Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円) |
誰であっても、何をするか、何をしたかの自分は、例え親の庇護のもと生活をしていても、あるいは親の言動の影響を受けることはあっても、本質のところでは父親や母親の存在や人格とは独立した自分独自の存在、自分独自の人格を形成していくことになって、何をするか、何をしたかの行動自体は自分の姓と名前を一体とさせた一個の存在、あるいは一個の人格に基づいて行われていることになり、それらの総合が自分なりに独自な経験として積み重ねられていき、個人としてのアイデンティティを築いていくという成長の過程を辿る。
要するに同姓夫婦の子どもであり、当初は親の影響は受けていても、あるいは異姓夫婦の子どもであり、同じく当初は親の影響は受けていても、どちらの子どもであっても、本質的のところでは与えられた自分の姓と名前を一体とさせた一個の存在、一個の人格として行動することになり、自らのアイデンティティを成り立たせていくことになるが、その場合、名字より名前の方に自分は自分というアイデンティティの基礎を置くことになるだろう。
断るまでもなく、兄弟姉妹を含めた家族の中で自分を周囲とよりよく区別することができるのは姓よりは名前だからである。
例えば児童養護院に預けられた子どもが親の姓と自身の名前で生活していたとしても、ある年齢で養子縁組をして、養子先の親を自分の親として受け入れることができた場合、養子先の姓と自分の名前を一体とさせた一個の存在及び一個の人格として行動していくことになるが、やはり変わらないものとして自分の名前により重点を置いて行動していくことになるだろう。
つまり誰であっても、どのような姓であったとしても、自分自身の名前により重点を置いた、その姓と一体とさせた一個の存在、一個の人格として行動することになり、自らのアイデンティティを獲得していくことになる。
民法750条「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」を、「夫婦は、夫又は妻の氏を称するか、夫の氏又は妻の氏をそれぞれ称する」と改めさえすれば、後者の場合、子どもは夫又は妻の氏のいずれかを名乗ろうと、その姓は付与されたものとして自身の名前と一体とさせた行動を取り、行動に応じた経験を積み、経験の総体がアイデンティティの形成への取っ掛かりを作っていくことになる。
夫婦別姓の親は子どもに、「僕の、あるいは私の名字はお父さんと、あるいはお母さんと一緒だけど、お父さんと、あるいはお母さんと違うのななぜ」と聞かれる物心つく前から、あるいは「僕の、あるいは私の名字がほかの兄弟(姉妹)と違うのはなぜ」と聞かれる物心つく前から、法律で認められた夫婦別姓であること、子どもは父親か母親の名字を名乗らなければならないこと、例え一方の親と名字が違っても、兄弟姉妹と違う名字であったとしても、与えられた名字と名前で、名前により重点を置いた一人の人間として自分という存在を生かしていく点については名字の違いは問題ないということ、何をしたいか、何をするかの自分は与えられた名字と名前で行動していき、その行動によってほかの人間との違いが出てきて、それが生き方の違い、何をし、何を成し遂げるかの違いとなって現れるのだから、一方の親との名字の違いや兄弟との名字の違いが自分の生き方を根本のところで決めるわけではないといったことを噛み砕いた言葉で繰り返し言い聞かせて、やがて理解できるようにしていかなければならない。
その理解がゆくゆくは誰もが自分自身は本質のところでは父親や母親の存在や人格とは独立した自分独自の存在、自分独自の人格を形成していて、何をするか、何をしたかの行動自体は自分の姓と名前を一体とさせた一個の存在、あるいは一個の人格に基づいて行われていること、それらの総合が自分なりに独自な経験として積み重ねられていって、個人としてのアイデンティティを成り立たせていくんだという道理に到達することになる。
そしてこういった理解と道理を子どもに求めていく夫婦別姓を選んだ親自身の努力が子どもに対して自律心(あるいは自立心)を促す教え、あるいは教育そのものとなるだろうことは容易に想像できる。
自律心(あるいは自立心)の育みに向かわせる教え諭しが主体性や責任意識への育みを共に伴走させる。
このように考えると、夫婦同姓の親が子ども共々同姓であることを長い歴史を引き継いだ当然の慣習と見て、そのような慣習の上に安住しているのに対して夫婦別姓の親が子どもに一方の親や兄弟で姓が違うことを理解させるために尽くす言葉の数々は却って高度な教育の形を取ることになるのだから、その利点は自らのアイデンティティを守ることに劣らない、子どもに向けた教育価値を有していることになる。
大体が安倍晋三や高市早苗等、保守派の別姓反対の急先鋒が家族の一体性を同姓に求めること自体が、形だけを求める安っぽい形式主義に過ぎない。