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真鶴の恩人 胎中楠右衛門1

2016-05-01 21:14:30 | 真鶴の恩人
真鶴の恩人 胎中楠右衛門(たいなか くすうえもん)

 数十年ぶりに朝ドラを見ている。そう、朝ドラという言葉も私にはなじみが薄い。以前は連続テレビ小説と言っていたような気もするがどうだろう。見ているのは「あさがきた」。とはいえ初めから見たわけではない。主人公のアサが大阪に嫁いできたあたりからである。朝、テレビをつける習慣がないので、見ようと思っても忘れてしまうことの方が多かった。何に関心を持ったかというと、アサのモデルとなった広岡浅子にである。で、広岡浅子についていろいろ資料を読んだ。そしてドラマで、アサを導く五代友厚にも興味を持った。五代友厚という人物も知らなかった。実際には広岡浅子と五代友厚に接点はなかったそうだ。五代を演ずる俳優のさわやかさも気に入って、五代友厚という人物を調べてみた。五代が出てくるサブタイトルは「大阪の大恩人」とあった。なるほど、調べれば調べるほど五代さまという人物はすごい、まさに大阪の大恩人だった。しかも49歳で亡くなっていた。

 ドラマで五代さまが亡くなってしばらくして、五代さまを演じた俳優とアナウンサーが連れだって大阪を歩いているテレビ番組を見た。市場で働く人たちが「五代さま~」と俳優に声をかけていた。そのとき、アナウンサーが集まっている人たちに「五代様が大阪にどんなことをしたか知ってますか?」と聞いた。すると「証券取引所を作った」などテレビドラマに出ていることが返ってきた。「南海電鉄も作ったんですよ」「へぇ~、私、今日乗ってきた」

「五代さまは過去の人、市民は案外知らないものだ」と言いながら「そういえば真鶴にも恩人がいたんだ」と口に出した。ずいぶん昔のことだが、駅のプラットホームから松本昭家の庭に胸像が立っているのを見ていた。そこで当時「郷土を知る会」の会長だった故松本敬さんに「どなたの胸像ですか」と尋ねた。すると「胎中楠右衛門さんという方で真鶴の恩人」と教えてくれた。しかしどういう恩人だかは聞かなかった、が他の方から、真鶴のミカンに尽力してくださった方だと聞いて納得していた。

 いつしかプラットホームから胎中さんの胸像は見えなくなった。代わりに町民センターのロビーに胎中さんの胸像が置かれた。あそこにあった像がここに来たのだろうと思っていた。しかしそうではなかった。町民センターの胸像はモルタル製のレプリカだとわかった。そこで松本昭さんに電話をして聞くと、胎中さんの像は、もともとは銅で作られた銅像であったが、戦時中、銅は供出されてしまい、小松石の像に代わった。この石像は今、中川美術館の近くの石の広場に設置されていると教えてくれた。知らなかった。もちろん、まだ見ていない。そのうち写真を撮って来よう。胎中さんの胸像の由来は、真鶴築港、上水道設置、などなど真鶴町に多大な力を尽くしてくれた胎中さんに恩義を感じた、時の松本真鶴村長が設置したものだ、と思っていたらそうではなかった。詳しくは後に胎中さんの銅像としてまとめてある。また、松本昭さんは胎中さんに実際にお目にかかっているので、胎中さんについてのエピソードも伺った。

 とりあえず、ネットにある胎中さんの説明を抜き出してみた。まずは簡単な略歴から。(高知県の人物紹介から)

「胎中楠右衛門  1876年9月22日(明治9)~1947年3月22日(昭和22) 
大正、昭和初期の政治家
高知県安芸郡安芸町出身。胎中弥平の二男。少時自由民権思想に心酔。たまたま神奈川県で演説したのが縁となり、第2の故郷となる。
自由党青年弁士として活躍し、星亨に知られ、星がアメリカ公使になると伴われて渡米。農業に従事して35年間在米。帰朝後、1928(S3)神奈川県第3区選出の衆議院議員となる。 立憲政友会に属す。以後当選4回(16-19回)。農林審議会議員、米穀統制調査会委員、大日本粋会幹事長。立憲政友会総務などを務めた。 また藤原製材会社社長の職にあった。第15回万国議院商事会議(ベルリン)に参列した。享年70歳。」

