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クモ日記6

2005-05-19 14:47:17 | クモ日記
5月19日

二階の踊り場のオオヒメグモが甲虫を捕まえた。ヤスデに続く捕り物である。
ohimegumo
これもデジカメ写真。

寒い日が続いたが、昨日頃から暖かくなった。とたんに蚊がぶ~ん、ぶ~ん。いくらぶ~んか都市でも、飛ぶだけならいいが、知らないうちに攻撃されて、赤くはれ上がっているのは迷惑。お~い、クモ、出てきて蚊を取っておくれよ~、と騒いでいる。

クモたちは恋の季節だとかで、冬の間、トイレに陣取っていたアシダカグモのし~ちゃんも姿を消している。そのうち戻ってくるだろう。

その代わりに、夜にはヤモリが顔を出す。ガラス窓に来る蛾を捕まえに来るのだ。いろんな蛾が来るが、ヤモリが好きな蛾は決まっているらしく、やたらと取るわけではない。顔の上に乗られても取らない蛾もいる。小さい蛾の中で、白くて、さりとてそんなに小さくない蛾がお気に入りらしい。
ガス台の上の窓ガラスには大きなヤモリ。床までのガラス戸には小さなヤモリがへばりついている。ものさしを持っていって小さいのを計ると、尻尾まで入れて5cmだった。ほそいほそい尻尾。大きい方は窓枠から半身を出すことが多いので全身を計ることができない。

ミカンの花が咲き乱れてあたりは甘い香りが満ち満ちている。椎の木も花の季節らしく、小さな花がやたらと降ってくる。

5月20日
昨日の甲虫は切り落とされて、下に落ちていた。ムシの姿(殻)は外目にはそのままだ。写真を撮ろうと思ったが、写真機をしまってしまったので、窓枠に置いておく。乾燥しているから、残っているだろう。甲虫はエンマムシか、シデムシか、虫眼鏡を持ってこないとよく見えない。

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こんな赤いクモがオオヒメグモの網にいるのに気がついた。赤いクモはさかんに肢を動かしている。オオヒメグモは網の動きにさほど敏感になっていない。このクモなんだろう。

ここのところコグモガ誕生している。卵のうの傍にびっしりコグモガかたまっているのにきがついた。デジカメを持って二階へ上がっていくと、今朝までたしかにいたコグモたちの姿が見えない。そしてこの赤クノがいた。まさかこのクモがコグモを食べちゃったのでは?そこで赤クモの写真を撮った。クモ先生に送ったが鮮明でないので、翌日もう一度撮ろうと上って行くと、赤グモの姿はなかった。そして別の卵のうから生まれたコグモがかたまっていた。窓枠の下のほうに、コグモの網が見えた。コグモたちは勝手に散って行ったようだ。
先生からの返事だと、この赤グモはオオヒメグモの♂だそうだ。
オオヒメグモの網にはやたらとムシがかかっている。下には更に多くの死骸がちらばっている。ここは網をはるには場所が良いらしい。


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オーストリア・チェコ

2005-05-18 16:42:10 | 旅行記 ヨーロッパ

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プラハの街角で

2003年9月22日(月)

午後から成田へ出かけていく。ここ10年ぐらい、お昼ぐらいのフライトなら朝が苦手の私としては、成田でホテルに泊まることにしている。今回はフライトが10時10分だから、papasanの希望の窓際の席をとるためには8時10分までには行かなければならない。家からとなると、とても起きられない。

道路状態もよく、比較的早くついてしまった。半袖シャツで来たので、ここで着替えて車においていく。

食事の前に最上階にあるバーへ行った。食事は和食で日本酒を飲むから、カクテルはそうは飲めない。軽くジンフィズを飲みながら夕日の飛行場を眺めていた。毎度のことながらマッサージをしてもらい、眠りに着く。

9月23日(火)
起床5時半。支度をして車に残していく荷物をしまい、6時過ぎ朝食に行く。

7時前にチェックアウトに行くと空いていて6時55分の空港行きのバスに間に合ってしまう。15分ぐらいで第二ターミナルにつく。まだ係りは来てていない。私はふらふら歩いている。ウィンドサイドの席を確保するためにpapasanは並んでいる。オーストリア航空の座席は2,4,2だからウィンドサイドだと気はラク。

係りが来た。ウィンドサイドはいいところはほとんど他の会社の団体に占拠されているという。でも翼の近くがあったので、ひとますはほっと。ところがその後がいけない。機材搬入遅れだとかで、飛行機がウィーンを発つのが大幅に遅れ、その影響でこちらにつくのが午後、出発は13時10分になるといって、千円の昼食券をくれた。papasanはこんなこと初めてだが、私はネパールへ行くとき7時間も遅れた経験がある。

忘れたものはかなりある。なんとトーマスクックを入れ忘れた。成田で泊まったときに整理すればいいといいながらガイドブックは数冊入れたら、papasanが今回はドイツはやめようと言い出した。「35日フランスにいたけど回れたのはあの程度だったから、ドイツも30日くらいかけてドイツの田舎だけ回ろうよ、ドイツは春がいいね」Chopinさんやらじさんのドライブを吹聴した効果があって、papasan、車でまわる気になっている。もともとヴァイマールがどうなったか見たいから、またヴァイマールに行こうと言い出したのはpapasanだ。「いいよ、ほんとは2週間じゃぁ、チェコとオーストリアだけで手いっぱいだよ」
そこで今回は数箇所で、のんびりしようと言うことになった。だからドイツのガイドブックは着替えの中に入れて車に残してきた。

いつもカメラバッグに入っているので安心してたが、靴べらもない。おや折り紙もない。そこで二階へ買いに行く。トーマスクックは本屋にあった。私がミスしたので私が買う。時間があるので、ユーロを少し買った。バス代が必要だからと。

9時から11時まで、出発の入り口は列が幾重にも出来、まるで最終日の展覧会場みたいに混雑している。何回も空港に来ているがこんな情景は初めてだ。11時になれば行列も空くと言うので、椅子に座って待っている。私はふらふら歩き、どこかにPCがないかと探している。宣伝のスクリーンで1階の到着ロビーにPCがおいてあると見たので探しに行く。あった、あった、2台。一台は外国人女性が使っている。横文字が並んでいるのが見える。となり座って、100円を入れ、文字のツールバーがどこを探しても現れない。教えてもらおうときょろきょろしたが、まわりに人がいない。まさか隣の外人さんに聞くわけにもいかないし。あちこちいじったが見つからないのでしかたなく、英文で数行うちこむともう10分経ってしまった。
中に入れば、きっと日本語の出来る機種があるだろう。やれやれ。出発の成田からもう躓いている。

お腹はすいていないがもらった食券で、二階で軽くザルソバを食べた。東京駅の地下にあるそじ坊がここに入っている。だから期待したんだが、期待は裏切られた。この店はどこも生わさびをつけているが、それはここにもあった。papasanがすりおろして鉄火につけてよろこんでいる。

ようやくチェックを受ける。シールバッグに入ったフィルムを2袋、トレイに載せる。フィルムは例によってひとつずつふたを開けて全部調べられる。係りに「ひとつひとつご苦労さま、でも、こんなことするの日本だけですよ」っていうと「そうなんですか」と若い係員がびっくりしたように言う。「別に協力は惜しみませんけどね」とは言ったものの、シールバッグの中にきちんと並べてあったフィルムはぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃでもいいんだけど、バッグに入れるときかさばってしまうんだなぁ。

B71,待合室のコーナーにノートパソコンが一台置いてある。使っていいものらしいが、外国人女性がずっと使っているので試せない。トイレに行って戻ってくると、今度は外国人男性が。とても割り込めない。先回アリタリアの搭乗口近くに10分100円のPCが数台あったから、どこかにあるのではないかと探しに行くが見つからなかった。だったら、あそこでもう少し遊んでくるんだったな。

今回から綿シャツの上に網製のポケットがたくさんついたベストを着込んだ。中村さんからのプレゼントである。ノート、文庫本、めがね、お腹に入れるものをやたらと入れてある。阿刀田高の「新約聖書を知っていますか」を読み始める。実におもしろい。

12時すぎ、見覚えのある機体が入ってくるのが見えた。「ああ、来た、来た。これでどうやら出発できる」と騒いでいる。

席は31のJK。翼のすぐ後ろ。なんとか地上は見える。いつものようにウィンドサイドはpapasan。だから私は外を見ようともしないが、ときどきここはどこだと言う声に外を見る。沿海州からハバロフスクをぬけていく。高い山々は粉砂糖をまぶしたようにうっすらな雪を被っている。きびしい冬の到来が近づいている。シベリヤの内陸部は一面カバ色。光をうけて、もそもそと土くれが重なり合っているように見える。その中をうねるように蛇行する川の流れ。あの色なに?と驚いたが、きっと木々の葉が褐色に変わっているんだろう。ここらへんはタイガだと思っていたけど、落葉樹も多いんだ。

papasanはトイレに行く、散歩に行く、と言っては何回も席を立つ。そのたびにどかされるので、ウィンドサイドを私が取る。
ウィンドサイドの方が風が通って寒い。

ほとんど厚い雲に覆われて下界は見えなかったが、大きな川を見た。白い旅客船も何隻も見える。ここらへんで大きな川、ボルガかな、とするとあの大きな市はモスクワかな、などといいながらのぞいている。たぶん、あれはソ連式のアパート群だと思うが同じような長方形の建物が並んでいる。ミンスクのデニスの団地を思い出し、みんなどうしているかと話し合っている。来年こそはまた訪ねてみよう。

あっ、ドナウ川だ。この畑のさま。なつかしのウィーンだ。おや、風力発電が増えたなァ。ヨーロッパは二酸化炭素対策を確実にすすめているようだ。17時50分、ウィーン到着。イミグレイションでパスポートを出すと、ガチャンとスタンプを押したような音。あれ、スタンプ押してくれたのかな。

シティターミナルまでのシャトルバスがちょうどあった。2人で12ユーロ。夕暮れ迫るウィーンをきょろきょろしながら行く。
シティターミナルはヒルトンホテルの横。ヒルトンは改築中。

橋を渡ってリンクを抜けて、ステファンドームの横を通って、ホテルを探しにステファンスプラッツへ。広場にはいつになく大勢人が出ている、大道芸もやっている。あたりはすっかり暗い。でもウィーンには隣町に来たような安心感がある。ペストの記念碑の近くグラーベンに「ホテル グラーベン」がある。「部屋は狭いけど、ここでいいよ」ここに泊まるのは何度目だろう。
部屋はあった。1泊170ユーロ。高いけど、しかたないね、とチェックインする。同じ飛行機の日本人の二人連れも。その後、前の席にいたお兄さんもここに来た。部屋は34号室。狭いと思っていたら、広い部屋だ。グランドピアノもある。だから高かったのかな。こんなものいらないのに。ピアノを弾くと、鼻づまりの音がした。
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ペストの碑

カメラを持って、なにか飲んでこようと外に出る。目の前がペストの碑だからにぎやかだ。修理中のステファンドームの写真を撮ると雨粒がぼつり。おや、雨だ。言ってる間に降る量が増える。こりゃいかんとホテルに引きし、ホテルのトラットリアでワインを飲む。
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グラーベンのショーウィンドー

9月24日(水)
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夜のシュテファンダム

早く寝たので夜が長い。何回も目を覚ます。しかし、起き上がって何かしよういう気力はない。6時ベッドを抜け出し、日記を書き始める。まだ外は暗い。「7時だよ、朝食にいこう」といわれ、あれ、もうそんな時間なんだと気がつく。

