Cogito

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北の大地をドライブ

2007-07-30 18:20:42 | 国内の旅

Nibudani_1  北海道をレンタカーを借りてのドライブの旅は初めてある。出かける前に、トヨタレンタカーに電話し、二人なので小型のVitsを予約しておいた。日頃、マニュアル車に乗っているので、マニュアルを希望したが、マニュアルはないということだった。ホテルは帰る前日の札幌のホテルだけは予約したが、後は毎度のことながら、行き当たりばったり、ということにした。

7月18日(水) 曇り

6時56分で出発。羽田着9時。急いでチェックイン。スカイマークだ。
9時15分発。11時5分着。教えられたとおりにレンタカーの受付に行くと、かなりの人。バスが迎えに来て、全員それにのって、近くの「すずらん」まで行き、手続きをする。

Ainu1 (町立アイヌ民族博物館)

                                             

まずは平取町(びらとり)を目指す。
なんせ遅れている夫婦、音声ナビは始めて。レンタカーのスタッフが目的地を記録してくれた。音声が案内してくれる。でも結構うるさい。それでも日高自動車道を富川で下り、国道237号に、とナビにしたがって平取までは楽だったが、入力が平取町だけで、平取のアイヌ資料館を入れなかったので、その近辺からナビが間違い始めた。私はすずらん群生地を目指した知人が アイヌ資料館へ偶然行き着いたくらいだから、国道沿いにあると頑張ったが、運転手がナビにしたがってみようというので言う通りに従ったら、山の中に誘導されて、途中やっとあった建設現場で聞く始末。もちろん戻った。でも案内は間違ったコースを繰り返している。「もうお前なんて信用しないぞ!」と私が怒鳴っている。

少し行くと食堂があった。そういえば朝から食事をしていない。わがままは言っていられないので、そこに入って、五目ラーメンを頼み、道を聞いた。この道を10分ぐらい行けばすぐわかるということだった。

Papasanがなかなか入ってこない。「何してるの?」ときくと、キーがぬけないのだという。お店のオジサンも行ってくれたが、キーの抜き方がわからない。「そんなときは電話をすればいいのよ。携帯持っているんでしょう。」「携帯かけたことない」「しょうがないね」オートマチック車はパーキングにしないといけなかったんだ。
五目ラーメンが出来てきた。うわぁ~、量の多いこと!一生懸命食べたけど、やっぱり残してしまった。「おじさん、量が多いよ。もう年だからそんなに食べられないよ」「そうかい。若く見えるよ。」年を聞いたら、私より下だったが同世代だったので、話が弾んでしまった。
確かに道なりに行くと、簡単に見つかった。ナビのおかげで時間のロスをしてしまったよ。

Damu1 Dam2 二風谷(にぶだに)湖、これはダム。このダムを作るのに反対運動があった。ここは古来からアイヌの人々が暮らしてきた大事な土地。アイヌである貝澤さん、萱野さんたちは「二風谷を盾として、人間(アイヌ)の権利を求め」訴訟を起こした。最高裁はアイヌ民族の先住性を認め、ダム建設を違憲と判決したが、それでも建設はとめられず完成してしまった。1997年のことだ。二風谷ダムのダムサイトには、公園が作られている。しかし誰もいない。ここで遊ぶ子供もいない。たぶん、こういう施設はダム建設の見返りとして作られたものだろう。言ってみればアメである。どこもそうだが、見返りのアメは有効には利用されていない。

Sarugawa ダムの近くに、沙流川歴史館がある。沙流川という名前は中学から知っていた。平取町に住み、苫小牧の寄宿舎に入っていた女子高生と中学生のとき文通していたことがあったからだ。隣は町立のアイヌ民族博物館だ。

Buraku Buraku2 Buraku3

                        

 

                                              

                                              

