自然災害がこれでもかこれでもかと日本列島を襲っている。古来から、自然災害に人間はただ恐れおののいて逃げるしかなかったが、機械文明の進んだ今でも本質は変わらない。自然災害も、人間をあざ笑うかのごとく巨大化し、強力化している。
昨日の朝、いつものように散歩から帰ったPapasanが「ゴータマが腰を抜かした」と言って、犬の尻尾を持ち上げて歩かせてきた。ゴータマは10歳。コリーの平均寿命は10年といわれている。もっとも我が家の先輩コリーたちは14年生きたが。「ほう、いよいよですかね」
私も手伝って、やっと段差を持ち上げて家に入れ、寝室に連れて行った。そこにしか我が家はエアコンがない。そのエアコンも故ネフェルティティのために買ったものだ。だから10年以上使っていることになる。もっとも冷房嫌いの私は、近づかないし、お世話になることはない。
年に加えてメタボなので、後ろ足が弱っているようだ。動けなくなったのは幸い、食事制限しよう、ネフェルティティが動けなくなって食事制限して10kg減らした。ゴータマにも適用しよう。夕方、客が来たとき、ゴータマが歩いて出てきた。「おっ、ゴータマ。歩けるようになったじゃ~。よかったね」
夕食時、パスカルが台所に来たが、ゴータマは来なかった。餌を出して、ゴータマと呼んでも来なかった。食べに来ないなら、食べさせない方がいい、とそのままにしておいた。
10時ごろ、Papasanがゴータマがいない、と騒ぎ出した。懐中電灯をもって、私も庭を捜したが犬の姿は見えない。Papasanは足がふらつくし、私も歩くのは苦痛だ。息子を呼びに行ってもらい、探してもらった。なんと下のうちの庭に落ちているという。トイレに行って、ずり落ちたみたいだ。あの大きな重い犬を運んでくることは出来ない。幸いまだ前に和美さんがいたので、Papasanが車を出し、息子と和美さんの二人が犬を板に乗せて、助け出した。キャスターに乗った、とんだお神輿がやってきた。二人が板を持って家の中に入れてくれた。外傷はないみたいだ。「落っこちたとき、泣いたのかなぁ、耳が悪いから聞こえなかったよ」
今朝、Papasanが朝倉医院に診察に行った。二匹の犬がいつものようについていった。歩けるなら歩いた方がいいかも、とそのままにしておいた。そのうちどこからが犬のなく声が聞こえた。どうもゴータマの泣き声のように聞こえる。ゴータマは階段の下でPapasanを待っている筈だが、見に行ってみようかと窓からのぞいていると、息子が来て、下の段にゴータマが動けなくなっている、と言った。あのバカ犬奴、なんだってあんなところに行くんだ、帰れないくせに、と私が怒っている。ちょうどPapasanが帰ってきたので、ゴータマをつれに行ってもらった。崖を足を滑らせて落ちたのではないかというが、分からない。我が家は段差が多く、年寄りの人間にも犬にもしんどい。今朝は昼間だから、まだ何とかなったが、それだって下に落ちたら、私たち二人では連れてこられない。「もう大型犬は飼えないよ」とPapasanに念を押すと「よ~くわかった」と素直にうなずいた。これだって老老介護だ。
ウチのニワトリたちは外より家の中が好きである。小屋が家の中にあるからニワトリたちには当然のことなのだろう。「お前たちは庭鶏なんだぞ、家鶏ではないぞ」と怒鳴っているが、言ってみたところではじまらない。
総勢12羽。集まると壮観である。リーダーはアローカナの交配種であるアルファ。その座を追い払おうと争いを持ちかけているのがアルファとチャボオバサンとの雑種、エンデ、だから体はチャボ並みだ。でも喧嘩は強そう。ニワトリ並みの大きさのは3羽。アルファ、ペンタ、ピコ、これは卵屋さんの卵をオバサンが孵化したものである。後はオバサンの卵。ヤングママのトキとロッソが孵した4羽以外は全部このオバサンが孵したものである。
↑左からウノ、ドス、顔の黒いのがトレス、右クアトロ。
ヤングママが置き去りにしたウノ、ドス、トレス、クアトロは親離れでき、いつも4羽いっしょに行動している。ウノとドスが孵ったのは5月31日。2ケ月になる。いろんな血が混じっているらしくウノは灰色、ドスは白だが、二羽ともダチョウみたいに羽がもこもこしている。チャボの卵だから小さい。家の中をすっ飛び歩いている。「お前たち、食用鶏だったら、50日で殺されちゃったんだぞ。外の世界も、恋も知らず、食べて太っての50日なんだぞ」
ブロイラーという品種の鶏はいないが、一般にブロイラーに供される食用鶏は、孵化して50日の命。年間国産だけで6億羽の鶏が殺されている。輸入品は含まれない。食肉用鶏は4週で2.8kgに成長する。3kg以下で出荷。歩留まり2.1kg。ヒナから成鶏になるまでの生存率は97%、死亡率は低い。食べられるためにのみ生きている、そのために改良された、まさにニワトリ哀歌である。いや牛も豚も鶏も馬も、経済動物といわれるものはほぼ同様の一生である。一方、私たち、食べる方は、命を頂いているという意識はゼロに近い。
ついでに卵用鶏は孵化後、6ケ月で必ず卵を産みはじめ、丸2年を待たずに廃棄される。これはもったいないが、人間用の食肉にはしない。聞くところによると、廃棄の方が経済的なのだそうだ???