朝食後8時すぎ、カメラだけ持て町に出る。小雨が降っている。半袖の下着に綿のブラウス、網のベスト、いつもの裏つきのゴルフジャケット。レインハット。papasanは綿の下着に綿の半袖のシャツ。薄手の防水のジャケット。羊毛のハンチング。ケルントナー通りをオペラ座に向かう。記憶がよみがえる。けっこういろいろ覚えてるもんだ。オペラ座でスケジュールを調べる。27日にトスカがある。29日はフェードラだ。チケットを買ってもいいんだけど、帰ってこれるかな。27日どこにいるかわからないが、そのために帰るのは面倒だ。

いつもウィーンでの事始はリンクを回るトラムに乗ることだ。一周して来て、モーツァルトの像の前で降りる。寒い。セーターを着てこよう。公園の中を歩いてホテルに向かう。ハトがいる。池にはアヒルもいる。ポケットからパンを出してちぎって与える。雨はぽつぽつ。戻るともう部屋の掃除は済んでいた。

フロントでプラハへの行き方を聞くと、南駅発で直接プラハへ行く電車があると教えてくれた。そこで南駅まで明日のチケットを買いに行く。今度はデメルの前を通って。papasanが「デメルはこっちじゃないの」と反対方向を指差す。「いいえ、こっち。方向音痴だけど、この町だけは任しといて。ほらね」「おそれいりました」でも、デメルはまだ開いていない。この頃はそんなにデメルで食べたいとは思わない。カフェ・モーツァルトもザッハーも素通り。

途中、演劇の広告で今夜アンティゴネーがフォルクス劇場であることを知る。チケットを買いに入るとキャッシュ・オンリー。一人42ユーロ。キャッシュの持ち合わせは45ユーロしかない。ATMを教えてもらい、そちらの方向に歩き出す。ところが道を間違えたらしく、教えられたところにはない。しかないないのでアンティゴネは止めにする。しばらくしてバンクを見つけキャッシュを下ろすことが出来た。

「まかしといて」と言っていたのが、ここでミス。こっちだと頑張ったら、元に戻ってしまった。あぁ、ぼろが出ちゃった。でもステファンドームがあるから、迷子にはならないね。ムジーク・フェラインの予定も見てこよう、と再び歩き出す。途中、インペリアルでお茶とアプフェル・シュトドゥーデルを食べた。以前はケーキを何種類もとって、My mainなんてしゃれてたけど、もうそんなには食べられない。ここの紅茶もティーバッグ。アプフェル・シュトドーデル、うん、いまいちだ。パラチンケンにすればよかったかな。

歩くと暑い。ここでセーターを脱いでしまう。余計な荷物になった。ムジーク・フェラインはすぐ隣。今夜の演奏はない。27,28日にムッテイ指揮があるが売り切れの表示。ウィーンに来る楽しみは音楽会なんだけどなぁと残念がっている。ついでにセセッションでベートーベンフリーズを見る。クリムトがベートーベンの第9、歓喜の歌を象徴したものだ。

南駅へ明日の10時25分発プラハ行きのチケットを買いに行く。南駅まではオペラ座前からトラムDで。途中べルベデーレを通る路線。かえりDがどこまで行くのか乗ってみることにする。行き先はNussdorf。おや、フンデルトワッサーのごみ処理場だ。行き先を読んでいたpapasanが「ベートーベンガンク(ベートーベンの小道)って書いてあるよ」という。外を見るとなじみのある風景。「ここはハイリゲンシュタットだよ。ベートーベンガンクがあって当然だ」今日は天気が悪そうだから郊外へ出るのを止めていたんだけど、雨は上がり日も射し始めた。おやまぁ、いつも乗ってたのはDじゃなかったと思うけど、また来ちゃった、ご縁があるね。

終点で降りてベートーベンガンクを歩き始める。趣のない小川沿いの道。コンクリートで固めた川だ。もうすこし環境を整えればいいのに。日本人のご夫妻はそっちへ向かうが、途中で私たちはエロイカガッセに向きを変える。思い出した、この道。この家、前はこっちから上ってきたんだ。あっ、このレストランで食事をしたんだ。じゃぁここで食べようよ。入ろうとすると、レストランは閉まっている。休みなのか、閉店してしまったのか、人の気配はまったくない。

レストランをすぎ、坂を下ると、ベートーベンの絵が描いてあるレストラン、この前もここで写真を撮ったよ。入ろうかと、のぞくと開店は18時から。幼稚園の横をのぼり、セントミカエル教会で思い出したように中に入って、マリア様にお天気をお願いをする。

EINBARNの標識を追ってやっと38番の電車に出会う。「この電車、町まで行く?」と車掌に聞くと「ヤー」フンデルトワッサーのゴミ処理場を左に移動して、リンク傍の二つの塔のあるヴォーティーフ教会まで来る。うん、来た来た、と、電車はターンして、いつしか中心から離れて行く感じ。私はこの電車が南駅に行くものだと信じているから、なんの不安もない。「ウィーンってには、なんか隣町に来たような安心感がある」なんて言っていたら、電車はまたフンデルワッサーのゴミ処理場の方へ来た。あれ~、また、間違えた。やっぱり、7年ぶりはおのぼりさんだ。あわてて降りて引き返し、教会近くで下り、リンク2に乗って戻る。
「フンデルトワッサーのゴミ処理場、見学出来るんだよ。ウィーンに戻ったら行ってみようよ」

夕べにつづいてトラットリアへいく。このホテルはイタリア系だから、レストランはイタリア料理。キャンティを1本取って、私はスパゲティ・ポモドーロを頼む。papasanはピザ。ソースは美味しかったが、パスタは柔らか。以前はそんなことなかったのに。「ソースは美味しい」というと「サンキュー」というから「でも、パスタがアルデンテでないよ。私はアルデンテが好きなの」うるさい客だ。

9月25日(木)
雲ひとつない快晴。マリア様の霊験はあらたかだ。7時過ぎ食事を済ませ、時間があったのでステファンドームに行ってマリア様に感謝し、またまた今日のお天気を願う。

9時過ぎグラーベンを出て、オペラ座に向かう。オペラ座からトラムDで南駅へ。電車で1駅分のチケットを買おうとしたが、紙幣しかない。紙幣はダメとのことで、南駅でおりて急いで売店で買ってもって行くが、運転手が代わってしまってわからないという。また帰って来てから使えると、そのまま貰っておくことにする。

10時25分ブルノ経由ハンブルク行きのEC,ファーストクラスだ。コンパートメントには私たちしかいない。ピーと言うホイッスルと共に発車。めずらしい、こんなホイッスルを聞くのは。車窓から広がる麦や牧草地を眺めている。ブドウ畑もある。道に沿うはポプラの並木。並木道に背の高い木を植えたのは日陰が出来ることもあるが、目印にもなったのだろう。ヨーロッパの風景だ。刈り取られた麦畑ではたくさんのハトがなにかさかんに拾っている。ハトの落穂拾いだ。畑の上を舞うのは小さなタカ。ネズミや小動物がいるのだろう。あれ、ウサギだ。茶色の野ウサギが向こうを見ている。

ほどなく二人連れがパスポートチェックに来た。オーストリアのチェックだ。電車マークのスタンプを押してくれた。そしてチケットの検札。続いてまたパスポートチェック。まだオーストリア領内なのに、今度はチェコ リパブリックのチェックだ。チェコに入ってまたチェコの車掌のチケットの検札。もうこれでいいだろう。すると今度は女性が入り口に立っている。「何ですか?」ときくと「マネーチェンジ」に来たのだという。ちょっと危ぶんだが、駅にATMがないと電車代に困るので、50ユーロ両替してもらう。率は悪かったかもしれないが、これが大いに役に立った。

チェコに入ってから列車のスピードがぐ~んと落ちた。広軌は同じなんだが、なんでだろう。チェコに入ってからは日本みたいに山と言うか切通しを縫って走る、そのせいかも。プラハ近くなってまたスピードが出た。

papasanは持参のウィスキーを飲み干して酔っ払って寝てしまった。時間あるから大丈夫だと言って。成田で買ったときから心配していたのだが、まったく困ったことだ。プラハ14時59分。到着1分前にトイレに行ったきり戻って来ない。到着してみんなが下りはじめたので、荷物を全部持ってひとりで降りる。荷物をおいて探しに行くわけにいかず「papasan!」と大声で呼んでいる。ようやく、姿が見えた。「終点じゃないの?」と言いながらやっと降りてきた。「次はドレスデン。ベルリン、ハンブルクまで行っちゃうよ」と怒鳴っている。

駅は本駅ではなくホロショビッツ駅だ。そっと寝かしておいたのだが、ウィスキーを半分開けたのだから無理はないが、酔っ払いは回復していない。歩くのもやっと、ふらふら千鳥足。仕方がないので、大きなバッグは私が持つ。本当なら地下鉄で行くところだが、タクシーでヴァーツラフ広場まで来る。500コルナ。1コルナ、約4円。ボラれてるかもしれないが、酔っ払いがいてはしかたがない。

ヴァーツラフ広場は、なにこれ!というくらい人、人、人。まるで革命の日みたいだ。ホテルを1軒ずつ当たるがどこも満杯。
一日なら部屋があると言うが一日ではと困ると捜し歩く。かなり歩き回った。一軒の小さなホテルで、ここはないが他を探して、地図を書いてくれた。聞き聞き歩いたのだがそのホテルはとうとう見つけられなかった。
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途中で見かけたホテルROTTできくと3晩はダメだが、2晩ならいいというのでそこにチェックインする。部屋は1泊240ユーロ。シーズン料金で高いが、しかたがない。チェックインにいらいらするほど待たされる。やっと部屋のカードを貰い、エレヴェーターで3階に上がる。エレヴェーターもカードを差し込まないと乗れない。これはオスロで経験済み。省エネで廊下には明かりはない。小さな電灯を押すと廊下の電気はつくようになっている。フランスでこういうスタイルに出会っている。

部屋はきれいだが、バスタブはなくシャワーだけ。テレビでインターネットが出来るようだが、どうすればいいのかわからない。自分のPCが接続できるように差込口もある。設定の仕方も書いてはあるが、説明はチェコ語だから全く読めない。残念だが私はまだ使えない。先ずはカメラを持って散歩に出る。tean
ティーン教会

ホテルは旧市街広場の近く。うん、こっちの方がむしろ観光には便がいい。旧市街広場には屋台が並び、仮設舞台がつくられ、そこで若いミュージシャンたちがうるさいくらいのボリュームで騒音を流している。黒山の人だかり。2頭立ての馬車に乗った。700コルナ。川岸の市民会館の前まで行って、ベツレヘム礼拝堂の前を通ってきただけ。な~んのこっちゃ。高いなァ。広場の入り口には旧市庁舎。人形が出てくるらしくみんながたかっている。5時10分過ぎ。人形を見るにはまだ時間がある。市庁舎の上に上れるみたいなので、インフォメイションに行くと、5時で終わりだと言う。9時から5時までとのこと。
広場の正面には双塔のティーン教会。広場も通りも、なんせすごい人ごみ。人の流れに沿って歩いていくと火薬塔に着いた。そこを抜けると、きれいな建物にぶつかった。ガイドがさかんに団体客に説明している。私も写真を撮っている。

