Cogito

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寒い!寒い!!

2008-05-30 22:37:09 | 日記・エッセイ・コラム

Savoyhotel 天気予報によれば1月さかのぼって、4月の陽気だそうだ。ストーブをつけ、コタツをつけて足を入れている。なんせみん名片付けてしまったから。

ノートPCを新しくしたので、ついでに机の上でもポジが取り込めるようにと、スキャナを買った。今使っているようなフィルム専用のスキャナはなくなり、フラットスキャナでフィルムも取り込むのが主流のようだ。エプソンのGT-X770というのを買ってきたのだ。値段としてはフィルムスキャナよりずっと安い。

Gladtidings 新しいものは使えるようになるまでも時間がかかる。やっと取り込めるようになったので、今度は取り込んだ写真の質が問題になった。フィルムスキャンのレベルまで上げたいので、毎日試行錯誤している。かなりよくなってきたが、まだまだ気に入らない。

                                                    

Rosyfuture でも何とかこれを使いこなさないと。それにしても今使っているフィルムスキャンは古いものだが大事にしよう。

写真は新しいスキャナを使って取り込んだもの。

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ナルニア国ものがたり

2008-05-26 22:47:49 | アート・文化

先週の日曜日、テレビで映画「ライオンと魔女」を見た。物語の筋書きにそって忠実に作られている。たのしかった。子どもたちが小さいころ、毎日のように読んでやった懐かしい物語である。全巻7冊、ナルニアという国が作られ、滅亡するまでの年代記になっている。作者はC.S.ルイス。ルイスは神学者でもある。だからキリスト教的な思想が盛り込まれている。

全7巻、出版された順は「ライオンと魔女」「カスピアン王子のつのぶえ」「朝びらき丸 東の海へ」「銀のいす」「馬と少年」「魔術師のおい」「さいごの戦い」になっている。出版順でなくても、どこから読んでも面白いが、年代記的にいえば、「魔術師のおい」が始め、ここにナルニアが生まれるのである。このとき、人間の子どもによってナルニアに悪(魔女)がもたらされたので、人間の子どもがナルニアの悪をくじき、ナルニアを助ける責務を負うことになる。ここに子どもたちが時空をこえてナルニアに行き、ナルニアの物言う動物たちやフォーン、セントール、木や水の精たちと力をあわせて、活躍するファンタジーである。

この物語にちなんで、前の教室はアスラン文庫と名づけられている。アスランとはこの物語に出てくる創造主とも言えるライオンの名前なのだ。トルコを旅したとき、アスランというレストランに入った。そこで興味を持って「アスラン」の意味をきくと「ライオン」という言葉だった。普通名詞のライオンの意味だった。作者のC.S.ルイスはトルコ語でアスランとつけたのだ。

前の教室に行って、もう一度読み直そうと、全巻借りてきた。この本は1970年版、38年前の本だ。紙もかなり茶色に変色しているし、しみで読めないところもある。もう一度新品をそろえてやろうと思う。

ほぼ1週間かかって、全巻読み終えた。朝から晩まで読んでいたわけではないが、それでも熱心に読んだ。おかげですっかりナルニアの住人になってしまった。かなり覚えているのだが、それでも細かなことは忘れてしまっている。そうだったのか、と思いつつ、読み終えた。もちろん細かい点は気になるところもあるが、まぁ、お話だ、面白く読めればいいと、割り切った。

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湿生花園

2008-05-16 17:55:59 | 日記・エッセイ・コラム

Aoikesi 先週、アツモリソウが咲いていると湿生花園のHPで見たが、天気が悪くて行きそびれていた。今日でかけると、アツモリソウの姿はなかった。その代わり青いケシが大分咲いていた。クロユリも咲いていた。これはデジカメのもの。フィルムはこれから現像に出すのでまだまだ。            

                                                                                                         

Kuroyuri Kuroyuri2

クロユリ

                                                                                                                      

                                

相変わらず箱根は羨ましいくらいにお客さんが来ていた。山のホテルのツツジ目当てみたい。どこもツツジはいまが盛ときれいに咲いていたが。下は晴れていたが山は曇っていたので、早々に帰ってくる。

昨日は上野に日光、月光菩薩を見に出かけたのだが、あまりの混雑にパスして帰ってきた。もう東京での特別展には行かないぞ!