Kayano その前が伝統工芸館、道を隔てて萱野茂さんの二風谷アイヌ資料館がある。ここはアイヌの人たちの土地であり、沙流川は彼らの生活の場であった。萱野茂さんたちはアイヌの文化を存続に努めた。個人の収集品だが、よく集められている。アKannban_1 イヌ文化を日本人に伝えたのは、彼らの努力が大きく寄与したことは否めない。鮭の皮で作った靴や外套があった。アムールの朝鮮族も同じような物を作っていたように記憶している。

展示されている写真がすごい。萱野さんが撮ったものだが、生活習慣がよく撮ってある。アイヌは狩猟民族だから、いけにえを神にささげる文化があるのだろう。一時禁止になっていた熊送りの儀式も復活が認められたようだが、文化と伝統を否定しないし、人間だれもが多くの生命を頂いて生きているのだが、それはわかっているが、熊送りの子熊は写真でもかわいそうで見るに忍びない。二風谷のダム騒動が起こるまで、私も二風谷の存在すら知らなかった。まずこの地に寄ったのは萱野さんたちに敬意を表するためであった。

萱野茂さんについては:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%B1%E9%87%8E%E8%8C%82


はじめは帯広方面に向かう予定だったが、天気がよくなったので、富良野方面に行き先を変えて、国道237号線を走る。途中道の駅占冠で休憩。

車の前をエゾジカが横切った。街道筋にはスイカとメロンのお店が並んでいる。

Station 5時ごろ、富良野駅前に到着。ホテルを探していると、駅前にビジネスホテルのようなグレース ホテル ロダがあった。聞くと、部屋もあった。
夕食に外に出ると、日差しはまだ暑い。富良野ワインが飲め るおしゃれなフランチレストランを探したのだが、おしゃれなは除いてもフレンチは見つからなかった。やむなく、そば屋に入った。昼間のラーメンがまだおなかに残っていたので、かんたんでもいいと入ったのだが、なんとそばが1人前なのに、2人前ぐらい量がある。さすがに食べられない。北海道の人って、大食なんだろうか、と思ってしまった。私たちが食べられなくなったのは確かだがそれにしても。そういえば沖縄で、東京は食事の量がなんでも少なすぎて、とても足りなかったって言っていたのを思い出した。
通りをふらふら歩いて、ラベンダーのローソクを何本か買った。スーパーで私用に紅茶と砂糖を買った。部屋に湯沸しがあるのを見たので。Papasanもワインとか買い込んでいた。

Koushuudennwa 電話ボックス

                                                   

                                              

                                              

Youkan ちょっと素敵な木造洋館

Ishadatta お医者さんだった。

                                              

Furano

人通りのない商店街

                                                                                                                      

                                                                                                                        

7月19日 晴

Photo_24 目を覚ますと外が明るい。何時?壁の時計は3時40分、まさか。この時計、間違ってる、と自分の時計を見ると同じく3時40分。そうこうするうちに日が昇り始める。4時10分、ひゃ~、あたりに日がさしはじめる。Papasanが北だから夜明けが早いんだよ、と言う。

Himawari 食事前に散歩ならぬ、散ドライブに行く。まだ動きのない農場、玉ねぎ畑の緑、小麦の黄金色、ジャガイモの花。そんな中にヒマワリの花が目立つ。まだ操業はしていなかったがチーズ工房もまわってきた。

Usi_1 7時前食事に帰る。「華麗なる一族」のロケはここで行われた、スタッフがここに泊まっていた、そのときの俳優といっしょの写真だと、宿の女将さんが見せてくれた。

Tatiaoi2 7時半出発。まだ車が少なくていい。237号線を旭川に向けて走る。広くて、まっすぐな道。スピード感がない。はは、こりゃ危ない。気をつけないとスピード違反に引っかかりそうだ。旧式夫婦のドライブは、私が助手席で地図をひざに広げ、標識を見ながら、あっちだこっちだというのがいつも。だから私の方が必然的に地名を覚える。しかし、さすがに目も悪くなって、遠くから標識が読めなくなった。やはりナビは必要だね、なれるためにウチの車にもつけようよ。