とその建物の前に明晩のコンサートの案内。演目はモーツァルトとベートーベンだ。二人で話していると、男性が「いかがですか」と声をかけた。「どこでやるの?」ときくと、今写真を撮っていたこのきれいな建築物だと言う。「ここコンサートホールなの?」男性はにこやかに「イエス」。「チケットはどこで買うの?」「ここです」といって私たちを建物の中に誘った。チケット売り場がある。会場写真をみせ、どこがいいかという。舞台の前が1300コルナ。両サイドが1000コルナ。センターが800コルナ。センターのベストサウンドの席がいいと買うと800コルナの席だった。VISAもOKだったがちょうど1600コルナ持っていたのでキャッシュで払う。明日が楽しみだ。
ATMを見つけお金を下ろすと2千まで。やっと3千下ろした。やだなぁ。両替はたくさんある。日本円もある。しかたがなければ日本円を両替すればいい。
squire
旧市街広場

食事をしたいが、旧市街広場のまわりはうるさくてイヤだ。ホテルの隣がレストラン。Traditionalと書いてある。入ってみた。
「予約は?」「いいえ」というと地下の穴倉のようなつくりの部屋に連れて行かれた。メニューには日本語もある。ということは日本人客も大勢来るのだろう。隣の部屋でショーがあるのだろう。民族衣装に着替えた男女が待っている。ショーは予約じゃなければ見れないのかも。シェフお勧めのメニュー。牛肉のピリカラ。と骨つきポーク。ピリカラはビーフを小さく切ってトマトソースと唐辛子で煮込んだもの。それを大きなパンの中に入れて出てきた。その大きさに先ずはうんざり。付け合せにピクルス。紫キャベツの酢漬け、サニーレタス、パプリカ、これもたっぷり。さらにびっくりは骨付きポーク。一本そのまま上にナイフとフォークを刺して皿にのっている。見た目も山賊料理みたい。味はなんだろう、ナイフで一口そいで、ポークの味にうんざり。papasanと取り替えてもらう。小さなパンがいくも出たので、それにビーフを載せてたべている。キャベツの酢漬けはいける。papasanはビール、私はワイン。Traditionalはもうパス。二人ともほとんど食べられない。なにか舌にあうもん見つけなければ。上はガラス製品のお店。お土産にボヘミアングラスを買って帰ろうと思ったが、すこぶる高い。

9月26日(金)
7時朝食へ行く。昨日のことがあったので、期待していなかったがここの朝食も美味しい。ハム類の味は悪くない。小さなパンも美味しい。パンをひとつハトのためにポケットに入れる。8時前にはホテルを出て、昨日見つけた建物の写真を撮りに行く。なんせ今回の目的はバロックやロマネスク、アールヌボー様式とりどりのプラハの建築物をみることだから。カレル橋のひとつ上の橋を渡って遠くからカレル橋を写す。朝のせいか観光客はまだ少ない。モルダウの流れがきれいだ。

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プラハ城から

プラハ城に向かって坂を上っていく。結構距離がある。タクシーで上って歩いて降りてこようといったのだが、歩かされる羽目になってしまった。城に入ろうとするとちょうど衛兵の交代式。ミーハーになって写真を撮りながら交代式を見ている。
交代式はあっちこっちでよく見るなァ。ここの一室でハベル大統領が執務していると「プラハを歩く」に書いてあったけど、
どこかなぁ、ときょろきょろしながら入る。まずはヴィート大聖堂へ。ここで城内の見学場所の共通券を買う。チケットを示すと、はさみを入れてくれる仕組み。一人220K。ステンドグラスがきれいだ。聖堂でマリア様にお礼と更なるお天気のお願いをする。聖堂の奥はさっきの共通券が通用する。次はバッロック様式の聖イジー修道院。そんなに大きくないが、シンプルでやさしくってとてもいい。板張りの天井もいい。

黄金のの小道、ここは小さな工房が並んでいる小道。織物、ガラス、陶器、人形、楽器などなど、ここの生産物はギャラリーで売っている。この小道は絵になると言いながら写真を撮っている。またまた聖堂近くまで上り、旧王室や天文などの資料の入っている塔をみてまわる。疲れた、足が痛い。なんてたって、石畳の道だ。足には優しくない。

下に降りて電車でさっきの上り口まで戻り、カレル橋をわたる。橋の両欄干には彫像がいっぱい立っている。売店もいっぱいある。なんともひどい絵を売っている。写真も並べてある。名所だから仕方がないが、人、人、人。モルダウの流れをのぞくとカモたちが流木よけの木組みの上で眠っている。ポケットにあるパンを投げると、目ざとく見つけたユリカモメが取りに来た。そうだ、そうだ、今朝のパンもある。全部やってしまった。

川沿いのスメタナ記念館を探す。テラスにはスメタナの像があるが、まわりはレストランだ。まずはお茶を飲む。papasanはビールだ。記念館はこのレストランの2階。下でチケットを買う。ひとり50k。上に行くとカメラ代が必要だと言うが、写真は撮らないといカメラのメイン・スウィッチをきる。資料と言ってもさほどのものがあるわけじゃない。自筆のスコアのコピー。
両親の写真などなど。音楽は流れていない。音楽家の記念館なら、先ずは静かに作品を流すべきだよ、文化がないね、
と文句を言っている。言葉(英語)が通じたらきっと文句を言ったろう。スメタナやドボルザークはチェコを代表する作曲家、プラハの春の音楽祭にも大々的に使われているが、それにしてはこの記念館はお粗末だ。スメタナ記念館がこんなていたらくじゃ、ドボルザーク記念館も、今夜の音楽会も期待薄だ。
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プラハ城を臨む

本駅の方に歩いていき、ミュシャ美術館を探す。ヴァーツラフ広場のもうひとつ向こうのとおりを戻ったところ。すぐわかった。ミュシャのデザインはよく知っている。でもこれだけそろっていると彼の世界に入れるから印象はとてもいい。この人あたりからグラフィックデザインができたんだろうとポスターを見ながらつぶやいている。有名なサラ・ベルナールのポス多ーも何枚もある。でも彼女がハムレットをやっていたのはしらなかったな。彼女が愛した別荘はベル・イルにあり、行ったことがある。

ミュシャを見て旧市街広場に戻り、インフォメイションで明日のバスターミナルを教えてもらう。隣の食堂で昼を食べる。
思い出して市庁舎の塔に上がる。一人40k。3階がチケット売り場。3回までもエレヴェーターがあったのだが、気付かずあるいてしまった。階段上りは足の弱い私には一番きつい。ぶーぶー。3回からはエレヴェーターがある。エレヴェーターのまわりを回り道ができている。スロープはゆるやか。これなら歩けそうだ。かなりの人が歩いている。

塔からの眺めはいい。足がすくむ。お尻がもぞもぞするがこらえて大好きな構図、屋根、甍の波を撮っている。正面から光が当たっているところは平面になってしまうので、ぐるっとまわりながら、光のいい場所を選んでいる。赤い屋根が重なるサマはいつもいい。

エレヴェーターで降りる。下に来て15分待って4時の市庁舎の天文時計を見る。ホテルに戻り洗濯をしシャワーを浴び、コンサートまで一休み。
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この人たちはなに?

7時、寒くないように着込んでコンサート会場へ行く。ここに来てやっとこのコンサート会場がスメタナ音楽ホールであることにきがつく。内装のデザインはミュシャ。これはさっきのミュシャ美術館で知ったばかり。天井画は彼の作だ。会場にあわせてあるから色も飛びださず、しっくりしている。いい雰囲気だ。ミュシャで思い出した。プラハ城の大聖堂のステンドグラスもミュシャのデザインだった。

やっと演奏が始まった。ホールの反響はさすがにいい。それにしても、まぁ、なんてヴァイオリンの音のお粗末なこと!ウチにもチェコのヴァイオリンあるんだけど、チェコのヴァイオリンはいいんだけどなぁ。それにここにはヤナーチェク四重奏なんてすばらしい演奏者たちがいたのに。ヴァイオリンとビオラのデュエットもかみ合わない。ぶすぶす怒っている。演奏中、チェコの音楽家が冷遇されていた頃の映画、教会で聖歌を歌いながら前の女性のお尻を触っていたそんな場面を思い出した。劇作家のハベルが大統領だから、芸術は冷遇されていないと思うんだけど。あぁ、口直し、ならぬ、耳直しが必要だ。
プラハは2日しかなくて、却ってでよかったよ。

9月27日(土)
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7時食事。8時過ぎチェックアウト。タクシーは?とフロントに聞かれたが、歩くと言って、本駅まで歩く。これは失敗。ロングウェイだった。途中、道を間違えて、人に聞き聞き行った。年配の人は英語もドイツ語も通じなかった。学生はさすが、英語が通じた。駅に着いたのは8時45分。チケットを買い、5番線ホームに行く。もう列車は着いていて、コンパートメントに空きはない。ノースモーキングの、男性が一人のコンパートメントに挨拶をして入る。土曜日のせいか、客は多い。続いて女の子を二人連れた母親と女性が一人入ってきた。彼女たちは先にいた男性とおしゃべりをしているが、チェコ語はなんいもわからない。
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二人の女の子は本を読んだりしているが、あきたみたい。そこで折り紙を取り出し、ツルを折ってやる。「これなんていうの」と聞くと「チャープだ」と答える。ただし、これがツルのことだか、コウノトリのことだが、定かではない。「作ってみる?」ときくとお姉ちゃんが作るというので、風船から教える。器用な子で上手に折る。そしてすぐに覚えてもう一人の女性に教えている。お母さんは折り紙を知っていて、ノートを破って、やっこさんを折って見せた。それを私が帆掛け舟や、二艘舟、はかまなどに変形させて見せる。お母さんともう一人の女性は英語を話す。お姉ちゃんの方は13歳、7年生だと言う。チャープがツルかお母さんに確認するのを忘れてしまった。

私たちがチェスキークロムロフへ行くのを知ると、自分たちもダンスの公演にチェスキークロムロフへ出かけるのだという。
そして本番は明日の11時だが、今夜6時からのダンスの練習をするから見に来るようにと誘った。それはいい、行って見よう。ノートに場所を書いて渡してくれた。隣のコンパートメントでは仲間たちがギターの伴奏で歌を歌っている。巨体の男性、ほっそりした若者、若い女性たちが4人、ダンスの先生と年配の女性、その中に割り込んで、私たちも一緒に歌う。
チェコの民謡、なにか知っているようだけど思い出せない、「気のいいガチョウ」は違ったかな、でもいい加減にあわせているだけでもたのしい。

日本の歌を歌ってくれと言われたので、何曲か歌った。papasanの声を聞いて「コーラスをやっているのか?」と聞く。
男声コーラスにいたというと、「パートは?」「バリトン」簡単な日本の曲を教えてくれと言うので「蛙の歌」を輪唱で歌わせる。何回も何回も、大笑いしながら繰り返した。向こうもなにやらたのしい歌を教えてくれた。何回もかけあいのように繰り返すので、そのときは覚えていっしょにくちずさみ、「意味はなんていうの?」ってきくと、男性は「女性が必要、必要」と歌い、女性は「男性が必要、必要」と答えるのだと言う。こんな様子だったから、この人たちは旅芸人かと思ってしまった。

あまりにもたのしそうなので、隣に座っていたおじさんまでのぞきに来た。席に戻るとそのおじさんが去年の洪水の話をしてくれた。ここら辺でも7mもの高さまで水につかったという。へぇ~、7mも。2階ぐらいまで水に浸かってしまう。大変だったのだなぁ。

チェスケーブジョビッチで下り、私たちはバスでクロムロフへ向かう。彼女たちは電車かも。バス代は中で払う。二人で55K。バスに乗り約40分。終着駅に着く。荷物を引きずりながらみんなの後をついていく。下に見える町並みは美しい。カラフルな塔を中心に赤い屋根と白壁の家々。蛇行するヴルタバ(モルダウ)川の流れ。まだ緑を残している木々。絵になる風景だ。ここは1992年に世界遺産の指定を受けている。
childdance