 胎中さんの政治家としての活躍は、本も出ているし、ネットの中の高橋勝浩さんの論文「政党政治家胎中楠右衛門と二つの憲政碑」にも詳しい。
www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f44-10.pdf
上の論文から真鶴に関連のある部分だけ拾ってみる。

「田中義一内閣成立後、胎中は内閣嘱託として官邸にあって書記官長鳩山一郎を補佐していたが、昭和三年(一九二八) 二月、有志の薦めで初の普通選挙である第十六回総選挙に 神奈川県第三区(高座・愛甲・津久井・中・足柄上・足柄下六郡) から立候補、初当選を果たした。以後第十七回から第十九回(昭和五年~十一年)まで三期連続当選。代議士となった胎中は、農林審議会議員、米穀統制調査 会委員、政友会総務などを歴任、昭和四年にはベルリンにおける第十五回万国議院商事会議に参列している。彼は昭和初期の不景気打開、国民生活の安定向上には農漁山村民の生活の安定向上が先決問題とし、これを政治家としての「自己一生の天職」とした。その立場から同志議員らとともに農政会を結成し、機関紙『農政新報』を通じて農業政 策を研究発表、昭和七年には米専売、負担軽減、負債整理、肥料統制、蚕糸政策に関する五法案を作成し、これを衆議院に提出した。また選挙地盤の相模川左岸用排水工事、真鶴町の水道敷設と漁港修築、蜜柑生産者の全国組合「大日本柑橘生産組合聯合会」による米加両国への蜜柑輸出権獲得にも尽力した。」

 いやぁ、たいしたもんだ。今の政治家たちに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。もっと詳しく胎中さんと真鶴町のかかわりを知りたかったので真鶴町史を引っ張り出した。目がいかれてしまっているので資料集めをしても、字を読むのは一苦労だ。真鶴町の築港、上水道の設置、ミカン輸出についての当時の話は、郷土を知る会の方々から少しは聞いている。しかし、築港にしても上水道敷設にしても、莫大なお金がかかる、こんな小さな町でその費用の捻出はさぞかし大変なものであったろう。国とのパイプ役となれば、選挙区選出の代議士、胎中さんの力があったのだろうとは今なら容易に想像がつく。当時の町長(まだ村長)は松本赳氏、前述の松本敬、昭さんご兄弟の父上である。

 町史を読むと、実はこれがまた大変であったことがよくわかる。胎中さんが真鶴のためにそれこそ労を厭わず、何度も関係省庁と交渉してくれて実現したのだった。それにしても町史、実におもしろい。一応さっとは目を通してはいるはずだが、明治以降は斜め読みの状態だったらしい。特に大正以降から、住民の声も生々しく、文章も単なる記録でないのが読み手を惹きつけるのだろう。それには郷土を知る会の方々の努力がある。註を見ると郷土を知る会のテープという記述が多くある。生の声を録音しておいてくれたのだ。会員の方々の歴史的認識と実行力には頭が下がる。これはぜひとも真鶴町民に読んでもらいたい1冊である。

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真鶴の恩人 胎中楠右衛門2

2016-05-01 21:12:30 | 真鶴の恩人
  1923年は、熱海線が真鶴まで引かれ、真鶴駅の完成で客が引きも切らず、その盛況ぶりがよくうかがえる。ブリも捕れた。真鶴もこんなに豊かな時代があったのだ。おそらく真鶴の歴史の中で最良の時代だったろう。この客足に、時の草柳村長は観光立町を掲げ、「大真鶴(町村合併)」「上水道の敷設」「築港」「真鶴半島遊園地計画(別荘地開発も含む)」を目標に、まずは岬の開発に力を入れ始めた。遊園地計画とは、真鶴半島にホテル、スポーツ施設、映画館、劇場・・・言ってみれば今のアミューズメントパークである。計画内容は町史資料編に詳しく載っている。東京市麹町にあった日本鉄道事業株式会社に、村有地を60年間貸し付け、日本鉄道は、借地上に文化村、ホテル、遊園地を建設し、併せて道路改修、海水浴場の設置をするという計画であった。真鶴村は1923年6月4日、日本鉄道株式会社と契約を締結した。契約内容も資料編には載っている。