Zerubu4  上富良野、美瑛、そこで寄り道をする。ゼルブの丘から富良野メロンを送った。ホテルの女将さんが富良野のルビー何とかというメロンは美味しいんだと言ったので。

旭川で旭山動物園に寄ろうと思って、美瑛を出Zerubunookaるとき、ナビに旭山動物園を入力した。ところが、旭川にあるはずなのに、ナビが左、左と指示して、美瑛に戻ってしまった。もっともそこのジャガイモ畑は絵になった。カメラを持って、ひとり農道を歩いKenmerryno ている。

なんともわからない案内をされて迷ってしまったので、旭川市のインフォメイションへ行く。都会に来ると道がわからなくなるといいながら、旭岳に行く道を聞く。旭山動物園も同じ方向だという。「ぜひお寄りください」と係りは言ったが、そばにいたオジサンが「旭山動物園、混んでますよ」と教えてくれた。「じゃ~パス」

結局旭岳への道も乗りそこなって上川方面39号線を走る。街道沿いに「道の駅 とうま」があった。そこに「でんすけさんの家」があるのが見えた。この間、でんすけスイカを頼んだのはあそこだ、これも出会いだ、寄っていこう。
「お土産にいかがですか」とお姉さん。「もちろん、そのつもりで来たんですよ。」ちょうどトウモロコシも入ったばかり、というのでそれも入れてもらい、知人達に送った。お姉さんが茹でたてのトウモロコシをサービスしてくれた。
「甘~い」と言いながらほおばった。
http://town.tohma.hokkaido.jp/tokusannhin-densukesuika.htm

Souunnkyouatarikara 39号線からはずっと大雪の山々が見える。上川までの山塊はあまり迫力がないが、上川から層雲峡で273号線に入ると、山の姿は大きく見える。
日差しは暑いくらいだが、緑の葉が輝いてきれいだ。両サイドとも深い森。国道は車も少ないが、人っこひとりいない。近くに人家も見当たらない。こんな道に幅広い歩道がついている。だれが歩くんだろう、クマさんの散歩道かな。

三国峠で景色を眺め、糠平から然別湖に入る道道85号線に入る。細い道だ。標識に山田温泉、然別湖、鹿追、というのが見える。ということは、昔、私が行ったのとは道が違う。当時の道は、然別湖、山田温泉の順だったから。かなり距離がある。延々と峠を上って、やっと下り始める。「道の狭さから想像すると、然別湖は昔のままのたたずまいが見られるかも」「いやいや観光化して、アット驚く光景になっているかもよ」

Sikaribetu2 ランプの宿で有名だった山田温泉をすぎると、木の間越しに湖が見える。お~、開発されていない、昔のままの湖だ。一車線の湖畔道をひた走り、やっと開けた場所に着いた。ここにはさすがにホテルが立ち並び、様変わりしていた。遊覧船もあ3_11 る。5分の差で遊覧船に乗り遅れてしまった。湖畔のレストランで食事をする。客は私達以外にだれもいない。少し高さがあるので、ここからの眺望はいい。ときおり山の間から雲がわいては消えてゆく。

4_9 然別湖を2時45分に出て、帯広に向かう。山を下り始めると、急にどんよりと雲が低く垂れ込め、霧が一面にあたりを覆う。あっちの天気はなんだったんだろう。ここからの十勝平野の眺めは感激ものだったけど、といいながら下ると雨が降り始める。

音更町に出たので、よつ葉牛乳を探したがわからなかった。よつ葉の工場には私は二度も来ているのだが、つれてこられたので、道がわからない。東京の電話番号は暗記しているのだが、こちらのは知らない。「東京に電話して教えてもらおうか?」「気を使わせると悪いからいいよ。」