町に下りながらホテルがあったので聞くがフル。おやまぁ。今日は土曜日だから危ないとは思っていたけど、さっそくダメだ。次に見つけた

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北欧記

2005-05-15 17:50:57 | 旅行記 ヨーロッパ

nakaniwakara
市庁舎の中庭から

2000年7月4日
成田10時15分発KLM。いつものシベリヤルートでアムステルダム3時着。4時20分アムステルダム発。空から見るスウェーデンは森と湖がなんとも美しい。ストックホルム6時半着。まだ日は高く、しかも暑い。

空港からバスに乗ると、運転手は女性。高速道路を100キロでぶっ飛ばす。中央駅に着き、ホテル・スカンディック・コンチネンタルを尋ねると、教えてくれたが、よくわからない。中央駅の正面へ行くと目の前がホテル。すべて順調。部屋に入ると、テレビがついていて、しかも名前入りで歓迎のメッセージが入っている。フロントからのメッセージが続いて入り、明後日の乗船キップを預かっているという。急いでパパさんがもらいに行く。

cityhall
市庁舎

8時過ぎだというのに日はまだまだ高い。日本の3時ごろの太陽だ。カメラをもって外に出るが、なんとなく元気がない。時差のせいだ。ホテルの隣は高い尖塔のある大きな教会。さすがにもう門は閉まっている。もったいないが戻って寝る。
church
ホテルの隣の教会

10時目がさめて外を見ると薄明かり。次に目を覚ましたのが午前2時。薄明かり。そして5時には日が昇っていた。夜はいつきたのだろうか。

7月5日。

5時半起床。6時半、駅にスカンディックパスのヴァリデードをしてもらいに出かけていく。日本人観光客が大勢もう集まっている。「お早いですね」と声をかける。まだ売り場には係員の姿がないので出直すことにする。猫に綱をつけ、家族で出かける人に出会った。猫に「おいで」というと、よってきたので、撫でながら、主に話し掛ける。「うちには10匹猫がいる」というと、「10匹も」とうれしそう。これからバカンスに猫も連れて行くのだという。

ホテルに帰り、食事をして駅に行き、ヴァリデードをすます。7時40分のウプサラ行きでウプサラまで行く。電車は快適。外の景色もいい。ところがウプサラはひどい雨。雨具をおいてきてしまったので、外に出るわけにも行かず、駅で雨宿りしているが一向にあがりそうにない。トイレは5クローネ。電車が来たのでそのままストックホルムへ引き返す。

library

ストックホルムは曇っているが日差しももれて暑い。パパさんがストックホルムパスを買ってきたのでスカンセンへ行く。動物園やアミューズメント施設がある。あんまりおもしろくはない。そのあとSightseeing Busに乗り、一周する。そんなに大きな都市ではないから、観光は歩いてできる。ホテルに戻り、食事に近くの中華に行き、歩いて行く。
kena

旧市街に行くとケーナの音が聞こえる。近づくとインディオらしき男性がケーナを吹いている。いい音だ。そこでCDを120クローネ(約1500円)で買う。港まで下りて行き、帰りバンドゥーラの響きに足をとめ、近くでお茶を飲みながら耳を傾ける。
banndura

雨が降りそうだ。言ってる間に大雨が音を立てて降りだし、雷がなり始める。途中喫茶店で雨宿りをし、小雨になったところを急いでホテルに帰る。しかしぐしょ濡れ。急いで風呂に入り、髪を洗い、洗濯をし、衣類を乾かす。gamurastan2
パパさんはいびきをかいで寝ている。その間7枚の絵はがきを書く。雨がやんだので、絵はがきを出しながら、市庁舎まで出かけて行く。8時過ぎだというのに、まだ明るい。写真を撮る。戻ってきて隣の食堂で夕食を食べ、つかれたのでそのまま寝てしまう。12時、外を見ると空が暗い。12時ごろが真夜中で日がくれるらしい。

7月6日

upsarau
ウプサラ大学

起きると外は雨。今日はウプサラへいく予定である。この雨ではどうしようと迷ったがここにいてもしようがないし、とパパサンの決断で7時25分でウプサラに向かう。ウプサラへいくと天気はよい。雨に洗われた緑は日の光にぴかぴかと光ってとても美しい。ウプサラは緑深き町だ。
roon
ルーン文字の碑

聖堂を見て、ウプサラ大学の構内でルーン文字の碑を撮す。大学構内の環境はまことにいい。ウプサラ大学出身の6名がノーベル賞受賞者。大学の壁面にその人たちのプレートがはめ込まれている。
銀の聖書を見るために図書館に行く。シルバーバイブルは実にきれいだ。ゴート語に翻訳し、銀と金のインクでかいたのだそうだ。8世紀頃のものだ。説明は英語がついている。客は私たちだけ。

upsara
ウプサラ大聖堂

緑の並木を少し上がったところがウプサラ城。そこから見下ろす大聖堂の景色もいい。ウプサラ城を見て、町に下る。町の通りの屋台で果物を売っている。どこのもの?って聞くと、トルコ産だという。連れ合いはあい相変わらずイチゴ、ネクタリン、フランボワーズを買っている。しかもお釣りがなくて、どっか遠くまでくずしに行った。その間、私は屋台の側を離れるわけにも行かず、近くのウィンドウをのぞいている。連れ合いは買った果物を駅の売店で洗ってもらって食べている。
gamrastan

ストックホルムに戻り、市庁舎を見学する。ここはガイドなしには見学できない。ちょうど12時のガイドに間に合った。英語のガイドに入った。1階のホールがノーベル賞授叙式に使われるところだ。パパさんは以前来たことがあるので、説明してくれる。説明はこれで十分なのだが、ガイドは自分の説明を聞いてまわるように言う。フランス語のガイドの方がさっさと行く。あっちに入ればよかったなぁ。面白くもない説明を長々と聞かされうんざりだが、自由に見歩くことができない。ヨーロッパではこういうシステムは多いが、あんまり好きではない。

駅に戻り、ホテルで預けておいた荷物をもらい、タクシーでヴァイキングラインのターミナルに行ってくれと頼むと通じない。この国ではヴィーキングラインと発音するのだそうだ。
1
ヴァイキングライン
4時乗船。MARIELLA号は大きな船。37,799トン。1985年建造。全長177m、全幅29m。速度22ノット。乗客定員2,700名。10階ぐらいの高さだ。1階から3階までがカー乗り場。4階から6階までが宿泊施設。7階が食堂。8階までエレベーターがある。その上に甲板、更に上甲板がある。甲板ではビールを売っている。部屋を取らないで、乗船している客も大勢いる。シュラフに包まって甲板で寝ている人たち。ベンチでごろ寝をしている人たち、夜っぴいて騒いでいる若者たちなど多種多様。レストランもいろいろある。免税品を売る店は大繁盛だ。

5時出航。ラグジュアリーはなかなかいい部屋だ。思いのほか振動も騒音もない。下手なホテルよりはずっといい。シャワー、トイレはついているし、冷蔵庫もテレビもある。冷蔵庫にはコンプリメントのスパークリングワインの小瓶が二本とスポーツ飲料が入っている。みやさんたちもこういう部屋で過ごしたのだろう。(註:みやさんは歴史の先生。ジェノバから黒海までのクルーズに出かけた)

白夜の海を2万以上もあるという島々の細い水路をとおって船は走る。ずっと見ていようと思ったのだが、すぐ眠くなって寝てしまう。8時ごろ目を覚まし珍しく着替えて食事に行く。めがねを忘れたので取りに戻ると、その間にパパサンがワインを注文しておいてくれた。おやまあ、マルゴーのグランクラッセだ。張りこみましたね。
marienham
マリエンハムの夕日

10時ごろ、マリエンハムンに到着。夕焼けがきれいだったのでシャッターを切ったのは覚えているが、いつのまにか寝てしまう。ほんと、よく寝る。

7月7日。

窓から差し込む日差しは暑いくらい。冷房をつけ、食事に行く。のんびり食べて10時には港につく。海から見るヘルシンキはあんまり美しい町ではない。予定では明日の一番でタリンへ行くつもりだったが、どうも朝の便はないらしい。ならば、今日、タリンへ行ってしまおう、タリンで泊まっても良い。タリン行きのシリアラインの様子を聞こうといろんな人に尋ねたが聞くたびに違うことを言われ、シリアラインのターミナルも探して、ずいぶん歩き回る。とうとうわからなくてヴィーキングラインのターミナに戻り、タクシーで「シリアラインのターミナル」というとつれて行ってくれたが、とても歩いて行ける距離ではなかった。

ここで中国人の団体に会った。台湾からの一団で、これからスウェーデンに向かうのだという。お年寄りが達者な日本語で話すのが、歴史を知る者にはひっかかる。

以前にバルト3国の歴史を読んでいたので、出来ればバルト3国に入りたいと思っていた。エストニアにはビザがいらないと知り、ソ連圏に併合され、独立までの厳しい道のりを歩んだその地に急遽足を踏み入れることにした。

シリアラインの受付は親切。そこでタリンまでのチケットを買い、高速船シーキャットに乗って1時間半、エストニアのタリンに着く。乗客の子どもたちがピカチューのぬいぐるみを持っている。「ピカチュー?」ときくと、頷いている。ピカチューも国際的になったものだ。

イミグレイションでは日本人のためか(この船には東洋人とおぼしき客は私達以外いなかった)時間がかかったが、無事入国できる。持っていたクローネを両替する。雨が激しく降っている。タリンで一泊しようと思っていたが、この雨では。やむなく荷物を預け、外に出るとタクシーが「2時間で400エストニアマルクでどうだ」と声をかけてきた。相場もわからないが、この雨ではどうしようもない。承諾して車に乗る。

1

タリンの歴史的エリアはすばらしい。ナチスもこの歴史的古都は破壊しなかったのだそうだ。雨の中を外に出てシャッターをきりまくる。旧市街の佇まいはよい。きれいな町だ。
tarin

途中、ぞろぞろと、旗をもって昔の農協さんさながらの3組の団体にあった。運転手があれはヤンキーだという。たしかにヤンキーだった。アメリカも今は景気がいいのだろう。しかし、こんな大勢の団体でやってくるとは。
tower

新市街の方は、まだソ連時代の影が残っている。森の中の家の前に兵士が立っている。「何してるの?」ときくと「あれは官邸だ」という。ほほう、あの程度の警備でいいなら、この国は治安はいいのかも。官邸の前はスターリンの滞在した家。私たちはクリーム色の壁をKGBカラーと言っているのだが、まさにそれ。「寄るか」と聞くので、スターリンは好きじゃないからからいいと断る。それを聞いて、運転手は笑っている。ちょっと反応はわからない。

church

そのうちに雨があがり、光も差し出す。「泊まりたくなっちゃったねえ」と言いながら、でも荷物を預けてあるので、ターミナルに戻る。運転手に約束のお金と残ったお金を全部やってしまう。運転手はよろこんでいる。

シリアラインの18時のキップを買おうと思ったら、満席で、22時の船しかないという。それでは遅い。早い船はないかと聞くと、タリンクを聞いてみれば席があるだろうという。タリンク(エストニアの船)は4時15分発。すぐ出発だ。急いで、チケットを買い、パスポートコントロールを通り、乗船する。船は十分空いていた。この船にも免税店があり、私たちの座ったところが会計の場所だったのでうるさかったけど、人々がどんなものをかうのか興味をもって見ていた。ほとんどの乗客が酒、タバコ、チョコレートを買う。どういう状況なのか図り知れずにいる。

