憲法改正は天皇を国と国民統合の象徴から外すことから 安倍晋三等の天皇絶対視の政治利用に終止符を打ち、国民の自律性認識のため

2019-01-07 10:54:20 | 政治
 
 安倍晋三は自著『美しい国へ』で、日本国歌「君が代」について次のように述べている。

 「『君が代』が天皇制を連想させるという人がいるが、この『君』は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか」

 「『君』は、日本国の象徴としての天皇である」と言っているが、「君が代」が天皇を頭に戴いた明治中頃から軍部独裁の戦前まで日本国歌とされていた事実は過去に於いて絶対君主としての天皇を「君」に位置づけていた何よりの証明であって、それを戦後の時代に限って「『君』は、日本国の象徴としての天皇である」とするのは安倍晋三特有の日本の歴史を良く見せようとする歴史改竄に過ぎない。

 「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」と言っている。より具体的な意味付けは2009年2月11日の明治神宮会館で開催の「建国記念の日奉祝中央式典」に於ける安倍晋三のスピーチに現れている。
 安倍晋三「よく『国柄、国柄』と、こういうことを議論することがあるんですが、私たちの国柄は何かと言えば、これはもう、古来からの長い長い歴史の中において、日本人の営みの積み重ねの中に自然に出来上がってきたものが、私は、『日本の国柄』ではないかなと思うところでございます。
  
 日本の歴史というのは、言ってみれば、いわば、つづら織りのようなものでありまして、タペストリーですね。

 この長い歴史をそれぞれの人々が個々の歴史を積み重ねる中で、全体のつづら織りができあがってきたわけでありますが、やはり、真ん中の中心線というのは、わたくしはそれはご皇室であろうと、このように思うわけであります。(大きな拍手)
  
 そしてそれはまさに、一本の線で、ずーーっと古来から今日までつながっている。 ここが諸外国とは大きく違う点であろうと、わたくしは思います。

 日本と外国との違い、たくさんあります。また、外国の王室との違いも私はある、と思います」――

 日本の歴史の中心線は皇室であり、それが「古来から今日までつながってい」て、それが日本の「国柄」だとしている。天皇なくして日本の「国柄」は成り立たなかったことになる。

 この考え方だけで天皇絶対視の思想を窺うことができる。

 中心があり、外縁がある。いわば中心を主とし、外縁を従としている。と言うことは、日本国の歴史の主役を歴代天皇に置いて、歴史の脇役は国民、皇室を日本の歴史の主宰者と見做す国家観となる。そして「ここが諸外国とは大きく違う点」だと言っている。

 この考えからは天皇絶対視の思想だけではなく、諸外国よりも日本を上に置く日本民族優越意識の否応もない存在を見ざるを得ない。

 大体が日本の歴史の大枠をつくってきたのは天皇ではない。何度もブログに書いてきているが、物部氏から始まって、それ以降、歴代天皇を頭に戴いて権力を実質的に握ってきたのは蘇我氏、藤原氏、平家、源氏、足利、織田、豊臣、徳川、明治に入って薩長・一部公家、そして昭和の軍部であった。日本の歴史は常に権力の二重構造を描いていた。大日本国憲法は天皇に陸海軍に対する統帥権を与えていたが、有名無実に過ぎなかった。昭和天皇は日米開戦に反対だったが、決定権はなく、軍部が握っていて、開戦を決定した事実は権力の二重構造の最たる象徴となる。
 
 安倍晋三の天皇絶対視の思想を露わにした発言はほかにもある。2012年5月20日の日テレ放送「たかじんのそこまで言って委員会」
 安倍晋三「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。

 この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになるのであって、天皇・皇后が何回も被災地に足を運ばれ、瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げられた。あの姿をみて、多くの被災地の方々は癒された思いだと語っておられたでしょ。あれを総理大臣とかね、私たちがやったって、それは真似はできないんですよ。2000年以上に亘って、ひたすら国民の幸せと安寧を祈ってきた、皇室の圧倒的な伝統の力なんですよ」
皇室が存在しなくなったなら、「日本という国はバラバラになる」――
これ程までに皇室を絶対視し、天皇なる存在を絶対視している。但し天皇を絶対視することによって、相互対応の関係上、国民の自律性の否定にまで走っている。絶対権力者が国民を国家運営のコマとのみ定めて、その基本的人権の自由を縛るようにである。

 【自律】「他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動すること」「goo国語辞書」

 「自律性」とはこういったことの傾向を表す。国民それぞれが自ら進んで負うことになった社会的役割を自分自身で立てた規範に従って行動する確固たる自律性の滞りのない発露によって社会は回っていき、国は維持されていく。このような社会や国の成り立ちに皇室、あるいは天皇の関与はどれ程の意味も持たない。当然、自律性を失いさえしなければ、皇室に頼らずとも日本という国が「バラバラになる」こともない。

 だが、安倍晋三は皇室が存在しなくなったなら、「日本という国はバラバラになる」という天皇絶対視の思想を抱いている。国民を愚弄するにも程がある。

 安倍晋三はさらに「天皇・皇后が何回も被災地に足を運ばれ、瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げられた。あの姿をみて、多くの被災地の方々は癒された思いだと語っておられたでしょ。あれを総理大臣とかね、私たちがやったって、それは真似はできないんですよ。2000年以上に亘って、ひたすら国民の幸せと安寧を祈ってきた、皇室の圧倒的な伝統の力なんですよ」と世迷い言なことを言っている。