雨が降っているので、ホテルを探しに十勝川温泉に行く。40余年前も、ここに泊ったのだ。十勝川温泉第一ホテルに宿を取る。ベッドの部屋を頼む。部屋は広くて、ベランダもついている。窓からは十勝川の流れが見渡せる。橋の向こうは帯広になる。

夕食に、ワインリストを見て、Papasan用に選んだのが池田のセイオロサム(凋寒)、フルボトルで。この赤は気に入って、池田ワイン城から家に送ったことがある。私は地元の冷酒を取った。すると小瓶のまま出てきた。「ビンのままなんて、色気がないわねぇ。お料理は素敵なのに」ウェイターは困った顔。「ビンのラベルを見せたかったんじゃないの」とPapasanが助け舟を出す。「それはわかるけど・・」と言いながらラベルを見ると、「十勝川温泉第一ホテル和風館豊洲亭 美人旅情」と書いてある。「なるほど、ハウスお酒ね」というと、ウェイターが「ワインのお酒版です」とにっこりした。ついでだから醸造所も写しておいた。元の名前はこれだったのだ。
清酒 里の詩物語 純米吟醸 金滴酒造 新十勝川町字中央71-7
お料理は美味しかった。お品書きをポケットに入れたはずなのだが、どこかへやってしまった。ご飯に「ほしのゆめ」」と書いてあった。「私、ほしのゆめ、食べたことがないの。味見したいから、ほんの二口持って来て」と頼んだ。なるほど、美味しいお米だ。

7月20日(金)雨

確かに今朝も3時半には夜が明けた。でも昨日のように太陽は射さない。雨も降り始めた。夕べスタッフに聞いたら、ここ数日こんな雨模様の天気続きだと言っていた。もし晴れたら、急遽、摩周湖へ行く予定だったが取りやめる。
まずはよつば牛乳を訪ね、帯広といっても近くの六花亭の本店を訪ね、それから池田のワイン城に行こうと案をたてた。フロントでよつ葉への行きかたを聞いておいてとPapasanに頼んで、教えてもらったらしいのだが、結局どの道だかわからなかった。教え方が悪いなぁ。

音更町を走り、帯広に向かう途中、何か音がなり始めた。「この音なに?」「ガス欠のしらせだよ。」「え~、ガソリン・スタンドなんずっと見ていないよ」こういうとき、二人の性格の違いが出てくる。ケセラセラの言動とは裏腹に、私は慎重派 。なにごとも半分になると次を買い足す習慣がある。一方Papasanはなくなるまで平気でいる。「どれがガソリンの表示?」「これ」なるほどemptyだ。「ガス欠表示が出ても、かなり走れるから大丈夫だよ」とすましている。

ガソリン・スタンドを探しなら走る。ちょうどコンビニがあったので、何か買ってガソリン・スタンドのありかを聞いたほうがいいと、Papa

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水になった村 (映画)

2007-07-27 11:51:13 | アート・文化

Mizu_2 Mizu2

  8月4日からポレポレ東中野で上映。                                                     

                                            

                             

 

 http://www.youtube.com/watch?v=3VVN2HLdpbw                                          

                                            

1957年、岐阜県徳山村にダム建設の話が持ち上がった。近隣の街につくられた移転地への引っ越しが進む中、村が沈んでしまうまでできる限り暮らし続けたいと、街から戻って来る老人たちがいた。
 写真家の大西暢夫が初めて村を訪ねたのはいまから15年前のこと。誰もいないと思っていた集落に家があることに驚き、ジジババたちの暮らしに魅せられ、以来たびたび村を訪れることになった。
 村には季節ごとに土地で採れるものを大切にする、暮らしの知恵や技があった。食卓にはいつも食べきれないほど大盛りのごはんが並び、山はジジババたちの笑い声に満ちていた。
 1995年12月23日。徳田じょさんの家が取り壊された。明日から街で暮らすしかない。
「お父さんはきっと天から見とるな。ありがとう兄ちゃん!今までありがとう」
兄ちゃんと呼ばれる大西は こんなに悲しいじょさんを見たことがなかった。
 2006年秋、いよいよ工事が終わり、水がたまり始めた。もう村に帰ることはできない。じょさんは今、大西を「どこかの優しい人」だと思っているが、徳山村の家のことは忘れていない。そして、まだあの村に家が建っていると信じている―。
 ジジババたちの変わりゆく暮らしに寄り添った15年間の記録。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