報道ステーションでビルマ(ミャンマー)のサイクロン被害と中国地震被害への電話募金を呼びかけていたので、電話した。ドラエモン募金になっているみたいだ。ただし、携帯からはかからないとのこと。電話番号は

0990 513 006

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バングラデシュの少数民族

2008-05-09 00:37:00 | アート・文化

カメラウーマンとして、バングラデシュに行っていた和美さんが帰ってきた。和美さんはバングラデシュには数回訪れているが、今回は初めてチッタゴン丘陵地帯へ行った。

チッタゴン丘陵は以前、テレビで見たことがある。しかも少数民族がいて、仏教徒が多いとも聞いていた。

 

少数民族の州に入るには、前もって軍と警察に許可を取っておかなければならなくて、地域内では外国人を守ると言う名目で、小銃を抱えた警官が数人付き添ったそうだ。こういう経験は私にもある。カンボジアでのことだ。村に入る私たちの車に小銃を持った警官が乗り込み、車の前後も小銃を抱えた護衛がついた物々しさだった。まだポルポトが生きていた時代である。そういうことに慣れていない私にはいい気持ちではなかった。和美さんも同様だっただろう。

 

バングラデシュには13の少数民族がいる。マルマ、チャクマ、ラカイン、ムロン・・ジュマ民族と呼ばれている人たちだ。ジュマとは焼畑をおこなう人々と言う意味だ。少数民族は、当然言葉も文化も違う。顔立ちは日本人に近い。バングラデシュの人口の多くを占めるのはベンガル人だ、言葉もベンガル語だ。バングラデシュと私たちの係わり合いは和美さんが出かける以前、もう20年以上になる。バングラデシュは日本より小さな土地に日本より多い人が住む。ガンジス川の三角州に出来た国で、ほとんど山がない平地。よくサイクロンや洪水など自然災害に見舞われる。宗教はイスラムが圧倒的、ヒンドゥーや他がいる。独立したのは1971年、このときの報道はよく覚えてる。バングラデシュはアジアの最貧国のひとつである。

1947年、インドをはさんで東西に分かれたパキスタンが独立した。バングラデシュは東パキスタン。しかし、言語の違い、西パキスタンに偏った政策、公用語は西パキスタンのウルドゥー語、首都もイスラマバード等と言ったような政策から対立し、東パキスタンは西パキスタンから分離独立を求めて立ち上がり、内乱となった。インドが東パキスタンを支持し、印パ戦争で勝利したことも手伝って、1971年に独立し、バングラデシュとなった。

まぁ皮肉と言えば皮肉になるが、かつて西パキスタンがベンガルを軽んじたようにバングラデシュも多数派のベンガル系が、少数民族を同化しようとして、チッタゴン丘陵にベンガル人の入植者を送り込んでいる。パレスチナに似ている。少数民族も当然のこととして、自分たちの文化や言語を守ろうと抵抗する。そこで、不穏な状況があり、武装した警官が乗り込むということになっているようである。どこでも同化政策は反感をかう。

チッタゴン丘陵地帯の歴史もまとめておこう。その昔、イギリス統治下では、この丘陵地帯は保護され、開発は厳しく制限されていた。1947年、東パキスタンの時代、パキスタン政府はこの保護を取り消し、さらに1960年にはダムを作り、先住民の土地も家も湖底に沈んだ、しかし住民たちには何の補償もしなかった。これがパキスタン時代から50年、バングラデシュになって30年、いまだに尾を引いている。先住民は独自の文化も社会ももちながらもパキスタン政府には忠実であったにもかかわらず。 丘陵地帯は85%が山林。 識字率はバングラデシュでも低く、14.4%(1991年)。

抑圧されている少数民族の実情を知っていかなければならないだろう。

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