 ところが、同じ年の9月1日、一転して天国から地獄へ一変する関東大地震が起こった。天変地異とはいえすさまじい。大震災後も、時をおかず、地震や大火と真鶴は相次ぐ災害に見舞われている。大震災で遊園地の実行は不可能になってしまい、村は契約を解除し、日本鉄道に預かり金2万円を返却している。半島開発は、日本鉄道だけでなく、箱根土地株式会社、大阪の開発業者との契約等、幾度となくもちあがってはつぶれて、を繰り返した。保安林解除の問題、御料林の問題がクリアできなかったからでもある。今も指定されている魚付き保安林の解除は、神奈川県が難色を示した。御料林、すなわち「お林」は皇室保有の林であった。村は皇室林野局に払い下げ申請をしたが、当時お林を中心に御用邸建設の計画があり、道路なんてもってのほかと許可にならぬままたなざらしになり、結局計画は頓挫してしまった。この御料林を含む半島が、計画通りに遊園地化していたら、今半島はどうなっているだろう。おそらく「兵どもが夢のあと」になっていたにちがいない。

 関東大震災では大きな被害を被った真鶴村は、その復興のために50万円の起債をした。50万円という金額は、当時の村の予算が2万7千余円だから、破格な金額である。その担保として予定されたのは真鶴村最大の財源である漁業権であった。この漁業権のお陰で真鶴村はゆとりがあった。その後、ことある毎に漁業権があてにされ、それが仇となっていくのだが、とにかく震災復興費捻出の切り札は、漁業権であった。真鶴の場合漁業権(6つの漁業権)は村にあり、これを貸与することで利益を得ていた。同じ漁業権でも福浦村は個人が所有し、岩村は組合が所有していた。ブリが獲れていたことにもよるが、このブリ網を巡って1925年~26年にかけて近隣の町村間で激しい抗争が続いた。特に福浦村との縄張り争いはもっと続いた。それを仲介してくれたのは、県から派遣された、もう一人の恩人、橘川保職務管掌だった。ここではお名前だけ記しておく。ただし、この抗争は村々間にしこりとなって残った。

 関東大震災の真鶴村の状況は町史に詳しいが、長くなるので、簡単な記事を付記しておく。
「真鶴村は全戸数653戸の小漁村だが、震災に次ぐ火災のため、その過半365戸を焼失した。海岸では高さ約6mの津波が襲来し19戸を流失。その他埋没3戸、全壊95戸、半壊171戸、死者行方不明者共116人で、全村が壊滅した。」
横道にそれるが、先輩たちから直に聞いた話を載せておく。震災後、申し合わせで、街中では瓦屋根とブロック塀をやめたのだが、いつしかまた瓦屋根やブロック塀が増えてしまったと言っていた。当時より技術は数段向上しているとは思うが、心しておいていい話だろう。災害は忘れたころにやってくる。

 さて、ここからが胎中さんの恩人ぶりが発揮されるのだが、その前に少し当時の選挙制度を振り返ってみよう。

 1889年、明治帝国憲法が発布され、翌1890年初の衆議院選挙が行われた。ただし有権者は、直接国税15円以上の納税者で、25歳以上の男性に限られた。有権者は、国民の1%。15円は今の価値に置き換えると60万から70万円に相当する。確か土佐の戸主である女性が多額の税金を納めているにもかかわらず女であるというだけで選挙権がないのはおかしい、と怒った事件を覚えている。女性が参政権を得るのはまだまだ先の戦後である。1925年(大正4年)、25歳以上のすべての男性に選挙権が与えられた。男性だけの普通選挙。この年、治安維持法が成立している。

 市町村議員は有権者の選挙によって選ばれ、その議員たちの選挙によって首長が選ばれた。市長は内務省の承認が必要だったが、町村は不必要だった。首長は議会からでも、議会以外からでも選ぶことができた。ただし首長も議員も名誉職で、無報酬だった。知事は官選、だから官僚が多くお飾りが多かった、大都市の市長は力もあったし、官僚より高額な報酬を得ていたようだ。松本村長がどのように誕生したか、その経緯は聞いていないが、1926年に村長に就任した。