揖斐郡旧徳山村:

http://www.din.or.jp/~heyaneko/gifu0.html

http://members.jcom.home.ne.jp/camphor-tree/tokuyama.html

http://www.geocities.jp/yagi_koubou/A32_1.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B1%B1%E6%9D%91

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かぽかぽ

2007-07-17 12:23:25 | 動物記
ハシブトガラスのカポカポ夫婦が、この間から3羽のヒナをつれてきている。私達の手から親が餌を貰うのを見て、親のソバに飛んできては、羽を震わし、頂戴、頂戴と鳴く。ほぼ親と同じくらいの体格なので、あ~あ~と鳴く声も大きい。それが3羽そろって「あ~あ~」とやるのだから、うるさいくらいだ。親が餌を口に入れてやると、声は途中で途絶え「あぉん」と飲み込む音に代わる。思わず笑ってしまう。

昨日は恒例の海の日のパーティだった。常連さんに「日本野鳥の会」の人がいる。その彼の話だと、カラスの子育ては1年がかりだそうだ。
「今年の1月頃、姿が見えなくなった、ねぐら集団に帰ったのかと思った」というと、ねぐら集団に入っていても、1月頃からカラスは子別れするのだという。
「へ~、カラス、そんなに大事に子育てするんだ。人間は負けてるなぁ」

繁殖率が高いと嫌われているが、でも他の野鳥と比べると、産卵も多くないし、年一回では決して爆発的に増えるものでもない。それなのに・・の要因は、こういう子育てがあるからこそ、増えることができるともいえる。生き残れる数が少ないものはたくさんの卵を産む、それが摂理だが、嫌われ者のブルーギルも親が必死に卵を守る。その方が生き残る数は多くなる。もちろん成長過程で、失われていく命も多いが。

子育てを上手に出来ない生物は、自然の摂理から言えば、いずれは滅んでいくのだろう。
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落ちこぼれる

2007-07-13 10:06:11 | 日記・エッセイ・コラム

「おおぞら通信」を紹介しよう。NPO法人「おおぞら」は野宿生活者、いわゆるホームレスのケアと自立を支援している団体である。いつもお知らせを頂いて頭が下がる思いでいっぱいになる。

話の内容をまとめるとこうだ。スタッフのSさんがいつものようにホームレスのテントを訪問すると、30歳ぐらいの若い男性から声をかけられた。「相談に乗っていただけますか」と。男性はスーツ姿で、身だしなみもきちんとしていた。一見、サラリーマンが休憩で公園に来ているような感じだった。

ベンチに腰掛けると、青年は「実は、私もホームレスなんです」と言って話し始めた。この青年Kさんは数ヶ月前会社のリストラで職を失い、ハローワークに通ったが仕事が見つからなかった。失業手当ても、乏しい貯金も底をつき、ネットカフェで夜をしのぐことも出来ないようになり、1ケ月前から公園のベンチで寝るようになった。

「だけどスーツもワイシャツも汚れていませんね」

「この1ケ月、公園で寝るときはスーツもワイシャツも脱いで下着で寝ていました。ハローワークや会社の面接に汚い姿で行けませんから。無精ひげが生えないように公園のトイレで髭剃りも毎日していました。」

「食事はどうしていたのですか」

「この1ケ月、ほとんど食べていません。公園のトイレで水ばかり飲んでいました。体重は10キロ以上減ったと思います。もう自分が情けなくて、一時は自殺も考えましたが、もう一度生活を立て直して、また家族(妻子)と暮らしたいんです」

