたのだが。でも、出来るだけ歩き回る。

明日はタンペレをまわってトゥルクに行こうということになる。食事をし、風呂に入り、洗濯をし、寝てしまう。北欧のホテルは洗面所に熱いパイプが通っているので洗濯物を干すのに都合がよい。

7月8日
paprila

食事をすませ、市電に乗り、ルター派の大きな教会へ行く。となりはヘルシンキ大学。港のマーケットで果物を買い、私は赤や黄色の色鮮やかなピーマンの写真を撮っている。市電でホテルに戻りチェックアウトする。9時58分でタンペレに向かう。ロバニエミ行き。これに乗って行くとロバニエミには夜の8時過ぎに着く。ロバニエミからはサンタクロースの村にいける。
私はラップランドに興味があるんだが、これはまたの機会にしよう。

車窓からの景色は自然が豊かで、白樺、松、などが目立つ。草原にはピンク、白、うす黄色、青といった色とりどりの野草が花を咲かせている。今が一番よいシーズンなのだろう。

tapere

タンペレの町も、郊外に出て自然を満喫すればきっといいのだろうが、市街そのものはあんまり美しくはない。ここはフィンランド第二の都市。図書館の設計は有名。かたつむりを連想させるような図書館をのぞく。北欧は図書館活動の先進国。学校図書と提携したり、子どもの時からに読書に親しむ方策を模索して実行している。

内部を見学している。日本でもこういう方式が多くなったが、カードでだれもが簡単に本やCD、ビデオを借りて行く。返すのは返却テーブルに載せると、コンピューターが読み取って、係りがその場で分類して、片付けている。利用者は多い。コピーやパソコンの設備もあり、使用は自由。うん、なかなかいい。面白がって、パソコンを立ち上げたはいいけれど、パソコンだって幼稚園生なのに、さら言葉がわからない。結局使えない。

吹きぬきになった中央ホールを囲むように中二階があり、子ども達のムーミン谷訪問の絵が飾られている。そうだ、ここはムーミンのふるさとだ。テーマ・パークもある。ムーミンは全冊読んではいるけれど、でも、ちょっと行く気にはならない。
church

2時56分でタンペレからトゥルクへ向かう。ここは単線。見渡す限りの麦畑。菜の花の黄色が目に鮮やか。ところどころに森がある。車掌が検札に来て、「ようこそフィンランドへ。」と英語で声をかけていった。こういう態度は見習いたいものだ。

トゥルクの町は、ヘルシンキができる以前はここが首都であったというが、うら寂れた町だ。川沿いにホテルを探して港近くまで下って行く。見つけたスカンディックホテルは満員で、フロントが親切に提携のあるホテルに聞いてくれたが、よい部屋がない。係りは流暢な日本語を話す。やむなく一日繰り上げてフィンランドをたつことにする。

シリヤラインのターミナルはホテルから30分ほどだと言っていたのが、いやはや遠い。そのうち雨が降りだす。途中雨宿りする場所もない。トゥルク城の前も寄らずに通り過ぎる。やっとこターミナルに到着。乗船券と部屋を確保。やれやれ。これで寝て行ける。今度はシリアラインだ。

9時乗船。部屋はヴァイキングラインより狭い。ベッドも壁にくくりつけられたもの、ひとつはソファになっている。それをひっくり返すとベッドになる。冷蔵庫もない。なんだ、たのしみにしていたのに。とはいえ、贅沢はいえない。一晩寝る場所が確保できたのだから。

船は音もなく海を走って行く。小さな島のあいだを。夕日が島々に赤い影をおとしている。一眠りして食事に行くと、9時半でビュッフェはクローズ。夕食を食べそこなって、ママさんは怒っている。カフェテリアは開いていて、ここでサラダの盛りあわせや、ケーキなどを買って食べる。こういうのを夕食とは呼ばない。

フィンランド時間では11時、スウェーデン時間では10時、日はこれから沈む。夕日が沈むのをデッキから眺めている。

7月9日
目を覚ましたのが4時。時差があるから5時。食事が5時からだと昨日日本人ツアコンが言っていたのを横で聞いていたので、出かけて行くがまだ開いていない。30分には間がある。散歩をすると、甲板にはサウナもある。シリアラインはフィンランドの船だからだろう。サウナ、美容室まである。

食堂は先頭、前方がよく見渡せる。前方に大きな客船が走っている。ロッテルダムと書いてある。水路が狭いから一方通行なのか、それとも時間差で通行をしているのか定かではないが、船足はシリアラインの方が速い。水路が広くなったところで、左側を抜く。