トレスとクアトロもややもこもこ羽。6月9日孵化。でも大きさはウノとドスよりひとまわりし小さい。大鶏たちにいじめられるので、いつも4羽かたまっている。
6月23日、最後に孵ったオバサンの子、シンコ ♀みたいだ。オバサンも子離れした。ところがシンコ、親離れ出来ないらしく、昨日から人間にくっつき始め、人間のそばを離れない。なんと抱っこして寝る。子猫みたいだ。座っていることが多いのでPapasanにくっつけた。Papasanがちょっと離れてもピーピーなく。
親がいなくて人間が育てたのなら話は分かるが、子離れまで親に、感心させられるほど、実に面倒見よく育ててもらったヒナが、しかも親にくっついていたときは人間との接点はなかったのに、もちろんそうとはいえ人間になつくのは珍しくはないが、人間に育ててもらったかのように人間子になるのは異例である。寝かせるために籠に入れ、カバーをかぶせたのだが、ピーピーうるさいので、Papasanが行って、頭を撫ぜたらおとなしくなった。なんだ、これ。変なの?今は甘やかせているがこの後どうしたものか、思案にくれている。
6月と7月、続けて同じような激痛体験をした。立て続けに2回も経験すると、あの激痛はなんとも耐えがたいが、なんとか付き合う術を少しばかりは学んだようである。
今回の激痛が起こったのは先週の土曜日、一週間になる。激痛時は、鎮痛剤を飲んでも痛みはおいそれとは収まってくれなかったが、それでも日柄もので、一週間経つと、腰に痛みは残ってはいるが、激痛はおさまった。一応、経過を次のために記録しておこう。
16日(土)、起きたとき、腰の様子がおかしかった。家事を済ませ座ったら、激痛で動けなくなった。鎮痛剤を飲んだ。自分の体なのに、意思どおりに働かないのは辛い。痛いのを我慢して、かなり強制的に動く。痛みが和らいだので、ケーキを3ケ仕上げた。肉が届くので、起きて待っていた。
17日(日)、ベッドから出るのに1時間かかった。鎮痛剤が効かないようなので、朝晩2回のものを6時間経ったので、もう一錠飲んだ。でも変わらない。薬屋に問い合わせると、使い方を間違っている、朝晩食後1錠はその通りに飲まなければいけないと教えられた。とにかく、ケーキを仕上げてしまおう。立っている分には同じ姿勢なので辛くない。疲れたときは椅子に浅く腰掛けた。
夜中近く、Papasanが北海道から帰ってきた。これでひとまず安心。
18日(月)、海の日のパーティ。台風を気にしていたが、今日は大丈夫そう。
向こうへ運ぶものは夕べのうちに準備したので、今朝はロースとビーフを焼くだけ。もっとも2kgの肉と野菜を乗せた天板をオーブンの中に入れられなくて、Papasanに頼んで入れてもらった。重いものはまだダメなようである。椅子に座ったままの出席。口だけは相変わらず元気。久しぶりにみんなと会えてたのしかった。
19日(火)台風の余波で雨が激しく降る。鎮痛剤が無くなってしまったので、厚生年金病院にいってみようと思ったが、上に行くまでにぬれてしまったので、診療所へ出かける。 今日は外科はお休みなのは承知していた。窓口でその旨伝えると、一応診察の番を待って、先生に薬を出してもらってくれといわれ番を待っていた。今日は唯一の内科の診察日。だからいつになく混んでいる。まぁ。承知の上だからしかたがない。処方箋を出してもらい、セイジョウで薬を買って、そのまま家に戻った。
子ども陶芸の依頼書がいまごろ、しかも夕方になって届いて、打ち合わせが出来ていないことに腹を立てて、あちこちに電話している。なんと今年の子どもの数は109人。定員は80人だ。明日、粘土を100ケ作っておこうと思ったら、120は作らなければならない。