港にもホテルはあったが、ラマダ・プレジデントが駅の近くなので泊まる。フィンランドの価格は安い。日本人ツアーも多い。食事前に白夜を利用して市内一周の電車に乗る。あーあ、タリンに泊まるべきだった。どうも海から見た第一印象がわるかったらしい。ということは、都市づくりには第一印象も大事ということになる。フィンランディア、シベリウスのイメージに憧れてはいたのだが。でも、出来るだけ歩き回る。

明日はタンペレをまわってトゥルクに行こうということになる。食事をし、風呂に入り、洗濯をし、寝てしまう。北欧のホテルは洗面所に熱いパイプが通っているので洗濯物を干すのに都合がよい。

7月8日
paprila

食事をすませ、市電に乗り、ルター派の大きな教会へ行く。となりはヘルシンキ大学。港のマーケットで果物を買い、私は赤や黄色の色鮮やかなピーマンの写真を撮っている。市電でホテルに戻りチェックアウトする。9時58分でタンペレに向かう。ロバニエミ行き。これに乗って行くとロバニエミには夜の8時過ぎに着く。ロバニエミからはサンタクロースの村にいける。
私はラップランドに興味があるんだが、これはまたの機会にしよう。

車窓からの景色は自然が豊かで、白樺、松、などが目立つ。草原にはピンク、白、うす黄色、青といった色とりどりの野草が花を咲かせている。今が一番よいシーズンなのだろう。

tapere

タンペレの町も、郊外に出て自然を満喫すればきっといいのだろうが、市街そのものはあんまり美しくはない。ここはフィンランド第二の都市。図書館の設計は有名。かたつむりを連想させるような図書館をのぞく。北欧は図書館活動の先進国。学校図書と提携したり、子どもの時からに読書に親しむ方策を模索して実行している。

内部を見学している。日本でもこういう方式が多くなったが、カードでだれもが簡単に本やCD、ビデオを借りて行く。返すのは返却テーブルに載せると、コンピューターが読み取って、係りがその場で分類して、片付けている。利用者は多い。コピーやパソコンの設備もあり、使用は自由。うん、なかなかいい。面白がって、パソコンを立ち上げたはいいけれど、パソコンだって幼稚園生なのに、さら言葉がわからない。結局使えない。

吹きぬきになった中央ホールを囲むように中二階があり、子ども達のムーミン谷訪問の絵が飾られている。そうだ、ここはムーミンのふるさとだ。テーマ・パークもある。ムーミンは全冊読んではいるけれど、でも、ちょっと行く気にはならない。
church

2時56分でタンペレからトゥルクへ向かう。ここは単線。見渡す限りの麦畑。菜の花の黄色が目に鮮やか。ところどころに森がある。車掌が検札に来て、「ようこそフィンランドへ。」と英語で声をかけていった。こういう態度は見習いたいものだ。

トゥルクの町は、ヘルシンキができる以前はここが首都であったというが、うら寂れた町だ。川沿いにホテルを探して港近くまで下って行く。見つけたスカンディックホテルは満員で、フロントが親切に提携のあるホテルに聞いてくれたが、よい部屋がない。係りは流暢な日本語を話す。やむなく一日繰り上げてフィンランドをたつことにする。

シリヤラインのターミナルはホテルから30分ほどだと言っていたのが、いやはや遠い。そのうち雨が降りだす。途中雨宿りする場所もない。トゥルク城の前も寄らずに通り過ぎる。やっとこターミナルに到着。乗船券と部屋を確保。やれやれ。これで寝て行ける。今度はシリアラインだ。

9時乗船。部屋はヴァイキングラインより狭い。ベッドも壁にくくりつけられたもの、ひとつはソファになっている。それをひっくり返すとベッドになる。冷蔵庫もない。なんだ、たのしみにしていたのに。とはいえ、贅沢はいえない。一晩寝る場所が確保できたのだから。

船は音もなく海を走って行く。小さな島のあいだを。夕日が島々に赤い影をおとしている。一眠りして食事に行くと、9時半でビュッフェはクローズ。夕食を食べそこなって、ママさんは怒っている。カフェテリアは開いていて、ここでサラダの盛りあわせや、ケーキなどを買って食べる。こういうのを夕食とは呼ばない。

フィンランド時間では11時、スウェーデン時間では10時、日はこれから沈む。夕日が沈むのをデッキから眺めている。

7月9日
目を覚ましたのが4時。時差があるから5時。食事が5時からだと昨日日本人ツアコンが言っていたのを横で聞いていたので、出かけて行くがまだ開いていない。30分には間がある。散歩をすると、甲板にはサウナもある。シリアラインはフィンランドの船だからだろう。サウナ、美容室まである。

食堂は先頭、前方がよく見渡せる。前方に大きな客船が走っている。ロッテルダムと書いてある。水路が狭いから一方通行なのか、それとも時間差で通行をしているのか定かではないが、船足はシリアラインの方が速い。水路が広くなったところで、左側を抜く。

ストックホルム着。見覚えのある建物が見えてくる。海からの景色はストックホルムの方が好きだ。バスで駅まで行き、8時のヨーテボリ行きに乗る。ヨーテボリで外に出て見る。歩いていると雨がぽつり、ぽつり。あわてて駅まで引き返す。オスロ行きに乗る。なんと電車で朝食が出た。

オスロにつくと雨。かなり激しい。駅前のホテルに当たるがどこも満杯。ちょっと離れたコンファタブルホテルに2日宿を取る。ただしここはシャワーのみ。バスと言う言葉は普通シャワーを意味しているが、部屋が狭いとか汚いとかはあんまり気にしないのだが、バスタブだけはほしい。1泊の時は我慢できるが2泊以上のときは洗濯もするのでなおバスタブがほしい。
ぬれた衣類を干し、洗濯物を干し、小雨になったので食事をかねて外に出る。近くのインド料理で夕食を取る。そのあと、ルーテル派の大聖堂に礼拝に行く。プロテスタントの礼拝に出たこともあるが、勝手なことを言っては悪いが、カソリックの方が趣がある。牧師さんは女性。しかし、言葉が全然わからないのでつまらない。
このホテルも団体客でいっぱい。フランス人だ。フランス語が頭上を行き交っている。窓から外を見ると、目の前は旧証券取引所の建物。なかなか感じがいい。

7月10日(月)

月曜日はほとんどの施設が休館だが、国立美術館だけは開いている。まず城壁を見て、船でビュグディ半島博物館めぐりに行く。ヘイエルダールのコン・ティキ号博物館、フロム博物館、民族博物館とみてまわる。「コンチキ号漂流記」は読んでいる。バルサ材の筏で5人の仲間と100日余り、太平洋を漂流した記録である。実験考古学と呼ばれ、世間をわかした。

ラー号もある。これにも興味を持って資料を読んでいる。実験とはいえ、こんな船でよくぞ太平洋を渡ったものだ。はるかな昔、先祖達の冒険心はいかばかりのものであったのだろう。何をよりどころに、大海原を渡っていったのだろう。フロム博物館はナンセンたち冒険者達の館だ。アムンゼンやスットたちの南極点への探検、悲劇。子供のころ、何度も胸躍らせながら読んだ。

船で再び戻って、市庁舎内の壁画を見学、ここもガイドがつくらしいが、時間が無いから見せて、と係りに頼んで入場料を払い勝手に入る。ドイツへの抵抗の絵が多い。しかし、迫力はいまいち。正面のロータリーには同じ大きさトラや牛やブタの乗り物がアーチを描くように並んでいる。おもしろい。小雨が落ちてきた。雨の中、お母さんに連れられた子どもがそのひとつに乗っている。かわいい。シティトレインで一回りし、地理を頭に入れる。

町で食事をする。そんなに一皿の量は多くなくて助かる。王宮の衛兵の交代は13時半だ。どうでもいいのだが、それでも坂を走って登る。けっこうきつい。

munk
ムンク・少女

美術館に行く。国立美術館は無料。ムンクの代表作は殆どある。モジリアニの女性とセザンヌの木の絵が気に入った。ここはカメラもフラッシュもOK。こんな作品をカメラOKとは、フェイクではないかと気になるほどだ。日本人団体客も多い。ムンクの「叫び」は知っていて、その前で記念撮影している。どういう気なんだろう。来たと言うしるしなのだろうか。美術に興味があってやってくるわけではないから、出て行くのも速い。人がいなくなったところで、私もカメラを向ける。フィルムは400。フラッシュはたかない。天井の照明がガラスに写って、これを切るのに苦労。照明の光がどこかに入るのは致し方ないが、影響のないところを探して撮る。

park
市電でフログネル公園へ行く。乗っているだけでまわりの人が「次ですよ」と声をかけてくれる。ありがたいことだ。この公園は彫刻家ビーゲランの彫刻を集めた公園だ。テーマは人の一生。だから人生のさまざまな時間が刻み込まれている。広い。彫刻をさわっても乗ってもかまわない。彫刻の上に乗って遊ぶ子どもたち、彫刻の姿を真似る子どもたち、ローラースケートで走り回る子供たち、何があったのか、噴水の前で頭を抱える子どもたち、見ているだけで。思わず笑みがこぼれてしまう。カササギがすぐ側まで来て、私が投げたパンくずを拾っている。もちろん一枚。
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ムンクの代表作も見たことだし、明日早くベルゲンに発とうかと話をして、明日の急行の座席予約に行くと、明日の午前中の便は取れないと言う、取れるのは3時過ぎの便だけ。しかたなくそれを予約し、空いた時間ムンク美術館にいくことにする。

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エジプト

2005-05-15 17:21:22 | 旅行記 アフリカ

menphis
メンフィスのレストランで、エイシを焼く女性

1999年

カイロ空港に下り立ったのが午前2時近く、ひっそりとしているかと思いきや、空港は混雑している。私たちの姿を見るや、「タクシーか」と何人もが声を掛けてくる。エイジェンシーの呼び込みもかなり強引だ。様子が分からないので、値段は高いがリムジンに乗って、ナイル・ヒルトンまで行く。さすがに道路は空いている。3時近くだというのにホテルもざわついている。 
  到着早々から洗濯。いつも旅行で私が持つのはカメラバッグがひとつ。カメラとレンズが中心に手帳、筆記用具、スティック糊、千代紙などの入った袋と本が一冊。これにワープロが入っていたのだが、フロムカードが使えなくなったので、今回は置いてきた。次からは軽いPCを持っていけるようにしようと思う。サイドにはゴミ袋が一枚。雨の時すっぽりバッグを覆うためにいれてある。夫はキャリー付きのバッグだけ。フィルム50本はこれに入れて貰うので、私の物は極力減らす。私は着替えは一組しか持っていかない。だからこまめに洗濯する。ヨーロッパの時は音楽会用にドレッシーそうなブラウスとスラックスが余分に入る。石けん、シャンプー、リンス、歯磨きは合成洗剤を使わないので持参。でも消費量は分かっているから、余分には持っていかない。洗濯の仕方は、洗濯した物を最後に熱湯ですすぎタオルに包んで絞る。バスタオルにくるくるにくるみ、足で踏んで水分を取るとラク。ホテルには悪いが浴室の電気をつけ、ファンを回しっぱなしにしておくと、乾きが早い。

