はじめに
1月のことだ。知人のKさんから移転の通知を頂いた。去年の秋、幼年期を過ごした久万高原町に移ったこと、そして手書きで、4月に早まりそうな町長選に挑戦する予定だと書いてあった。今年は4月にロシアへ行く予定をたてていた。申し込みもした。しかし、Kさんは市民派議員として活動してきた仲間である。Kさんは茅ヶ崎市議を16年つとめ、市民派議員会議の代表も勤めてくれた。町の選挙なら役にたてるだろう、と言うことで、すぐさま海外旅行はキャンセルして、4月にはカンパを届けに四国へ行く腹積もりをした。
そして久万高原町を調べた。平成の合併で4つの自治体が合併して出来た町である。面積は横浜市の1.3倍、人口は1万人余り。財政比率は低いし、公債比率は高い。要するに財政力が乏しい町である。しかも高齢化率43%という過疎の町だ。この町を何とかしようという意欲満々。えらいなぁ。データは愛媛県のHPの中にある。議員も旧態依然で、全部男ばかり。
3月になって、選挙予定を聞くために電話すると、選挙の予定は8月までなくなったと状況を話してくれた。あれま、でも予定してしまったのだから、四国には行こう、そして久万高原町を見て来よう、ついでに四万十川によってこようということになった。ちょうど、テレビで鞆の浦の道路問題を取り上げていた。初めから全部見たわけではないが、世界遺産にも登録されそうな景観をつぶして県道を作る計画があり、それに対して反対運動がおきている、と報道していた。なら通り道だ、ちょっと寄って現場を見て行こう。上関町の祝島の原発予定地も見たいけど、これは遠すぎる。
◇2008年4月15日(火)晴
4時半に起きる。5時38分出発。6時35分沼津から東名に乗る。 浜松SA・多賀SA・で休憩、順調に行ったのだが、吹田で山陽道に乗りそこない、西宮・神戸に行ってしまった。そこで神明道路を姫路を目指し、途中から山陽道に戻る。この間の芽吹きの山は優しい色でとってもきれいだ。
鞆の浦によるべく、福山東で下りる。ここから30分以上、やっと鞆の浦に到着。鞆の浦の道は幅もあり、がらがら。どこが渋滞するんだろう。鞆の浦は潮待ちの港として栄えた歴史ある町だ。海辺にはホテルが建っている。そこで泊まろうかと思ったが、バスがついて団体さんがぞろぞろ降りたのでパス。車を有料駐車場へおいて歩き始める。船着 場まではかなりの距離がある。そこで車を出してもう一度近くの駐車場へ入れ る。海際の堰堤に上って、島々の写真を撮っている。手前にある五重塔のようなもののある島が弁天島、その後ろが仙酔島・・だ。陽を受けて、島並みがきれいだ。
「船がでるよ」と呼ばれる。船って、観光船だと思ったら、仙酔島までの連絡船。船賃は往復で240円。ここで地元の人たちに道路問題を聞いたがあまりぱっとしない。島に渡り、チラッと見て戻る。
鞆の浦で一泊の予定だったが、まだ日も高いので先に進む ことにする。地図で見ると、沼隈半島を回って尾道に通じているようだ。そこでその道を進むと近くのオバサンが行き止まりだ合図してくれた。
左手は入り江になった漁港、船がずらりと並んでいる。目の前に和風の素的な灯台がある。オバサンに「あれは何ですか」と聞くと「常夜灯」だと教えてくれた。それにつながるように、雰囲気のある木造の家が並んでいる。あれは文化財で、上の公民館から高いところに上ると、鞆の浦が一望できるという。 細い道を上がり、下りようと すると次の車に、ここは一方通行だと言われた。狭い、狭い車一台やっとのような道を、ゆっくりとだがあちこち走りまわった。交通渋滞とはここのことだろう。う~ん、これでは、非常災害時には車は入れないだろう。なるほど、住民の要望もわからないわけではない。もう一度港に戻りたかったが、一方通行なので道がよくわからない。のろのろと迷っている湘南ナンバーを見て年寄り達がなにやら言っている。 たぶ ん、計画はあの漁港を埋め立てて、あの常夜灯の前に車を通す橋をかけるというものだろう。景観とは自然の景色だけではない。人の生活も含めてこそ良好な景観なのだと思う。そういう意味では、この町の雰囲気を壊してしまうのはもったいない。一旦失われたら、どんなことを言っても、二度と回復できないものだ。多くの先例が示している。行政も住民も頭をやわらかくして、専門家も交え、知恵を絞って、いい方策を模索してもらいたいものだ。
尾道へ出るつもりがまわりまわって福山に戻ってしまった。福山から尾道方面へ走ると、沼隈半島への接続点があったから、間違わなければここに出たんだ。 しまなみ海道の入口に出た。しまなみ海道は車どおりはほとんどなく、快適なドライブ。夕日が海面を染め、実に美しい。ゆっくりと景色を楽しみながら走る。今夜は今治泊だ。