20日(水)、今日は窯詰めだ。窯詰めは午後からなのだが、子ども陶芸の担当に文句を言うため午前中から出かけた。でも係りが先に来て、話が出来たので、うふふ、怒鳴らずに終わった。来年からは定員にしてほしい旨を伝える。以前の担当はくじ引きで自分で引かせて入れていた。くじに当たらなくて、あぶれた子供は数人いたので、数人なら、何とか救済してやって、と私が親心を出したのがいつしかに定員をはるかにオーバーするようになってしまった。本当なら夏休みの子ども陶芸は誰もやりたくはない。冬ならまだしも。私はこの公民館事業が始まる時からかかわっているから知っているのが、担当は代わるから、はじめはまったく知らない。だから陶芸を粘土遊びぐらいの認識しかない。職員の引継ぎもちゃんとは行っていないようだ。新しい人の時には、基本を教えておかなければいけないと思ったしだい。
腰が痛いので、窯詰めはまかせて、お昼で帰った。
21日(木)、台風の影響で、涼しい。いや寒いくらいだ。長袖は全部片付けてしまった。夜毛布を出した。
22日(金) 一応、厚生年金病院で整形外科の診察を受けた。初診だから待たされるだろうと覚悟して、本を持っていった。診療所で見てもらい、薬もベルトも出してもらった旨は伝えた。同じくレントゲンを撮り、脊椎と腰椎の境目の骨が3mmほどずれている。すべり症。で神経が刺激されて痛いのだと説明を受けた。年なんだそうだ。腰骨を支える筋肉が衰えてきたので、骨がずれるので、腰椎体操をして、筋肉強化を図るしか方法はないといわれた。痛くなったときは対処療法で、鎮痛剤を飲み静かにしているくらいなものだそうだ。
「ツイヘルは?」と聞くと、「この年ならもう大丈夫。あれは若い人の病気」、「あら、そうなんですか」
実情はわかった。てなことは、腰椎体操はするにしても、即効性はないだろうから、また再発するんだ。あの痛さ、いやだなぁ。そのために鎮痛剤は常備しておこう。
買い物にあちこち回ってきたので、些か疲れた。
23日(土)、再発から一週間。夜の薬をやめた。明日起きて痛ければまた飲むにしても。
ipad用のwordを買った。PCの方には簡単に入ったが、ipadにインストールするのが出来なくてそのままにしてあったのだが、またまた時間がかかった。新しいことをするのにはいつも初めはおたおた。でもやって、うまくいけば簡単。そのプロセスがいつも大変なのだ。
24日(日)、おそるおそるベッドから起き出す。大丈夫だ。もちろん痛みがなくなったわけではないが、激痛は収まっている。よし、薬はここで中止しておこう。
激痛が治まったから、どっかへ出かけようなんてのんきなことを言っている。しかし今週は忙しい。とてもよそには行かれない。まっ、気分ね。
金曜日はなんでもなかったのに、土曜日の朝、起きたとき腰に違和感を覚えた。あやしい。窓を開け、鶏を出し、ヒナたちを籠ごと外に出そうと思っていたのだが、腰に力が入らないから、もてそうもない、とあきらめて、椅子に座った。激痛が来た。前のぎっくり腰と同じ症状だ。まずい。これから忙しくなる。やっとの思いで、立ち上がり、鎮痛剤を持ってきた。前のぎっくり腰のときにもらった鎮痛剤を取っておいたのである。鎮痛剤を飲めば何とかなると、余裕さえあった。薬を飲むのに空腹ではいけないと、湯を沸かし紅茶をいれ、牛乳をたっぷり加えて、パンを食べた。そして薬を飲んだ。効くのに1~2時間かかるだろう。まだ早いから横になっていよう。ところが横になると、もう動けない。寝返りどころか、体も動かせない。寒いから夏がけをかけたいと思っても、それが出来ない。一人暮らしとはこういうことなのだろう。いやはや大変だ。
猫には餌をやったが、犬にはやってない。腰をかがめるのが出来ないからだ。