ナイル・ヒルトンに宿をとったのも、先ずはカイロ考古学博物館から行動開始しようと考えたのだったが、イスラムでは金曜日は安息日、入ってもお祈りで11時半で出されてしまう。ホテルの窓から博物館の様子がよく見える。観光バスが並び、人々のすごく長い列が出来ている。持ち物をX線検査するため。2年前のあのテロのせいで、治安回復を狙ってのことだろうが、エアポートはもちろんホテルに入るにも、駅でも、博物館でも、例外なく金属探知器の下を通らなければならない。博物館など二回は通らなければならない。ホテルだって出たり入ったりの度に探知機をくぐる。くぐると必ずピーと警音が鳴る。私は「ピー」と言いながら入る。係員が笑っている。

 発展途上国の問題はなんといっても貧富の格差が大きいことだ。貧しい人たちは富を求め、職を求めて都市に集中する。エジプトの正確な人口は知らないが、半分近くがカイロに集中しているようだ。貧しい国々(GNPの判断で)をずいぶんまわり、物乞いの多さも知っているが、(ヨーロッパだって乞食はいる。スーパーで買い物をしたり、切符を買ってお釣りがあるとすぐ手を出すのはイタリアが多かった)、私の知っている限りの他の国と比べるとここはかなりせちがらい。日本人と見ればふっかけるし、親切そうに道を教えてくれたと思ったらチップを要求する。入場料を払って入ったモスクでも、更に更にチップを要求される。
 
 町中、いや国中、治安のためだろうが小銃を持った警官があふれている。警官の給料を払うだけでも、国はかなりの予算が必要だろう。しかし警官の低賃金には驚いた。低賃金でも安定しているからだろうか、この数の多さは。さぞかしワイロが利くだろうな。国中どこへ行ってもムバラク大統領の顔写真が貼ってある。そういえばこの国は社会主義の洗礼を受けている筈だ。いまの制度がどうなっているか勉強不足でしらないが、このせちがらさは社会制度が充実しているとはとても思えない。
 
 とはいえ、町中車があふれかえっている。結構、HYNDAI(韓国車)が幅を利かせている。タクシーは多い。タクシーに乗るには値段の交渉から始まる。何回も行っているところは運賃の相場が分かっているからいいが、初めて行くところは、フロントあたりで情報を貰っておく。
 
 一流ホテルにいるリムジンはかなりの割高だが、英語が通じる。町中で拾うタクシーの運ちゃんは英語が出来ないのが多い。こんなことがあった。
 歩くにはちょっと遠い所だったので、タクシーを拾い、「ラムセス セントラル ステイションに行ってくれ」と頼むと、運転手は傍らの店の親父さんに何か言って、OKと車を走らせた。この国の車は交通規則などあって無きが如しで、車を押しのけて走る。もっと恐いのはそういう車の間を平然と歩行者が横切ることだ。そのうちには馴れてしまったが、はじめは「ヒャー あぶない」と思わず声をあげた。
 
 地図を見ていた夫が「道が違う」と言い、運転手の肩を叩き、「私の行きたいのはここ」と地図を見せると、頷いている。しかし車は反対方向に走っている。「一方通行じゃないの。大回りして行くんじゃない」と私。大回りまではよかったが、ついたところは考古学博物館。「違う違う」と再度地図を見せると、運転手は外に出て、警備員を連れてきた。彼は英語が話せそうだ。「ラムセス セントラル ステイション」とゆっくり地図を見せながら言うと、「ラムセス セントラル」と頷いて運転手に指示した。タクシーがその方向に走り出し、やれやれと思ったら、すぐ止まった。今度はなんとラムセス ホテル。再度地図を見せ「私たちの行きたいのはここ。でももういい」と約束の料金に回った分をうわのせしてもいいよ、と言って夫がお金を出すと、その意味も分からなかったのか、約束の料金しかとらなかった。それからは英語が出来るかどうかきいてから乗ることにした。
 
 英語ができても、エジプト英語はすごい。30はセルティ。夏はサマル。とまどったが馴れてくると勘で分かる。分かるのはいいが、マネしてしゃべるから自分の英語もおかしくなってしまう。白人女性に「Can you speak English?」と声をかけられた。「Yes」と答えると、「イスラム博物館を知っていますか」と。「今私たちは行って来たのだけど、電気のトラブルで今日は入館出来ないと断られた」と言うと「急いで30分もあるいてきたのに」とがっかりしている。「そこを左に曲がって数分だから行ってみたら」と言って別れた。彼女も英語が通じなくて苦労してきたのだろう。

弥次喜多道中記 2
 
gizapi
ギザのピラミッド

 予定を変更して、タクシーとガイドを頼み、ギザの3大ピラミッド、スフィンクス、サッカラ、メンフィスと1日かけて近郊の名所をまわった。 ギザに近づき、ガイドから「ほら、ピラミッドが見える」と指され、「わぁピラミッドだ」と子どものように叫んだら、なんでこんなものに感激するのかといった顔をされてしまった。ピラミッドもスフィンクスも人、人、人でごった返していた。学校が休暇にはいったとかで、子ども連れの家族が多い。加えて外部からの観光客。いろんな言葉がとびかっている。
 
 アムステルダムから飛行機が一緒だった日本人ツアーの人たちとも出会った。彼らは聴覚障害者の一団。空港でも活発に手話で話し合っていたが、残念ながら私にはアラビア語以上になんにも分からなかった。挨拶はニコっと笑って会釈するだけ。以前手話で「こんにちは」を覚えたのだが、使うことがなかったので忘れてしまっていた。どこの国でも、こんにちは、ありがとう、さようなら、ぐらいは、そこの国の言葉ですると喜ばれる。今回もアラビア数字を覚えて、ルームナンバーはアラビア数字で書くと、ことのほか受けた。だが、同じ日本人なのに手話の一つもできずコミュニケイション出来ないのはなんとも残念だ。
 
 クフ王のピラミッドは入り口までは登れる。中学生くらいの男の子達がわいわい話しかけてくる。調子に乗って私も写真を撮ったりして一緒に騒いでいる。 ピラミッド、初めて見る者には大きくて存在感がある。吉村作治さんによれは(彼の著書は殆ど読んでいる)、ピラミッドは王墓ではないそうだが。ガイドにピラミッドの石を指さし、「この石は何」ときくと、「アラバスター」だと答えた。アラバスターは白い筈なのに変だなと「アラバスターは固いのか」と聞くと「固い」と言う。 私の住む真鶴は小松石の生産地。石にはちょっと知識がある。この答えはどうもおかしい。旅が進むにつれやがて、ピラミッドの石はグラニートで、アラバスターは私の思っていたとおり白くやわらかい石であることがわかった。
 
 公開しているピラミッドの内部通路は背をかがめても頭がぶつかりそうに天井が低い。真っ暗な中を下を向き向き歩いていたら、いきなり前方をふさがれた。さっきの男の子達が、もそもそ上がってくるオバサンを見つけて、通せんぼをしたのだった。こんなところ人なつこくてとてもかわいい。
 
 3つのピラミッドが一望に出来るところに連れていってくれた。さらさらとした砂というより泥の乾いたような細かい砂の上を歩いていくと、遠くサッカラのジェセル王の階段状ピラミッドも見渡せる。「これから行くからね」とピラミッドに呼びかける。96ものピラミッドがあるそうだ。スフィンクスにも寄る。
sphinx

 サッカラに行く前にパピルスmuseumに連れて行かれた。パピルスの製造過程を見せ、土産物を売っている。運転手とガイドはここに私たちをおき、15分くれと言って、近くのモスクにお祈りに行ってしまった。今日は安息日、お祈りの日だからしょうがない。町中にイマームの声がスピーカーを通して響き渡る。コーランなのだろうか?

sakkara
サッカラの警官

 サッカラまでは田舎道でのんびりしていて居心地がいい。川沿いには麦畑が青々と続き、泥づくりの家々のまわりには山羊、羊、水牛、牛、馬、ロバ、鶏、あひるの姿が見られる。小さなこどもたちがロバに乗ってかけまわっている。動物は生活の相棒であり、食料にもなる。生活の相棒である限り、この種が生き残れるのも確かだ。ロバは車代わり、自分の背に牧草を積んでもらい、荷物を運んだり、荷車を引いたりとよく働いている。
 ramseseisi
エイシを焼く

 お腹が空いたので、「みなさんにもご馳走するから、どこか食事に連れていって」と頼むと、「美味しくて安い店がある」とレストランに連れていってくれた。入り口の左の窯で、女性が二人、薄くてきれいな円のナンのようなパンを焼いている。傍へ行って「これはなに」と聞くと、答える代わりに焼きたてのパンをポンと投げて寄こした。 裏にフスマがついていて香ばしくて美味しい。ガイドに聞くと「エイシ」という。「ラジーズー(美味しい)」ほどなくエジプト料理が並ぶ。エイシにディップや野菜をはさんで食べるようだ。これがまたいける。ケバブは二人で一人前でいいから、一皿は二人にまわし、夫は専ら水みたいなステラビールを飲んでいる。私は紅茶。どこもリプトンのティーバッグ。ミルクは入れないらしい。デザートまでついて4人で125ポンド。

さすが疲れた。二人は明日の予定を聞く。明日は博物館へ行く予定だというと、午後はどうかと聞く。空いていたら、砂漠にベドウィンを訪ねて、お茶を飲んでこようと誘う。私は「行きたいなぁ」と乗り気。夫は明日はのんびり市内を歩こうと反対。「私たちは年寄りだからね。明日はフリーにする」と断ると、気が変わったら電話してと名刺を置いて行った。 ホテルで一日延長を頼むと、値段がちがいますがいいですかという。予約していくと1泊17,000円。延長は1泊250ドル。予約の方が遙かに安い。

 旅での私の日課ははがきを書くこと。一日平均10枚は書く。5枚ほど書いて、のどが渇いたので下にお茶を飲みに行くと、結婚式の披露宴が行われていた。 2階から父親に腕を取られてウェディングドレスの花嫁が下りてくる。階段の下では黒のタキシード姿の花婿が待っている。ライトがつけられ、大きなビデオカメラが回っている。花婿は花嫁のヴェールをあげ、キスすると手をとり、ホールを進む。ここに上下白に赤いベストと赤い帽子をかぶった楽団が待ちかまえていて、演奏が始まる。実にたのしげなリズム。民族衣装をつけた踊り子達もお祝いの踊りを踊る。腰までスリットの入ったスカートで激しく踊るのでなんともなまめかしい。ホールを一回りすると、花嫁花婿を先頭に一団は階段を上っていった。この先ものぞきに行きたかったが、遠慮した。

 と、次の花婿が同じように下に立ち、花嫁を待ち受けだした。今度の花婿は白のタキシード。もう一回式がある。カメラがほしい、というと夫が部屋に取りに行ってくれた。楽団は同じく白装束だが帽子とベストは青。太鼓とラッパがにぎやかに響く。巻き舌でラーというかん高い女声が響く。彼女はプロで、儀式にはつきものだそうだ。花嫁の母親が辺りに金のコインのようなものをまく。今度は踊り子はいないが、花嫁花婿と親族が輪になって踊っている。ほほえましい。柱の横からカメラを向けていると親族が前に出て写真を撮れと押し出してくれた。ついでに記念にまいたものも拾ってくる。コインのようなもの、手形に青い目がついているものなどがある。きっとそれぞれに意味があるのだろう。

エジプト弥次喜多記 3

 私の体内時計は日本にいると7,8時間狂っているから、こちらに来るとちょうどいいらしく早起きになる。アザーンも聞けるし、日の出も見られる。
 
 ホテルの朝食はどこもすっかりビュッフェスタイルになってしまった。エジプト食の方を物色すると、エイシもある。取ってきたが冷たくて、焼きたての美味しさを知ってしまったので、小麦粉の持つ甘さも香ばしさも感じられない。まずいと言って夫の皿の上に載せる。うんちくを披露すると、パンの歴史はエジプトから始まる。小麦の歴史はイラン高原の一粒小麦から始まる。因みに私たちが使っている粉には薄力粉、中力粉、強力粉、セモリナ粉などがあり、グルテンの強さが違うのだが、これは小麦そのものの性質によって分けられている。薄力粉は薄力粉用の小麦の粉なのである。

