カメラウーマンとして、バングラデシュに行っていた和美さんが帰ってきた。和美さんはバングラデシュには数回訪れているが、今回は初めてチッタゴン丘陵地帯へ行った。
チッタゴン丘陵は以前、テレビで見たことがある。しかも少数民族がいて、仏教徒が多いとも聞いていた。
少数民族の州に入るには、前もって軍と警察に許可を取っておかなければならなくて、地域内では外国人を守ると言う名目で、小銃を抱えた警官が数人付き添ったそうだ。こういう経験は私にもある。カンボジアでのことだ。村に入る私たちの車に小銃を持った警官が乗り込み、車の前後も小銃を抱えた護衛がついた物々しさだった。まだポルポトが生きていた時代である。そういうことに慣れていない私にはいい気持ちではなかった。和美さんも同様だっただろう。
バングラデシュには13の少数民族がいる。マルマ、チャクマ、ラカイン、ムロン・・ジュマ民族と呼ばれている人たちだ。ジュマとは焼畑をおこなう人々と言う意味だ。少数民族は、当然言葉も文化も違う。顔立ちは日本人に近い。バングラデシュの人口の多くを占めるのはベンガル人だ、言葉もベンガル語だ。バングラデシュと私たちの係わり合いは和美さんが出かける以前、もう20年以上になる。バングラデシュは日本より小さな土地に日本より多い人が住む。ガンジス川の三角州に出来た国で、ほとんど山がない平地。よくサイクロンや洪水など自然災害に見舞われる。宗教はイスラムが圧倒的、ヒンドゥーや他がいる。独立したのは1971年、このときの報道はよく覚えてる。バングラデシュはアジアの最貧国のひとつである。
1947年、インドをはさんで東西に分かれたパキスタンが独立した。バングラデシュは東パキスタン。しかし、言語の違い、西パキスタンに偏った政策、公用語は西パキスタンのウルドゥー語、首都もイスラマバード等と言ったような政策から対立し、東パキスタンは西パキスタンから分離独立を求めて立ち上がり、内乱となった。インドが東パキスタンを支持し、印パ戦争で勝利したことも手伝って、1971年に独立し、バングラデシュとなった。
まぁ皮肉と言えば皮肉になるが、かつて西パキスタンがベンガルを軽んじたようにバングラデシュも多数派のベンガル系が、少数民族を同化しようとして、チッタゴン丘陵にベンガル人の入植者を送り込んでいる。パレスチナに似ている。少数民族も当然のこととして、自分たちの文化や言語を守ろうと抵抗する。そこで、不穏な状況があり、武装した警官が乗り込むということになっているようである。どこでも同化政策は反感をかう。
チッタゴン丘陵地帯の歴史もまとめておこう。その昔、イギリス統治下では、この丘陵地帯は保護され、開発は厳しく制限されていた。1947年、東パキスタンの時代、パキスタン政府はこの保護を取り消し、さらに1960年にはダムを作り、先住民の土地も家も湖底に沈んだ、しかし住民たちには何の補償もしなかった。これがパキスタン時代から50年、バングラデシュになって30年、いまだに尾を引いている。先住民は独自の文化も社会ももちながらもパキスタン政府には忠実であったにもかかわらず。
丘陵地帯は85%が山林。
識字率はバングラデシュでも低く、14.4%(1991年)。
抑圧されている少数民族の実情を知っていかなければならないだろう。