駅に出た。駅周辺にはホテルがあるはずなのだが、なんにもない。でもタクシーはある。そこでタクシーに聞くと、向こう側に行けばホテルはごまんとあると言われた。裏駅だったらしい。なるほど表にまわると、ごまんとあった。ステイション・ホテルに投宿。荷物を置き、夕食を食べに出かける。ホテルの人に、食事のできるところを聞くと、「今治は田舎だから・・」という言葉が返ってきた。「えっ、今治って田舎なんですか?そうは思っていませんでした」というと、「人口は愛媛第二の市なんですが、それは島を合わせてのこと」「タオルを町おこしの起爆剤にしているんじゃありません?私、応援のつもりでタオルを買って帰ろうと思って今治に寄ったんですよ」「あ~、あの人たちは頑張っています。今治の造船はいまだって日本一です」「へ~、造船は知らなかったな」
とにかく外に出た。7時ごろだと言うのに人通りはほとんどない。さびしい感じだ。しかし駅前にあれだけタクシーがいたのだから、需要はあるのだろう。銀行の前を通りかかると、若い行員さんたちが駐車場に鎖をかけている。「この辺で食事のできるところありませんか?」ときくと、「そうですね~、近いのは・・あの交差点の先にイタリアンがあります」と教えてくれた。交差点を渡ると、すぐにイタリアンがあった。ファミレスみたいだ。店内には若い女子たちが陣取ってにぎやかに騒いでいる。うるさいくらいに。注文をすると、飲み物はお好きな物をお好きなだけどうぞと言われた。ファミレスに入ることはまずないので、勝手がわからない。私は紅茶だからいいのだが、Papasanにホットココアを持ってきて、と頼まれたが、やたらと押しても何にも出てこない。近くにいたお客さんにどうしたらいいのか、教えてもらいやっと。私はペンネ・アラビアータと生ハムのサラダ、ティラミスを取ったのだが、どれも味はわるくない。この程度なら、店内もきれいだし、このファミレスは覚えておこう、と言いながらも名前を忘れてしまった。
◇4月16日 水 雨
よく寝た。「7時半だよ」と言われて、はっと目を覚ました。お願いしておいた朝食、私は洋食を、Papasanは和食を。トーストにジャムが塗ってあった。思わず、うふふ。
今治8:30出発。雨はぽつぽつと降り始めている。予報どおりだ。 317号線で松山へ向かう。いい道だ。それに車どおりも少ない。高速を通る必要はない。この路線は山の中を通っているので、新芽の山々が美しい。新緑より優しいのだ。途中、水の淀みに気がつくとそこはダム、名前は玉川湖。松山大学のボート部の練習艇があるらしいが、その湖畔は桜が果てしなく植えられていて、とても見事だった。平地の桜はすでに散っているが、山に入るにしたがって、桜は今が盛り。さまざまな種類の桜がそれぞれの色で美しい。四国っていいところがふんだんに残っているなぁ、と言っている間に、静かなたたずまいがいっぺんに消え、高層建築が現れ始めた。奥道後だ。温泉場は高層建築がいいと思っているのかねぇ、大間違いだよ。
でも、せっかく松山を通るんだから、ミーハーよろしく、道後温泉をのぞいていこう。松山の路面電車、あった、あった、と、子どもみたいに喜んでいる。だけど、道後温泉、あの有名な建物は、写真を撮ると後の高層建築がどうしても写ってしまう。前の空間が少ないから、なかなか全体は撮れないし。ストラスブールの大聖堂もそうだな、これはしかたがないとしても文化的建築を残すのなら、回りの環境も考えてやってほしかったな、これは行政の仕事だよ。タクシーのドライバーに教えてもらい、砥部に向かう。
国道33号線、陶芸の道と表示が出ている。 砥部焼きは磁器である。古い歴史もあるようだが、砥部焼きとしての始まりは江戸中期(1777年)杉野丈助が白磁焼成に成功してからだと言われている。
まずは砥部陶芸資料館に行く。砥部は砥石の生産地であったので、その粉を利用して焼き物を始めたという説明を本で読んでいた。だからついでに砥石も買おうと思って、館の人に聞くと、今は砥石の生産はやっていないと言われた。それは残念!資料館には伝統的な砥部焼きに加えて、現代作家たちの作品を、現代の家具にあうように飾ってある。伝統的な厚めの白い磁器に染付けで描いたものもいい が、現代的な山田ひろ子さんと大東アリンさんの作品が気に入った。アリンさんはフィリピン人なので、感覚が違っていていい、素人っぽいところもいい。そこで工房を教えてもらい訪ねていく。アリンさんの東窯は陶芸の丘にあったが、あいにく留守だった。
次のひろ子さんのきよし窯は、お祭りにもって行ってしまったので作品はここにはない、ギャラリー・シノンにおいてあるといわれて、また丘に行ったがシノンもお休みらしくシャッターが下りていた。そこで観光センターの炎の里で、置いてあるものの中から選んで、作品を買ってきた。カードが利いたので、ちょっと買いすぎてしまった。