 1927年(昭和2年)、真鶴町は町政へと移行した。しかし「大真鶴」をめざした岩村、福浦村の2ケ村との合併は、様々な事情があり、実現しなかった。
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真鶴の恩人 胎中楠右衛門3

2016-05-01 21:08:51 | 真鶴の恩人
真鶴村は、昔から水不足に悩まされていた。関東大震災の折、消火活動をしたくとも水が足りず、土をかぶせたと当時の人々は伝えている。また、村は、幾度となく赤痢やコレラ、腸チフスなどの伝染病に襲われたが、その対策上水不足による不衛生が問題視された。さらに観光立町を目指すには、水道は不可欠であった。水源確保は真鶴にとって重要な課題だった。岩村は水不足はなく、1924年には簡易水道が完成している。これに対し真鶴村は水源を確保できないまま、村外に水源を求めたが、断られたり、水量が足りなかったりで、予算までつけて、物色したが、いずれも日の目を見ることはなかった。そこで再び、真鶴村内に水源を求め、数か所の掘削が行われ、その結果、最後の望みをかけたのが、磯崎の湧水だった。しかし水は塩分が濃く、県衛生試験所の水質検査で飲料水には不適格となってしまった。もはや万策尽きたかに思われたが、ここで松本村長は胎中代議士と共に県衛生問題の責任者を訪ね、真鶴にはほかに水源がないこと、住民は現在も磯崎水源の水を飲んでいること、今まで何回も火災にあったが消火の水がなく難渋したこと、等を説明し、特別の便宜をお願いした。その甲斐あって、ようやく水道認可が得られ、水道敷設工事が始まり、1929年、水道通水式が行われた。

ここでちょっと裏話を。関係者がすべて故人なってしまったので。
水質検査では、絶対に磯崎水源の塩辛い水では許可が下りない。いくら胎中さんのお願いでも水質を無視することは試験所でもできない。そこで胎中さんと松本村長がとった手段。水質検査にすました顔して松本村長の山の井戸水を汲んで持って行ったのだ。もちろん即許可はおりた。

 初めて真鶴に来て、紅茶をごちそうになったとき、その味に驚いた。慣れている真鶴の人はむしろ美味しいと言ったが、とても美味しいとは思えなかった。飲料水に塩分では高血圧が多いんじゃないかと心配したほどだ。しかし幸いなことに、私は、塩分の多いこの水を日常的に飲むことはなかった。さりとて、この水源探し、許認可の苦労を知ると、簡単に磯崎水源の塩辛い水、なんて言っては申し訳なかったと思う。
 
 大震災で港もまた壊滅的なダメージを受けていた。それ以前も相模湾を航行する船は、三崎港から西では風波の高いときは、真鶴港に逃れるのが最適とされていた。もちろん石材運搬港としても利用され、重要性の認識は高かった。そこで、浚渫工事を行ってはいたが、震災で港の一部は1m以上も隆起し、年々浅くなり、修復の必要性があった。真鶴港修築計画書では総工事費は75万円だった。その修築費をどうするか。37万5千円は国庫補助、30万円は村債、7万5千円は漁港賃貸料(4ケ年分)で、決議した。予算獲得のため、中央に人脈を求め、運動が展開された。農林省に認めてもらうために、胎中代議士に依頼したのだった。当時農林省は緊縮財政で新規事業は一切認めないという厳しい状況下にあった。そして1927年8月、総工費75万円、3ケ年継続事業として、農林省の省議で決定され、大蔵省の査定を待つこととなった。ところが大蔵大臣の査定で、「真鶴港は伊東に近いのと、港が小さすぎる」という理由で予算が削られてしまった。そこを猛烈な巻き返しをしてくれたのが中央にあった胎中さんだった。その甲斐あって、田中義一首相も理解を示し、大蔵省と農林省の各予算の中から55万円を捻出してくれた。とはいえ、折からの不況で、この補助は見送られ、なかなか実現しなかった。やっと正式に決まったところで田中内閣が倒れ、浜口雄幸内閣が誕生。浜口内閣は、未着手事業は繰越としたため、またしても港の修築工事は手を付けることができなくなった。さっそく松本村長を先頭に巻き返しが展開された。紆余曲折を経て、最終的には総工費38万円、国庫補助額17万円、地元負担額21万円で決着、1929年、ようやく着工にこぎつけたのだった。完成は1934年(昭和9年)。
 修築というと、港湾だけを連想するが、周辺の埋め立て工事も含まれている。船着き場にするには深度がいる。その深度を得るために浅瀬は埋め立てられ、岸壁となった。そして新たな埋立地6000坪は売却され、建設費の一部をまかなった。