 フェタに似た真っ白な出来立てのようなチーズがある。塩辛いし、フェタのようだ。ボーイさんに「このチーズはなんて言うの?」と聞くと「ビアンコチーズ」だという。「ビアンコ、白いチーズ?なんでここでイタリア語になるの」と言いながら、ちょうど出てきたコックさんに同じ質問をするとフェタだという。フェタはギリシャのチーズ、地理的にも近いから製法が入ってきているのだろうか。もうひとつもっとクリーミーな、チーズスプレッドのような白いチーズも美味しかった。固いチーズも何種類かあったが、私は朝食はあんまり食べない方なので、さすがの食いしん坊も味見はしなかった。ただ、生野菜がたくさんあるのは実にうれしかった。

今日の予定はまず旅行社に手配を頼みに行くこと。夫はいつものように弥次喜多が良いと言うが、地方に行って英語が通じないと困るから、今回はエイジェンシーに頼もうと説得する。ホテルにある旅行社でルクソール、アスワン、アブシンベルをまわり、帰りは列車でと頼む。午前中博物館に行って来るからと午後1時に航空券が取れたかどうか結果を聞きに来ることにして、すぐ目の前のカイロ考古学博物館に行く。

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ツタンカーメン

 博物館は、なんでこんなに人がいるのかなと思うほど大勢が押しかけている。でも、中は広いので、東京の特別展のような押し合いへしあいはない。展示品の量はすごい。まるで倉庫といった感じ。エジプト学に興味のある人はこたえられないだろうな。ロンドンやパリやベルリン、ニューヨークにずいぶん持って行かれてしまってはいるけれど。
 ここのメインはツタンカーメン。日本にも黄金のマスクをはじめ埋蔵品がやってきたことがあるお馴染みのもの。何度みてもすばらしくきれいだ。切手にもツタンカーメンの立像が使われている。コンシェルジェでエアメールの切手を買っていると、そこにいたエジプト人が「アクエンアトン」だと切手の絵をさして言った。アクエンアトンにしては顔が丸いなとは思ったが、眼鏡を持っていないとよく見えない。「アクエンアトン?サンキュー」あとでよく見るとツタンカーメン。一般の人にとって、ツタンカーメンに比べたらアクエンアトンはメジャーじゃないのに。

1時に旅行社に行くと、行きの航空券は取れなかったと言う。すべての順序を入れ替えてもう一度組み直し料金を支払い、チケットやバウチャーを4時に受け取りに寄ることにする。ホテルにある旅行社でもカードは使えず現金払い。夫が銀行に行って引きだして来た分厚い札束を支払っている。ここのお姉さんの英語もrをちゃんと発音する。

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ムハンマド・アリ・モスク

ムハンマド・アリ・モスクへリムジンで行く。リムジンは市内はすぐ近くでも遠くても
29ポンドと協定料金になっている。空港までは61ポンド。そのかわり運転手が英語で説明してくれる。私は都市の車通りの喧噪は嫌いだが、路地のごちゃごちゃしたところは大好き。
 
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 ムハンマド・アリ・モスクは高台にあり、シタデルに続いている。ムハンマド・アリは
フランスのコンコルド広場にあるオベリスクを贈った人だ。大きなモスクだ。モスクに入るには靴を脱ぐ。中は絨毯がひきつめられ、シャンデリアの光の蔭がドームに映って微妙な雰囲気をつくっている。メッカの方向を示したミフラの前で数人が(必ず一人が前に立ち)祈りを捧げていた。このモスクからの眺めはすばらしい。
 外を歩いていると、カメラを持った人に声をかけられた。シャッターを押してくれと言うのかと思ったら、子どもと一緒に記念写真に入ってくれというもの。私は写真は撮るが撮られるのは大嫌い。一瞬ためらったが、快く子ども達と写真におさまる。その代わり私にも写真を撮らせてくれと、二人の男の子を撮らせて貰う。ムハンマド・アリ・モスクで会った日本人として彼らの記念になるのだろうな。残念なことに折り紙を持ってこなかった。握手して別れた。
 今度は夫が声をかけられている。どうしたのと聞くと、あの男の子達、話がしたいんだよ、という。帰り道でも一緒になったので「May I?」とカメラを向けると、喜んでポーズを取ってくれた。「バーイ」。子ども達にはもてるなぁ。

 ムハンマド・アリ・モスクからホテルまでタクシーで20ポンド。チケット等を受け取り、部屋に置いてカイロタワーに行く。ここもすごい行列。チケットを買ってその列の最後尾に並ぶと、係員がこっちに来いという。エレベーターの前は2列。私たちの連れて行かれた列はほんの数人。優先的にこちら側から乗せてくれる。外国人は優先されるのだそうだ。おかげで待つこともなく上にはあがれたが。
 その時は分からなかったが、だんだん分かると、外国人の入場料は、博物館でも、エジプト人の3倍位以上高い。そういえば他の國でもそうだった。
 
 高いところから市内を見るのは地理を頭に叩き込むにはいちばん。夕日の方向にギザのピラミッドが見える。あっちが西。タワーの横をナイル川が悠然と流れる。夕日に映えてすばらしい景色だ。タワーのあるところはナイル川の中州、ゲジラ島。ホテルは目と鼻の先。車でゆれる橋を渡り歩いて帰る。

 夕食はワインから。関税が高いらしく輸入ワインはすこぶる高い。昨夜賞味済みの赤、オベリスク98年をとる。のみやすい。私は赤しか飲まないから、エジプトワインのオベリスクとオマール エル カイヤンの2種類をたのしんでいた。値段はボトルで47から55ポンド。オベリスクの方が高い。でも私はオマールの方が気に入った。
 帰り、出発が午前4時なので、空港近くのノボテルに泊まったら、オベリスクが79ポンドだった。

弥次喜多記 4
memnon
メムノン 

 いよいよ南への旅が始まる。
「カイロには2つ駅があり、これはギザ駅からの発車ですからくれぐれも間違わないように」とエイジェンシーのお姉さんがアラビア語でギザ駅と書いてくれた。ギザ駅列車到着はたぶん7時5分くらいになるだろうから、少なくとも6時45分には着いていて欲しいとも言われた。 私も気が早いが、夫は更に気が早い。5時半でいいというのに、モーニングコールを5時に頼んだ。朝は車も空いているから、6時半にはギザ駅についてしまった。でも、もう人々でごった返している。例によって金属探知器を受けフォームに入る。ギザ駅はフォームが2つしかない小さな駅だ。どこを探してもアラビア語以外の表記はない。警備の人に聞いても英語が通じないからさっぱり分からない。南があっちだからたぶんこっちのフォームから出るんだろう。大体どれが駅員さんだか、それすらわからない。日の出前なので、すこぶる寒い。私はコートの裏ポケットに必ず手袋とマスクとレインハットがいれてある。「オーバーだよ」と言われてもマフラーをし、手袋をはめ、それでも寒いとぼやいている。
 
 反対側のフォームに列車が入り、荷物がいっぱい下ろされる。ポーターがとんでいく。ぐるっと見渡しても通路らしきものは見あたらないし、路面から高いフォームに段差もスロープもない。どうして運ぶんだろうかと見ていると、線路に下りて荷物を持って往復している。こちら側のフォームにはキャリーを持ったポーターもいるのだが、請負らしく手伝いを断って一人で運んでいる。
 
 10歳ぐらいの男の子が重そうに荷物を背負ってきた。のぞくと新聞がぎっしり。これは重い。男の子がポンと線路に下りると、近くにいた列車を待つ人が彼の荷物を渡してやった。向こう側でも手伝っている。自然に手を出していると言った感じ。まだここには助け合いの精神が生きているんだなぁ。夫が「子どもの権利条約」は必要だなぁとつぶやく。
 
 7時過ぎ列車が来た。でもどう見ても長距離利用の列車ではない。と、商社マンらしき人が切符を見てくれ、これではない。たぶん7時半頃になると教えてくれた。ずいぶんアバウトだなぁ。7時半近く列車が来た。「来たよ」と叫ぶとまわりの人たちが「ノー。ノー」と×印をする。こんな時間に観光客が立っているので、どこへ行くのかわかっているらしい。言葉は通じなくても、みな親切だ。
 
 「中国人か?」と声をかけられた。「日本人だ」と言うと、日本人が 列車で旅行なんてめずらしいと言う。でも、彼も列車が何時に来るかは知らなかった。待つこと1時間半、8時にルクソール行きの列車がやっとやって来た。もう一組、外国人旅行者が乗った。本当は何時発だったのだろう。 座席はとても座り心地がいい。これなら長距離の旅も大丈夫そうだ。すぐに車掌さんが来て検札していった。ユニフォームがないので車掌さんの区別はつきにくい。

 飛行機ならカイロからルクソールまで1時間 だが、列車だと10時間かかる。10時間以上の列車の旅はマレーシアでしたことがあるから、そんなに大変だとは思わない。10時間の運賃が一等で56ポンド、嘘みたいに安い。ほどなく朝食の注文取りが来た。朝食を注文すると網棚からなにやらとりだしていると思ったら、ごそごそとテーブルをはめ込んだ。夫が汚いというので、ウェットティッシュで拭いてやる。彼は大きめのハンカチをテーブルクロス代わりに敷いている。かまわない私はそれを見て笑っている。 運ばれてきた朝食はきれいなトレイに載せられ、まるで機内食のようにパンもチーズもみんなパックされている。おまけにウェットティッシュまでついている。お茶も頼めば何回も持ってきてくれる。お茶代は2ポンド。
 列車はナイル川に沿って走る。これは快適だ。
nile

 「エジプトはナイルの賜」というヘロドトス(BC5世紀)の言葉があるが、まさにその通り。川沿いはエジプトの国土の97%が砂漠だという言葉が信じられないくらい緑豊か。車窓からは人々の暮らしもかいま見られる。農作業も家族そろっての手作業だ。トラクターの姿も見たが、圧倒的にロバや牛、馬が農作業を手伝っている。家畜の傍にはアマサギも多い。ツバメは川面すれすれに飛び、クイナやバンがゆったりと泳いでいる。青々としているのは麦、牧草。オレンジもたわわに実って、本当に豊かな風景だ。 そうこうするウチに、どこまでもサトウキビの畑が続く。刈り取ったサトウキビをロバが荷台一杯に山積みして歩いている。   

 ランチはチキンとグリンピースのピラフ。チキンそのものが美味しいから、骨までしゃぶった。ピラフはちょっと米の芯が残るところがあったが、日本人にはあう。時間にゆとりがあれば、列車の旅はおすすめ。

 ルクソールに近づくにつれ、畑は広いトマト畑になった。コンテナいっぱいにつみ取られた真っ赤なトマト。美味しそうだ。
日が西に傾くと、遠くの禿げ山に夕日があかあかと燃える。刻一刻と移りゆくその色彩の美しさ。今思うとあの禿げ山は王家の谷の辺りだったのだろう。

暗くなった駅に待っていてくれたのはエイジェンシーのハマダさん。なじみやすい名だ。そういえば、ピラミッドの運転手はタナカさんだった。今日のホテルはナイル川沿いのイシス ホテル。客がいっぱい。日本人団体客もぞろぞろいる。部屋は通りに面している。この国の車はやたらとクラクションを鳴らすのでとてもうるさい。夫が部屋を代えてくれと言いに行くと、今日は満杯だから明日の朝にしてくれと言われた。
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ミナレット