砥部から33号線をそのまま久万高原町(くまこうげん)へ。三坂峠から見る山並みは霧がかかっていることもあって山が高く見え、いくつにも重なる山並みは深山幽谷を思わせ美しかった。いいところへ来たなぁ、いや、いいタイミングだった。 久万高原町に入った。久万高原町は4つの自治体が合併して出来た町である。四国の軽井沢、四国の北海道とも言われている。面積は横浜市より広い、なんて下調べはしてあるが、どれが元の自治体のどこだかわからない。とりあえず33号線をくだり、途中「でんこ」と言うお店でお昼を食べた。通りを菅笠をかぶり、雨合羽を着た人たちが歩いていく。はは~、ここもお遍路さんの道だったのだ。お店の人に「ここはどこですか」と聞くと「久万高原町です」「それは分かっているのですが、久万高原町のどこですか?」「久万です」「すると、ここが中心と言うことですね」
すぐ先のお饅頭屋さんで「おくま饅頭」を買った。なんでもおくまと言う女性が、旅の僧にお饅頭を振舞い、お礼に願い事をかなえてあげると言われ、ここらへんは人が少ないので、大勢の人が来るようにしてくださいと頼むと、僧は願いは必ずかなえてあげると言った。その僧が弘法大師だった。大師は近くにその札所を建て、大勢の人が来るようになった。そこでおくまさんの名前からこの地を久万というようになった、と店の人が説明してくれた。なるほど近くに岩屋寺という札所があった。
ガソリン スタンドでガソリンをいれ、ついでに冷房用のガスも頼むと、倉庫から探してくれた。その間中で女主人と話している。するとそこにKさんの顔写真のついた名刺が置いてあるのをみつけた .そこから話が弾んだ。ついでに余計なお節介で久万高原町の財政などを話している。町民は町の財政なんて知らないものだと思うから。PapasanがKさんに電話をすると、久万高原美術館に寄って行ってという。聞き耳を立て、どんな収蔵品があるの?と聞くと、父が寄贈したものだと言う。なら寄る、と言うと、Kさんも美術館に用事があるから、30分後に美術館でと約束する。お父さんって画家だったのかな??
久万美術館、坂を登ると、もう広々とした庭園の中、と言った感じだ。桜や木蓮、三椏、シデコブシなどが咲き乱れ、美術館を包んでいる。思わず、「お~、いいね~」と声をあげる。駐車場に車を止めて、美術館の中へ。靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。ええっ、と思ったら、この美術館すべて木造だった、木の感触がなんとも柔らかで温かい。美術館が出来て20年ほどになるが、当時、木造で美術館を建てるこ とは禁じられていた、が、木材の産地だから地元の檜や杉材を使いたいと申し出て、国から調査団も来てやっと許可が出たということだ。純木造の美術館はおそらくここだけだろうと言う。太い梁、それを支える太い丸い柱。この柱は樹齢80年を越える杉の柱。そうだな、三岸節子の記念館も木材がふんだんに使ってあったが、純木造ではなかったろう。香月泰男美術館は生家を使っているので木造だそうだが。
展示してある作品も、田舎の美術館だから、と思っていたら、どうして、どうしてすばらしい。日本の洋画の草分けとなった黒田清輝、高橋由一、浅井忠もある。村山槐多、萬鉄五郎、長谷川利行などの夭逝の画家たちの作品も並んでいる。鳥海青児もある。これはたのしい。 そこへ館長さんがいらして、紹介された。館長室に招かれ、入ると飾ってある写真の男性がKさんそっくりなのに気がついた。館長さ んに聞くとはたしてKさんのお父さん、お父さんは林業家で、多くの美術品を収集されたのだそうだ。現代画廊の州之内さんとか知っている名前が飛び出してくる。館長さんは愛媛新聞の文芸部にいらした方だとか、なかなか幅の広い人だ。これはいい人が館長になってくれた。美術館の運営は館長の力によるところが大きい。トーク・ショーやコンサートも行われているようだ。そこで久万美術館で開催された「州之内・井部コレクション展」の立派な図録を買った。装丁がいい。表紙は林武の「星女嬢」(宮城県立美術館蔵)
帰宅して「州之内・井部コレクション展」の図録を開いてみた。コレクターの故井部栄治(よしはる)氏は実業家で、町議、町長、県議等々の要職も歴任した人。それにしても、これだけのコレクションをしたのだから、なかなかの審美眼の持ち主だ。それを裏付ける言葉が本の中にあった。
「人間には美はなくてはならない。美があるからこそ、人生に潤いが出来る」「一度美しいものにとりつかれたら、どこまでも それを執拗に追い求める熱意と根性がなければコレクターとしての資格はない。金と時間さえあれば骨董なんか自然に手に入るものだという考えは間違っている。美を発見する目と美に対する熱情とが、われわれを駆り立て、それを獲得するまでは一歩も譲らないと言う気概がなければ、美術品を集めることはできない。」
そうだろうなぁ。井部氏の情熱を注いで集められた美術品、それを寄贈されて出来た久万美術館、久万高原に行ったら是非とも訪ねてほしい美術館である。