ストックホルム着。見覚えのある建物が見えてくる。海からの景色はストックホルムの方が好きだ。バスで駅まで行き、8時のヨーテボリ行きに乗る。ヨーテボリで外に出て見る。歩いていると雨がぽつり、ぽつり。あわてて駅まで引き返す。オスロ行きに乗る。なんと電車で朝食が出た。

オスロにつくと雨。かなり激しい。駅前のホテルに当たるがどこも満杯。ちょっと離れたコンファタブルホテルに2日宿を取る。ただしここはシャワーのみ。バスと言う言葉は普通シャワーを意味しているが、部屋が狭いとか汚いとかはあんまり気にしないのだが、バスタブだけはほしい。1泊の時は我慢できるが2泊以上のときは洗濯もするのでなおバスタブがほしい。
ぬれた衣類を干し、洗濯物を干し、小雨になったので食事をかねて外に出る。近くのインド料理で夕食を取る。そのあと、ルーテル派の大聖堂に礼拝に行く。プロテスタントの礼拝に出たこともあるが、勝手なことを言っては悪いが、カソリックの方が趣がある。牧師さんは女性。しかし、言葉が全然わからないのでつまらない。
このホテルも団体客でいっぱい。フランス人だ。フランス語が頭上を行き交っている。窓から外を見ると、目の前は旧証券取引所の建物。なかなか感じがいい。

7月10日(月)

月曜日はほとんどの施設が休館だが、国立美術館だけは開いている。まず城壁を見て、船でビュグディ半島博物館めぐりに行く。ヘイエルダールのコン・ティキ号博物館、フロム博物館、民族博物館とみてまわる。「コンチキ号漂流記」は読んでいる。バルサ材の筏で5人の仲間と100日余り、太平洋を漂流した記録である。実験考古学と呼ばれ、世間をわかした。

ラー号もある。これにも興味を持って資料を読んでいる。実験とはいえ、こんな船でよくぞ太平洋を渡ったものだ。はるかな昔、先祖達の冒険心はいかばかりのものであったのだろう。何をよりどころに、大海原を渡っていったのだろう。フロム博物館はナンセンたち冒険者達の館だ。アムンゼンやスットたちの南極点への探検、悲劇。子供のころ、何度も胸躍らせながら読んだ。

船で再び戻って、市庁舎内の壁画を見学、ここもガイドがつくらしいが、時間が無いから見せて、と係りに頼んで入場料を払い勝手に入る。ドイツへの抵抗の絵が多い。しかし、迫力はいまいち。正面のロータリーには同じ大きさトラや牛やブタの乗り物がアーチを描くように並んでいる。おもしろい。小雨が落ちてきた。雨の中、お母さんに連れられた子どもがそのひとつに乗っている。かわいい。シティトレインで一回りし、地理を頭に入れる。

町で食事をする。そんなに一皿の量は多くなくて助かる。王宮の衛兵の交代は13時半だ。どうでもいいのだが、それでも坂を走って登る。けっこうきつい。

munk
ムンク・少女

美術館に行く。国立美術館は無料。ムンクの代表作は殆どある。モジリアニの女性とセザンヌの木の絵が気に入った。ここはカメラもフラッシュもOK。こんな作品をカメラOKとは、フェイクではないかと気になるほどだ。日本人団体客も多い。ムンクの「叫び」は知っていて、その前で記念撮影している。どういう気なんだろう。来たと言うしるしなのだろうか。美術に興味があってやってくるわけではないから、出て行くのも速い。人がいなくなったところで、私もカメラを向ける。フィルムは400。フラッシュはたかない。天井の照明がガラスに写って、これを切るのに苦労。照明の光がどこかに入るのは致し方ないが、影響のないところを探して撮る。

park
市電でフログネル公園へ行く。乗っているだけでまわりの人が「次ですよ」と声をかけてくれる。ありがたいことだ。この公園は彫刻家ビーゲランの彫刻を集めた公園だ。テーマは人の一生。だから人生のさまざまな時間が刻み込まれている。広い。彫刻をさわっても乗ってもかまわない。彫刻の上に乗って遊ぶ子どもたち、彫刻の姿を真似る子どもたち、ローラースケートで走り回る子供たち、何があったのか、噴水の前で頭を抱える子どもたち、見ているだけで。思わず笑みがこぼれてしまう。カササギがすぐ側まで来て、私が投げたパンくずを拾っている。もちろん一枚。
why

ムンクの代表作も見たことだし、明日早くベルゲンに発とうかと話をして、明日の急行の座席予約に行くと、明日の午前中の便は取れないと言う、取れるのは3時過ぎの便だけ。しかたなくそれを予約し、空いた時間ムンク美術館にいくことにする。

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