 このホテルには何軒ものレストランがある。「中華に行こうよ」というと「こんなところで中華に行かなくても」と夫は渋い顔。でも中華にいく。飲み物は?夫はステラビール、私はチャイニーズティを注文すると、チャイニーズティはないという。中華料理店のくせにチャイニーズティがないなんて、それならやめるとわがままな私は席を立つ。 夫はイタリアンにしようという。ガイドブックに美味しいと紹介されているからと。ガイドブックなんて信用しない方がいいよ、と私。この辺、ギリシャもトルコも、イタリアの近所のくせに、パスタの茹で加減がアルデンテでない。イタリアだって茹でたパスタを使うところがかなりある。「日本のスパゲッティはアルデンテなのに、イタリアのスパゲッティはアルデンテでない。どうして?」と訊いたことがある。そうしたら、主人答えて曰く「お客様を待たせないためのサービスだ」と。 でもここならワインは飲める。ここのミネストローネは美味しかった。野菜が美味しいんだろう。パスタはやっぱりアルデンテではなかった。だから後はお茶だけ飲んで出てしまった。

エジプト弥次喜多記 5

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朝のナイル川

ルクソールの一日。アザーンの声で目が覚めた。部屋が東向きなので、朝日が昇るのが見える。ナイルの岸辺を散歩する。ナイルはたっぷりとゆったりと流れている。ボチャンと音がしたのでそちらを見ると、キングフィッシャー(カワセミの仲間)が魚をくわえて飛び上がった。大きさもヤマセミに似た黒と白のキングフィッシャーだ。 車窓から見た畑の作物を確かめたくて、近くの畑まで歩いていく。

 西岸に行くには以前はフェリーを利用していたようだが、今では立派な橋が架かっている。ルクソールはエジプト第一の観光地。国の力の入れ方も違うのだろう。

 西岸は古代は「ネクロポリス(死者の町)テーベ」といわれ、ルクソール住民の墓所だった。有名な王家の谷があるところだ。今日のガイドはアリさんとシャバさん。シャバさんは日本でアラビア語を教えていたのだそうだ。日本人のためにわざわざ日本語の出来るシャバさんをスタッフに入れてくれたのらしいが、このシャバさんの日本語がこれまた大変。シャバさんがつまると、そっと隣のアリさんに英語で説明して、と頼む始末。

 王家の谷にいく途中の丘の上に早稲田ハウスがある。「寄りますか?」「隊員がいるときは旗があがっているそうだ。旗がないから今日は留守」と断る。ここでは吉村作治さんはヨシムラセンセイと呼ばれて有名。「吉村先生の本、みんな読んでいるよ」、というと「それでは歴史にくわしいでしょう」と。
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王家の谷入口

 王家の谷は草ひとつない河岸段丘にある。しろっぽい丘の上の空は真っ青。もうすでに大型観光バスが押し寄せ、駐車場はいっぱい。土産物屋が所狭しとならび、観光客に声をかける。シャバさんが、2年前のテロ事件で、日本人観光客が来なくなって、本当に困り、時計を売ったりした、という。
 
 公開されている王墓の前は行列が出来ている。なんのことはない、団体客にガイドが説明しているので、入り口に人だかりができているのだ。団体客は結構こんなことで時間をとられる。ピカソのゲルニカの前で団体客に、ガイドがながながと説明したのには腹がたった。団体が完全に作品をふさぎ、見えなくしてしまった。説明をきく人たちは作品を見ずガイドの方を向いている。説明は離れたところでしろ、と文句を言った。だから迷惑にならないように、二人だけで見学してくる。
 
 色鮮やかな壁画。表面はガラスで覆ってあるが、こんなに大勢の人が入れ替わり立ち替わり入って影響ないものか、とその一人であるにもかかわらず、心配している。近くにツタンカーメンの墓もある。夫が ぜひ見たいというと、ここは別料金だという。「チケットはどこで買うの?」と聞くと、いくらだからアリさんにはらってくれという。入場料を見て、夫が「アリさん、料金上乗せしているよ」とささやく。ツタンカーメンの墓は小さい。副葬品はカイロ博物館にあり、ここには彼のミイラだけが眠ってる。ツタンカーメンの時代は宗教的に大変な時代。案外、暗殺されたのかもしれない、と当時をしのんでいる。
シャバさんがツタンカーメンの奥さんは「ティティ」「違うでしょ」と私。「そちらの方が詳しいのでした」「まったく。嘘おしえちゃだめだよ」と笑って言う。

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 ハトシェプスト女王葬祭殿。ここも二人だけでほっつき歩いてくる。今は修復中でテラスまでは上がれない。ここの警備もすごい。あのテロで撃たれた人が小田原にいるが未だに後遺症が残っている。

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かぽ物語

2005-05-14 23:56:45 | 動物記
「かぽ」とはハシブトガラスにつけた愛称である。

今年のはじめ頃、ハシブトガラスが椎の木の天辺近くに巣を作り始めた。椎の木は15m以上はある。おわん型の巣が見える。カラスが住みつくのはいやではないが、子育ての時は神経質になって、攻撃すると聞いている。だれかよその子でも襲われたら困る、どうしよう。そこで野鳥の会の人に相談した。カラスは頭がいいから、カラスに対して好意的であるかないか判断できる。だからそのまま巣作りさせたらどうか、という返事がきた。そこで巣作りは、放っておいた。

kapo
白蓮の枝に止まるかぽかぽ。
どっちがオス?メス?

ある日、洗濯をしていると、「かぽかぽ」という聞き慣れない声を聞いた。振り返るとカラスが柿の木に止まって、私に向かってなにか言っている。どうも野鳥の餌台においてある細かく切ったシフォンケーキがほしいらしいが、私がいるので取りに来れないようだ。そこでカラスの頭のいいことを利用して、先手を打って、懐柔作戦にでることにした。なんのことはない、カラスに餌をやって手なずけようというのである。巣のある木のそばに陶芸の窯がある。そこの屋根に「かぽ、かぽ」と声を出しながら、カラスが見ている前で、パンやケーキをのせてやった。カラスは私のすることをじっと見ている。かぽは2羽いるのだが、見分けがつかない。たぶん雄雌の番なのだろう。たいてい一羽ずつやってくる。だからどちらも「かぽ」ですませてしまう。パンやケーキをのせて、私が玄関先まで引き上げると、枝を移り、屋根の近くの木に止まる。辺りをうかがって、屋根の上にとまり、やっとケーキを持ち出した。カラスが用心深いのは知っている。はじめはケーキを大きく数個にちぎって、持っていけるようにした。ところがカラスはもてるだけ、重ねて持っていく。ほんとに頭がいい。細かく切っても、集められるだけ集めて持っていく。持って行き先を見ていると、どうやら椎の木の巣を使うのはあきらめたらしい。ねぐらは他にあるようだ。やれやれ、ほっと。

こんな風にして、毎日が過ぎた。ウサギのピーターとフロプシーもシフォンケーキが好きである。アヒルのがあちゃんも好きである。だから毎日のようにシフォンを焼く。それにカラスが加わった。消費量が俄然多くなった。おかげで焼く回数も多くなった。
朝、ケーキを持って「ピーター」と呼ぶと、その声を聞きつけてかぽはやってくる。ウサギの後は「かぽ、かぽ」と呼びながらかぽにケーキをやる。はじめは用心深かったのが、いまでは投げるそばから屋根に来て、食べている。

最近では毎朝、窓ちかくでかぁかぁ鳴いて私を起こす。そういえばずっと前、中西悟堂さんがカラスを飼っていて、毎朝起しに来た話を読んだことがあった。寝巻きのまま、「かぽかぽ」といいながら、ケーキやパンをなげてやる。パンも大きなままやると、枝に持っていって足でおさえ、ちぎって食べている。おもしろいので、クリームチーズを大きなかたまりのままやってみた。持っていけないので、嘴でつついて持っていく。でもすぐなくなってしまった。油揚も3つに切ってのせたが、全部かさねて持っていった。アジをおろしたアラものせてみた。大丈夫、持っていった。肉もご飯もたべる。なるほどカラスは雑食だ。それなのに、サクランボが熟してもとって食べない。熟れて下に落ちても拾わない。ミカンを持っていくのを以前見たことはあるのだが、果実は好きではないのかな。スズメのために屋根に米をまいてやったら、あのふとい嘴でカラスが米を一粒ずつ拾っている。なんとまぁ。

鳥の目が良いことは知っているが、カラスも実に目がいい。地面の上にあるアジの頭も見つける。小さいし、土と同化しているにもかかわらずだ。ごくごく小さなケーキのくずも見逃さない。それも木の上からである。

今は木々の緑が優しく美しい。カラスはたいてい白もくれんの枝に止まっている。黒は緑とはよく似合う。むしろ保護色ではないかと思うくらい、よく溶け込んでいる。大きな真ん丸い目、大きな嘴、細い足。「かぽ、おいで」というと、ついてくる。「かぽ」は自分のことであり、「おいで」は呼んでいることだと理解しているようである。屋根にモノを投げると、トタン屋根だから、音がする。その音も合図になっているようだ。ばたんと音立てて屋根に飛び降りる。

人間にはかわいいそぶりを見せているが、猫には違う一面を見せる。我が家には3匹の仔猫とかあちゃんがいる。かあちゃんのプラコッテはネコ物語②にあるように、拾われ猫である。だから物怖じしないのか、それとも仔猫がいるからか、また単にあそびたいだけなのか、そこらへんはネコに聞いて見なければわからないが、ともかく屋根の上で餌を集めているカラスが気になって仕方がない。カラスが地面に下りたり、アヒルのがあちゃんの水浴び場に水を飲みに来たときなど、ちょっかいをだす。カラスはネコに向かって「かあ、かあ」と威嚇するように声を出している。そのうち、カラスにやられるぞ、と思いながら見ている。

 あるとき、プラコッテが木登りをしていた。このネコは木登りはくだりが弱い。しかし仔猫が登ってしまったので、やむなくついていって下りようとしたときだ。カラスが飛んできて、プラコッテの近くの枝に止まった。プラコッテはそのカラスに果敢にも飛び掛っていったのである。カラスはひょいとかわして他の枝に飛び移った。すると、もう一羽のカラスが反対側にやってきて止まった。猫をはさんで左右に陣取った。そしてネコの背後から、さも脅かすように背中すれすれに飛んで、私にはけ飛ばしたように見えた。あっ、やられたと瞬間思った。私が飛び出したので、カラスは飛んで行ってしまった。

それからである。赤トラネコの大きなバーリがのしのしと歩いて、餌の屋根の下を通り過ぎようとしたとき、背後からすれすれに黒い影が飛んだ。すばやく防御の体制をとるバーリ。しかしそれ以上は何事もなく、バーリはまた平然と歩いていった。同様、大ネコの黒白のジョイスも通り過ぎようとしたとき、背後からすれすれに飛ばれた。さすが大ネコたちは体制をつくるのはす早い。いまのところは、これ以外には何事もないが。他のネコも犬もカラスに関心は示さないが、性懲りもなく、プラコッテはカラスにちょっかいを出している。カラスは色も大きさも違っても、ネコはプラコッテの仲間だと認識しているようだ。大ネコには迷惑な話である。大猫たちが食べ残したアジをカラスは貰っていることを知らない。知っていたら、一飯の飯の恩義を感じなければならないのだが。



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