 確かに被災者の多くが心を癒すことができただろう。だが、精神的な足しにはなっても、生活再建の実質的な足しになるわけではない。生活再建の実質的な足しは自らの努力以外に政治と行政に負うところが多い。天皇に負うわけではない。自らの努力とは自律性の証明に他ならない。

当然、天皇がいくら「国民の幸せと安寧を祈」ろうと、実現されるべきその具体性は国民それぞれの自律性と政治と行政の総合力に負うのであって、些かも天皇に負っていない。天皇が祈ったから、政治と行政が頑張るということだったら、国民を脇役に置いて、天皇を主役に据えることになり、憲法が規定する国民主権に反することになる。

 天皇が祈ったから、国民それぞれが頑張るということだったら、ごくごく個人的な自律性なる規範を天皇に預けることになる。天皇が祈ろうが祈るまいが、自分は自分、自己は自己という態度決定こそが自律性の真髄と言える。

 「国民の幸せと安寧」が天皇の祈りによってその具体性を獲得し得るわけでもないのに獲得し得るかのようにその祈りが国民に与える力を「皇室の圧倒的な伝統の力」とする。この非合理性に安倍晋三は気づかない。大体が戦前型の天皇主義者であること自体が安倍晋三の非合理主義を物語って余りある。

 例えば天皇は2019年1月2日の皇居一般参賀で、「新年おめでとう。晴れ渡った空のもと、皆さんとともに新年を祝うことをまことに喜ばしく思います。本年が少しでも多くの人々にとりよい年となるよう願っています。年頭にあたり、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」(NHK NEWS WEB)とスピーチしている。

 日本が戦争状態にないことを以って平和であり、安寧だと片付けることはできない。世界の多くの国々から経済的利益を得て、かつては世界第2位の、現在は世界第3位の経済力を誇っている以上、世界の平和と安寧の構築に責任を有していることになる。

 だからこそ、天皇は「我が国」と併せて「世界の人々」の「安寧と幸せを祈」ったはずだ。だが、現実の世界は各地で紛争が起き、テロ等で治安が悪化、多くの市民が犠牲となっている。食べることも大事な要素となる命の維持を阻害しようとする様々な危険から守るために移民となって国外に逃れながら、その途中で移民として受入れられることなく命を落とす市民も数多くいる。

 このような現実は天皇の祈りが実現すべき具体性獲得の力を持ち得ず、常に祈りだけで終わる宿命を抱えていることを教える。祈りだけでは片付けることはできない世界の政治が果たすことができない「世界の人々の安寧と幸せ」なのだから、そのような宿命は当然だが、事実は事実とする合理性を失い、精神的な癒やしのみを以って祈る力を「皇室の圧倒的な伝統の力」だと天皇を絶対視する危険性に陥ってはならない。

 安倍晋三のような国家権力者が天皇を絶対的存在と見せかけることは国民に同じ意識を植え付ける作用を自ずと持つことになる。自分にとってだけ、天皇は絶対的存在だとしているとしたら、天皇に関わる数々の発言は意味を失う。同じ意識を国民に共有させたいがためにこそ、「皇室の存在は日本の伝統と文化そのもの」だとか、あるいは日本の歴史の中心に皇室を据えたり、天皇の祈りが具体性実現の力を持たないにも関わらず、国民に与える影響を「皇室の圧倒的な伝統の力」と持ち上げることになっているはずである。

 この天皇絶対視を国民に共有させたい意識こそ、天皇の政治利用に他ならない。いわば安倍晋三の天皇の絶対視の裏には天皇の政治利用が隠されている。アレフの幹部が麻原彰晃を絶対的存在と看做して、その絶対性を信者に共有させることで信者がコントロール可能となるように安倍晋三は天皇絶対視を国民に共有させることで、安倍晋三流の絶対視の範囲内で国民をコントロールしようとする政治利用である。

 このようなコントロールは既に戦前の日本で見てきた。国民は絶対的存在とした天皇の名の下、見事にコントロールされてきた。安倍晋三が戦前型の天皇主義者である以上、願望は戦前型同様のコントロールに近づけたいと思っているはずだ。

 日本国憲法第1章天皇 第1条は、〈天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。〉と規定している。だが、国家の統合と国民の統合は実質的には政治の自律性と国民の自律性の相互反映によって成し遂げられる。相互反映の総合が国の形となる。

 いわば日本の国の形は偏に政治の自律性と国民の自律性の相互反映にかかっているのであって、天皇をいくら絶対視しようとも、天皇にかかっているわけではない。象徴天皇の限界がここにある。

 だが、安倍晋三のような戦前型の天皇主義者は国の形の頂点に天皇を置こうとしている。

 自律性こそが全てであることを認識するためにも、安倍晋三の天皇絶対視を用いた天皇の政治利用に終止符を打つためにも、憲法改正は天皇を国と国民統合の象徴から外すことから始めるべきだろう。

天皇を象徴から解き放して個人的存在とすれば、如何なる政治的発言も政治的活動も自由となる。皇位継承も個人的な問題となって、自由に決めることができ、即位の礼にしても、大嘗祭にしても、皇室の行事として行うことができ、金をかけるかけないは自分たちで決めることができる。

 大嘗祭に27億円かけることも、かけないこともでき、誰からも批判されることはない。

 ゆくゆくは皇室から衆議院議員、あるいは参議院議員が生まれるかもしれない。もし首相になることがあったら、安倍晋三よりは大分マシな首相になる期待だけは持つことが出来きる。


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