Cogito

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忘れられた恩人

2016-05-30 18:10:05 | 日記
Nちゃんが胎中さんの写真を撮って送ってくれた。

ほかの人から聞いた話だと、胎中さんの石像は石の広場のトイレの後ろの山側に目立たないように立っているということだった。
なるほどね、放っておかれていることがよくわかる。そして碑文は草に紛れて読めない。それ以前に草に覆われ行きつけない。
これは教育委員会の管理かね、観光課の管理かね。
それにしても、真鶴町民は、亡恩の徒だねぇ。私も含めて。
石の広場でイベントはしているだろうに。
ちょっとぐらいきれいにしてもいいのにねぇ。

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片付けてます

2016-05-28 14:50:14 | 日記
鈴鹿市文化財課から丁寧な礼状が届いた。送った書籍をきちんと整理して出版社並びに発行年まで記入してある。数えもしないで送ってしまったが、全部で18冊あった。資料館と重複するものは図書館においてくれる等。どちらにしてもありがたいことだ。

真鶴広報に広告が出ていたので、観魚堂という古本屋さんに電話してみた。今日、見に来るというので待っていると、ご夫妻が見えた。なんとKさんの娘さん夫妻だった。知り合いとなればやはり安心。一応以前かまわずケースに突っ込んでおいた文庫本、新書、そして文学全集、などなどから持って行ってもらった。それでも本棚2段分。思い出のある本などありますか、と聞かれた。もちろん自分で買った本だからすべて覚えているし、それにまつわる思い出もる。残して置きたいかと言われれば心残りはある。しかし、もう細かい字は読む気がしない。本はすべて値段が付かないから引き取りだけだという。そのつもりだったからいいが、ならできるだけ人に上げよう。次は来週の土曜日に来るという。今度は残す本、出す本と分けておこう。洋書は、特に英語本はネパールに上げよう。

片付けたこともない椅子をどかすと、下の段にレコードを発見。捨てた覚えはないが、さりとてしまった覚えもないレコードの数々。こんなところにあったんだ。猫のおしっこがかかり悲惨な状態のものもある。レコード、どこか引き取ってくれないかな、とネットで探すと、近場では渋谷にエコストアというのがあった。電話をすると、LPは40枚以上、CDは80枚以上なら着払いで受け取ってくれる言ったが、分野はクラッシクだというと、クラッシクは今ははけないから、という返事。送料を自前で送れば引き受けてくれるか、と聞くとそれならOK,ということだった。なんか古物法ができて、送る側も提出書類を書いて、身分証明が必要なのだそうだ。その書類W送ってくれるという。数えると62枚あった。とりあえず段ボールに押し込んだ。

捨てるまでも辞書類を段ボールに入れた。大きな段ボールがいっぱいになった。語学は趣味だから、珍しい辞書もかなりある。
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チャレンジディ

2016-05-25 23:22:32 | 日記
去年に引き続いて今年もチャレンジディに参加した。笹川財団がかかわっているようなものに、まして費用はあちらもちだからなおこそ好意的ではないが、イベント好きの町長がやっていることだし、水曜日は工芸室にいることだしと、今年も中庭でラジオ体操1,2と生き生き体操をした。ユニホームを着た体育指導員たちがずらっと並んで手本を示してくれたので、ばあさんが張り切って目一杯やったはいいが、そう、まだ年の割には体は柔らかい、日ごろ使わない筋肉を使ったので、あとでそれがひびいた。疲れも出た。家に戻りお昼を食べ、会計を済ませ、丸二に注文を入れ、明日の予定を立てると、あとは椅子に掛けたまま寝てしまった。

今年の対戦相手は岩手県葛巻町、強敵のようである。役場が「何時現在の参加者数は何人」と放送しているのを聞き、広報で人口を調べ、%を計算し、今年は対戦相手にはかなわないだろうと予想した。
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佐佐木信綱さん

2016-05-19 17:43:50 | 日記
 説明するまでもなく、国文学者で、歌人のことである。プチ ラルースで信綱さんが登場したので、その続きで信綱さんの書籍の整理をしてみようと思い立った。我が家には信綱さんの本がかなりあるはず。本棚は二重に本が置かれているので、後ろに行ってしまった本の所在がわからない。あっちの本を引き出して後ろを見たり、こっちの本を引き出して、はと探すと、まとまって信綱さんの本が出てきた。15,6冊、いやもう少しあるだろうか。本棚に立ててあるだけなのだが、それでも本はシミや埃で汚れている。万葉集や万葉辞典はよく使ったが、ほかの歌集や著書は手つかずのものも多い。ほとんどは信綱さんから直に頂いたものである。

 佐佐木信綱記念館を探すと、三重県鈴鹿市にあった。そこで本をもらってもらえないかどうかメールをした。市の文化財課が電話で対応してくれ、本をもらってもらえることになった。今朝のことだ。佐佐木信綱さんの思い出も添えてほしいというので、急いで思い出をまとめて、宅急便で送った。これで昨日に続き、ふた仕事終わった。まだまだ本はたくさん残っている。できるだけ役に立つところにさし上げたい。

下は書籍に添えた説明文↓


 佐佐木信綱さんのこと

 私は熱海生まれの熱海育ちである。今は真鶴町に住んでいるが、真鶴岬には佐佐木信綱さんの
「真鶴の 林しづかに 海の色の さやけき見つつ わが心清し」という歌碑がる。