 その昔、真鶴の海辺は遠浅の砂浜だったそうだ。「鵜島の河童」という昔話が残っている。鵜島のありかを訊ねたところ、まだ知っている人がいた。鵜島は修築工事で埋め立てられ、今は岸壁の一部になっていると教わった。真鶴未来塾が行っている町の古い写真展で、鵜島と思しき岩を見つけた。海岸道路もおそらくこのとき整備されたのだろう。小田原の奥津薬局が出版している西湘地域の古い写真集の中に、真鶴の懐かしい写真が収められている。築港時とは関係ないが爆破された夫婦岩の写真もある。夫婦岩のありかを探したら、マリーナにその痕跡が見て取れた。

 上水道敷設、漁港修築といった、これらの大事業が、その後の真鶴財政に影を落としていったことも事実である。とはいえ、胎中さんが真鶴に果たしてくれた功績には、今もその恩恵にあずかっている住民として、感謝している。
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真鶴の恩人4  胎中楠右衛門さんの銅像

2016-05-01 20:57:07 | 真鶴の恩人
真鶴の恩人  胎中楠右衛門さんの銅像

 遠藤勢津夫さんの「真鶴の歴史を探る」(門土社)を引っ張り出し、胎中さんのところだけ読んだ。この本は、町史より字が大きいのと行間が広いので、目の悪い私にも読みやすい。故遠藤勢津夫さんは元真鶴町教育長で、郷土史家でもある。

 勢津夫さんは、まず神奈川県史の胎中楠右衛門の記述の引用から始めている。神奈川県史には、胎中さんの記述はあるが真鶴との関連は一行たりとも載っていない。しかし、真鶴にとっては生活に密着した恩人であるのだから、町民としてしっかり認識して知っていかなければならない、ということから説明を始めている。勢津夫さんのおっしゃる通りだ。とはいえ、今の真鶴町民のほとんどは胎中さんの名前すら知らない。かろうじて胎中さんという名前は知っていても、どういうことをした人かはしらない。かくいう私だって、真鶴の恩人だとは知っていても、詳しくは知らなかった。松本昭さんに電話で伺ったとき「あんたが(胎中さんのことを詳しく)知らなかったことの方が驚きだ」と言われてしまった。いまでこそ、勢津夫さんの説明はほぼ知っているが、勢津夫さんの本にある胎中さんの銅像の経緯は知らなかった。真鶴の恩人の方は、町史をもう少し引っ張り出したいので、勢津夫さんの本の中から銅像についてだけここに書いておこう。
 
 胎中さんが真鶴のために力を貸してくれたことの一つに、ミカンの輸出がある。当時、ミカンの輸出は日本柑橘北米輸出組合という組織が独占していた。この組織だけが輸出できることが商工省から承認されていた。それ以外の者はいっさい輸出に参加できない。ミカンの生産者は、この組合に入っている問屋に買いたたかれ、作っても利益が上がらず、苦労していた。そこで、神奈川、和歌山、広島、愛媛、徳島、熊本、鹿児島県のミカン生産者と連絡を取り、大日本柑橘生産者組合連合会を昭和8年に立ち上げた。そして、農民救済のために、この制度を見直し、生産者も輸出に参加させるべきだという政治的なアプローチをしてくれたのが胎中さんだった。国会でも大演説をし、その結果、昭和9年から、生産者の組織、大日本柑橘生産者組合連合会も輸出に参加できるようになった。この過程をみていると、胎中さんは単に真鶴だけの恩人にとどまらず、広く日本中のミカン生産者にとっても恩人である。