話したことで気がゆるんだか、Kさんの目からは涙があふれた。

「わかりました。ホームレスから抜け出す方法を何とか考えましょう。それにしてもこれほどの辛いピンチをよく耐えましたね。役所の相談には行かれなかったのですか?」

「役所にも相談に行きました。でも冷たかったです。話もよく聞かず、自分で何とかするようにと言われました。誰に相談していいかも分からず、今日あなたを見て、相談できそうな人だと思って、すがる思いで声をかけたんです」

Kさんは経済困難に陥り、生活破綻しそうになったとき、相談にのってくれる公的機関が存在しなかったため、ずるずるとホームレスに行き着いてしまった。役所のケースワーカーや民生委員も、こういう人たちにはうまく機能しているわけではなく、福祉のセーフティネットからこぼれる人は後を絶たない。正社員として働いていたKさんもレールから外れると、アルバイトの仕事もままならなくなる。就労応募の履歴書に書き込む住所と電話番号がないことが致命的になる。

ここ数年、雇用環境が大きく変わり、スポットの日雇い、アルバイト、パート、派遣、請負社員等、不安定な雇用状態の人が激増し、事態は水面下でさらに深刻化している。何かの事情で就労が途切れたとき、次の仕事が見つからないと、極めて危険な綱渡りとなり、いまや中高年、若者、年齢を問わず、この綱渡りを失敗してホームレスに転落していくことになる。この点で絶望して自殺を選ぶ人もいる。ここまで深刻な状態に追い込まれた人たちはどこに相談に行けばいいのだろうか。雇用不安定な経済構造がこの国を覆っている。ホームレス問題は支援だけでなく、ホームレスを作り出さないような公的な施策が必要なのだ。

Kさんは大阪市のホームレスのための自立支援センターに入ることが出来、就労もかなった。センターから通勤し、貯金も出来た。もともと頑張り屋だったので、順調に退所日を迎えられた。退所にはSさんといっしょに、実家に身を寄せていたKさんの妻子も迎え、笑顔で喜び合った。

Sさんは相談窓口の必要性を訴える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が「おおぞら通信」の内容である。Kさん一家はまた明るい生活を取り戻したに違いない。Sさんに声をかけたことが、Kさんがホームレスから立ち直ることが出来るきっかけになった。そういう意味ではKさんはラッキーだったとも言える。しかし現実には、こういうめぐり合いもなく、もっともっと落ちこぼれていく人たちがいる。働きたくても働けない。まして若年のホームレスはきびしいだろう。未来ある若者達の生活を破壊するような政治、経済、この国のあり方、いま手を打たないと将来、国そのものの存続が出来なくなる危惧がある。

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まぎらわしい

2007-07-12 14:12:38 | 

歯医者に行って、そこにおいてある静岡県の広報誌をみていた。そこにエシャレットのことが載っていた。
よく売られているおなじみのエシャレットはラッキョウの若いもの。あ~、やっぱりラッキョウだったのだ。

それによると、エシャレットは50年ほど前、浜松の農協で、まだ若いラッキョウの球をとって、味噌をつけて食べたら、美味しかったので、これを売り出そうということになった。しかしラッキョウなんてネーミングをしても、売れなかろうと、フランスのエシャロットをもじって、エシャレットと名づけのだとあった。

30代ごろ、フランス料理に凝っていた私はエシャロットが小タマネギのような香菜出ることは知っていた。しかし「ロ」と「レ」の違いは今の今まで気がつかなかった。そのころで、フランス料理のエシャロットと日本のエシャロット(エシャレット)とは違うものだと言ってもだれも信じてくれなかった。こちら、日本のエシャレットが先に身近に入り込んでいたから仕方がないのだが。

何十年ぶりに、そうだったのか、と紛らわしい事実を知った次第。

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