 「佐佐木信綱」という名前を覚えたのは小学校6年生のとき、授業で文化勲章を取り上げ、文化勲章が制定されたのは、私たち6年生の生まれた年という説明があった。そして「熱海に文化勲章受章者が何人いるか調べてきなさい」という宿題が出た。当時、熱海にお住いの文化勲章受章者は6人、そのおひとりが信綱さんだった。再び「その方々がどういうお仕事をされたのか調べてきなさい」という宿題が出た。ここが子どもである。直接、お宅を訪問して本人に聞いてしまおう、ということになった。そこで初めに伺ったのが学校から近かった徳富蘇峰宅だった。そのとき蘇峰さんはご病気で臥せっていられたのだが、子どもたちに会うために、着替えをして玄関まで出てきてくださった。お話は伺えなかったが、気をよくした子どもたちは「明日は佐々木信綱さんちに行こうね」と家に帰り親に報告した。驚いたのは親たちと教師だった。結局、以後、受章者宅の訪問は禁じられてしまった。だからその時は信綱さんにはお目にかかれなかったが、すぐ信綱さんは私たちにはなじみの深い方となった。熱海中学校(当時は1市一校)の校歌を作ってくださったからである。もちろん信綱さんの和歌は、教科書でずいぶん暗記したものだ。

 西山の信綱邸にお使いに行くようになったのはいつからだろう。物腰もお話しぶりも優しい方だった。いつも和服を召していられた。伺う度に先生は、「万葉集が○○語に翻訳されましたよ」と嬉しそうにお話しされていた。私が語学が好きなことを覚えていてくださったからである。そして帰りにはいつもご本を下さった。ここにある多くはそのとき頂いたものである。大学のとき、「田中館博士がローマ字で書いたご本人の和歌ですよ」と折本を頂いた覚えはあるが、どこかに紛れ込んでしまったらしくそれは見当たらない。
先生からの手紙は、能筆なうえに、万葉仮名で書かれていたのでほとんど読めなかった、でも、いつも横にカナがふってあったのを覚えている。
先生が亡くなって、西山のお宅でのお別れには、父が亡くなったのは先生が亡くなった翌年、すでに病で臥せっていたので、私が代わりにお別れに行った。榊を供えた記憶がある。

 今年、何十年ぶりに西山の旧宅「凌寒荘」の前を通った。凌寒荘は開館されている。よくうかがった日々が思い起こせて、とても懐かしかった。

註:私たちは信綱先生を親しみを込めて「信綱さん」とよんでいる。
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プチ ラルース

2016-05-17 19:26:23 | 日記
本棚の羅仏辞書の隣にかくれるようにプチ ラルースがあった。背表紙の印字が消えかかっていたのでわからなかったのだ。
プチ ラルースは、フランス人が子どもに与える最初の国語辞典と言われている。

このプチ ラルース、50年以上前、学生だった私が英文学科のクラスメイトのおばあさまから頂いたもの。おばあさまは、航空工学、というよりローマ字の創設者として私たちにはなじみ深い、田中館愛橘さんの一人娘である。

 私の両親は熱海にお住いの文化人たちとの交流があった。そのおひとり、国文学者で歌人の佐佐木信綱さんのところには私がよくお使いで行っていた。おばあさまは若いころ信綱さんとお知り合いだったとかで、お会いしたいと言われ、母が手はずを整え、おばあさまを西山の信綱宅へ案内した。戻ってきたおばあさまは信綱さんとお話ができて、とてもたのしかったとよろこんでいた。帰られたあと、母が笑いながら「先生(信綱さんのこと)とおばあさまとの会話、とてもついていけなかったわ。だって鹿鳴館の話なのよ」と。おばあさまも信綱さんも鹿鳴館に出入りしていた紳士淑女だったのである。
「田中館さんはとてもお美しくて、若い男性のあこがれの的でしたよ」と信綱さん。
「先生だって、とてもハンサムでいらして、ご婦人たちがあこがれておりました」なんて会話がなされたそう。ほほえましい限り。
確かにおばあさまはお年を召してもかわいいお顔で、若かりし頃はさぞやと思える品のいいお顔立ちだった。

 その日、お土産で頂いたひとつに、プチ ラルースがあった。「古いものだけど使ってね 」と一言がついて。さっそく本を開くと、当時の日本の辞典にはないような、カラーつきの挿絵も入ったきれいな辞典だった。喜んだのはいうまでもない。辞典を開いては、関心のある項目を読んでいた。ただ一つ難点があった。それは愛用されていたので、表紙がかなり傷んでいたことである。
そこで、同じくクラスメイトのお父上が、製本の仕事をなさっていたので、表紙を直してくれるように頼んだ。返ってきたプチ ラルースは、シンプルな装丁になっていた。私が学生だからと心して、実用的なものにしてくれたのだろう。

 プチ ラルースそのものは珍しいものではないが、この一冊の本には愛用していた人の思いと時間が詰まっている。そこでクラスメイトに連絡を取り、この本をお返ししたいが受け取ってもらえるかどうかきいてみた。承諾を得て、本は、50余年ぶりに、元の持ち主のご家族のもとに帰る。「よかったね」と本に話しかけながら、一番ほっとしているのは私である。


 
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