 それには真鶴の松本町長の力も大きかった。胎中さんは神奈川3区選出の代議士であり、真鶴に別荘を持っていた。近所の人は代が代わっても、その屋敷を「胎中さん」と呼んでいた。青貫さんの上にある、その家の中に入ったことはないが門だけは覚えている。松本町長は胎中さんとは懇意だった。真鶴に別荘があったからではなく、それ以前からの付き合いだったようである。松本赳町長(明治5(1882)年~昭和23(1948)年)は元ジャーナリストで、松本雲舟というペンネームで翻訳家として活躍していた人だった。「松本雲舟」で検索すると、翻訳家として出てくる。「クオ ヴァデス」を日本で最初に翻訳したとあった。ジョン・バニヤンの「天路歴程」の翻訳者でもあった。読んだことはないが、内容は知っている。また、今の昭和女子大の前身、昭和女子学園の創設にも関与しているが、ここでも胎中さんとの関連がある。昭和女子大のHPを見ると昭和女子大、昭和女子学園を支えてくれた人々の中に創設理事として松本赳さんの写真が載っている。こういう人物が真鶴にいたことが幸いしたことは確かである。こういう関係から松本町長から、胎中さんにミカンの輸出の現状が訴えられたのだと思う。

 真鶴はそのほかにも港湾、上水道と胎中さんの力を借りているが、ともかくミカンだけに絞っていうと、胎中さんのおかげでミカンが輸出できるようになったので、その感謝の気持ちとして、大日本柑橘組合連合会は昭和11年に銅像を作った。胎中さんと組合の結びつきは真鶴にあったので、真鶴に胎中さんの銅像を建てたのだった。それがホームから見えた松本さんの敷地内に建っていた銅像だったのだが、残念ながら私がホームから見ていたのは当時の銅像ではなく石像だったのである。

 太平洋戦争が激しくなり、金属が不足してくると、銅や鉄類は強制的に供出させられた。胎中さんの銅像も供出させられてしまった。昭和15年、真鶴議会は胎中さんの銅像のある、あの一角を買収して公園にし、胎中さんの銅像を永久保存しようという決議をした。土地は松本さんの私有地。買収するには費用がかかる。そのために大日本柑橘組合連合会が450円出してくれたが、そのうちに銅像は供出されてしまい、やむなくその450円で八柳さんに小松石で石像を作ってもらったのが半島にある石像だそう。その後町議会も、石の形で保存してくいことを承認している。

 勢津夫さんは、胎中さんの活動は、憲法に保障された我々の職業の自由、経済活動の自由というものを、当時率先して実現してくれている、要するに一部の特権業者によって甘い汁を吸われ、差別されていた農民の権利を獲得してくれた権利闘争だったと、結んでいる。
 
 立憲政治を目指していた胎中さんの姿勢がよくうかがえる。だからこそ、真鶴町民はこのことを知り、子孫に伝えて行くべきだとは、まさにその通りだ。



こぼればなし
青貫さんの上にある、胎中さんの家の中に入ったことはないが、確か筒井さんという方がお住まいだったと覚えている。そうだ、お隣に鈴木葉子さんがお住まいだった、そこで、葉子さんに、筒井さんのお宅にお邪魔したことがあるかどうか、聞いてみた。何回も伺ったことがある。お庭のテッセンがきれいだった、床の間に胎中さんの胸像が飾ってあった、と話してくれた。そんな話をしていると、やおら連れ合いが、その家なら何度も行ったことがあると話し出した。小学生の同級生がその家に住んでいたのでよく遊びに行ったというのである。そのお宅は石井さんと言った。外観は洋風の造りで、家の中は和洋折衷の広い家だった、と。連れ合いは中学校から東京に出てしまったので、その後の石井君のことは知らなかった。早くして亡くなったと友人からは聞いているそう。お母さんがご存命なら覚えているでしょうが、と和美さんに聞くと、石井さんは筒井さんのおじさんに当たると聞いたことがあると言った。思い出話もかなりつながる。
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